青年と犬と暫しの休養
やっぱり戦闘はありません
そして徐々に掴めなくなっていく彼のキャラ
序盤とイメージが違う所があるやもしれませんが、単に設定が徐々に露わになっているだけ……と言って違和感が内容に書けてないから後付けにしか思えないね。駄文書き乙
そこそこ面積のある庭があった。地面は均された砂敷きの砂であり、母屋諸共塀で外界から隔絶されていた。また、隅には大きくて古びた土倉が一つぽつんと立っている。
他にも、主を失った犬小屋が一つ朽ちるがままに放置され、久しく洗濯者を干されていない物干し竿が物干し台と纏めて立ち尽くしている。一つだけ、プラスチックのカフで固定するタイプの洗濯ばさみが風で寂しく揺れている。
青年は犬小屋の屋根に腰を掛け、その洗濯ばさみを何となく眺め、日光を長時間浴びたり吹き晒しの場所にあるので酷く摩耗して劣化しているなと思いながら柔らかいペットボトルの中身を一口煽った。
しかし、リサイクルの為にとペットボトルはかなり柔らかく作られているのだが、今となっては分別する必要など無いので単に使いにくいだけでしかなかった。
口を濯いで口腔粘膜の潤いを取り戻そうとする青年の隣にカノンが寝そべり、興味を惹く物が何も無いからか大人しくしていた。時折青年の方を向いて、彼の顔色を気にしている。
カノンは聡明で用心深い犬だ。青年が安全だと断じて少し気を休めていたとしても、彼女はそう簡単には警戒を解かない。犬としての本能でもあるのだろうが、気を張りすぎると後が辛かろうに。
とはいえ、今まで外に出ると言う事は殆ど死体との殺し合いか、死体に怯えながらの物資探索ばかりなので、仕方が無いのかも知れないが。
彼女にとって安全な縄張りとは最早、青年の側かキャンピングカーの中にしか無く、動き続けるが故に新しい縄張りを作る事も出来ない。
掛け替えのない帰る場所を必死に護ろうとするのは、生き物として極めて自然な行動原理であろう。
青年は見返して、心配するなと言い、水のボトルを差し出して少しずつ水を流してやった。すると、カノンは下でそれを噛むように飲み始めた。嘗めるように飲む猫とは違って中々ダイナミックな飲み方である。
一頻り水を飲むと満足したのか顔を下げたので、青年は傾けていたペットボトルを戻した。人間よりは幾分燃費は良いだろうが、それでも水は全ての生き物にとって癒やしを与える。十分な水分を得たカノンは心持ち落ち着いているように見えた。
しかし、水が温い。冷蔵庫が無いから仕方がないのだが、たまにはよく冷えた水が飲みたい。外に放置すればいいのだが、持ち歩いていたらその内に温くなるので困る。
しかし、ふと見ると庭の端っこにある物を見つけた。ずんぐりとした鉄製の管が地面から生えており、それの先端が婉曲している。
井戸だ。最近はめっきり見なくなったポンプ井戸であり、青年は幼い頃にキャンプ場で一度見た事のあるだけの馴染みの無い施設であった。
そもそもインフラ整備が行き届き、水道管が各地に張り巡らされた日本では殆ど必要の無い物である。水道を捻るだけで水が出るのだから、態々汲む必要など全くない。
青年はペットボトルを置くと、井戸に近寄ってみた。地下水を汲み上げる井戸であろうか? 近くには桶も置いているので、土倉の彼等が生きていた頃は使われていたようである。
キッチンにはしっかりシンクもあるというのに、何故態々井戸を残したのだろうか。青年は不思議に思ったが、答えは最早永遠に分からない。干涸らびた死体の脳細胞の彼方に消え去ってしまっている。
ふと、頂点付近から生えているノブを押し込んでみる。金属同士が擦れ合う音と、空気の圧搾音が響き、微量ながら水が先端から零れ出た。
「おお」
呟いて、ノブを持ち上げて再び押し込む。先ほどより少し多くの水が出てきた。もう一度繰り返してみると、更に水の量が増えた。
何度か繰り返すと、かなりの量の水が一度に吐き出されてくるようになった。青年は置いてあった桶を軽く洗ってから、井戸水をそこに溜めた。
桶を洗った時に水に触ったが、水は素晴らしく冷たかった。冬の冷たい空気の中というのもあるのだが、手が切れそうな冷たさというが、正に冷たいというよりも“痛い”感じる程の冷たさだ。
桶に溜まった清浄で一点の不純物も無い水を眺め、少し匂いを嗅いでみた後で一口含んでみる。別に歯槽膿漏を患っている訳では無いが、歯茎が冷気に反応して頭の奥に響くほど冷たい。
しかし、水はかなり美味しかった。温んできた古いミネラルウォーターとは比べものにならない美味さだ。
ここぞとばかりに青年は井戸を使って水を出し、桶に溜めて今まで持っていたペットボトルにも水を注ぎ込む。後でキャンピングカーの中に保管してある空のペットボトルにも注いでおこう。ついでにタンクの水も補充してしまおう、少し工夫すれば直接流し込む事も出来るだろう。
良い物を見つけたなと思いつつ、青年はおもむろに顔を洗った。冷たさに思わず変な声が出たが、埃っぽい室内を彷徨いたり、土倉の中で悪い空気を吸い込んだのですっきりしたかったのだ。
そんな事をしていると、カノンが歩み寄ってきた。飲むかなと思って桶を差し出すと、少しだけ飲んだ後でそっぽを向いてしまった。ふむ、犬には些か冷たすぎたであろうか?
カノンはシベリアンハスキーである。元々寒冷地での生存に適した種類であり、犬ぞりなどにも使われている。寒さには元来強いのだろうが、好き好んで寒さに突っ込む訳では内容である。それでも暑さよりはずっとマシであろうが。
夏場のカノンは体毛の豊かさもあって、見ていてかわいそうになる程である。常に舌を出して温度低下に努め、車が動いてクーラーがついている間しかゆったりする事が出来ない。それに比べたら今はずっと過ごし易いはずだ。
しかし、タンクに水を汲むには車を近くまで寄せねばならず、車を持ってくるには塀を壊さなければならない。脆い板塀なので壊す事自体は簡単なのだが、少しだけ気が咎められた。
散々商店から略奪をしているのだから何を今更という話ではあるのだが、やはり今まで身についた社会的な慣習というのは中々抜けない物である。なにせ、信号を見ると未だに色を気にしてしまうのだから。
だが、今優先するべきは必要でも何でも無い善意より効率だ。後でドーザーを使って板塀を倒してしまおう。
その前に、他の場所も少し見ていくとしよう。あまり広くはない街だが、何か少しくらいは使える物もあるだろう。
「行くぞ、カノン」
青年はカノンを伴って庭を後にした。後でゆっくり戻ってくることにしよう。
表の通りに出て周囲を適当に眺める。大抵は今まで居た家と同じような雰囲気の日本家屋ばかりが並んでおり、あまり大きな家は立っておらず、マンションやそれに準ずるような高層建築物は一切見当たらない。
家は殆どが平屋の上に、時折見かける少し小さなアパートは相当古い。張りっぱなしにされ、雨でふやけた空室案内を見てみると、築45年と書いてあった。
青年は、自分の倍以上の年月を存在し続けた建物を見上げ、本当に開発から乗り遅れた田舎町であるようだとの感想を抱く。
二階の縁から干涸らびた腸らしき物体が幾つか垂れている気味の悪いアパート。二度と新しい住民を受け入れる事無く、そう遠くない未来に朽ち果てて崩れゆくかつての営みの亡骸の隣を、何の灌漑も無く青年はただ通り過ぎた。
それにしても、大きな建物が無いと言う事は即ち大きな商店にも期待は出来ないと言う事だ。別に食料にはまだ余裕があるのだが、今後長く使う事になるであろうカセットコンロ用のガスが欲しい。
他にもフラッシュライトの為に使う電池やキャンプ用の固形燃料なんかも欲しい所である。物資は幾らあっても困るものではない。
何か無い物かとふらふら通りを彷徨っていると、小さな看板が見えた。個人商店の古ぼけた看板であり、二カ所ある固定箇所の一部が経年劣化で外れ掛かっていた。
元々は鮮やかなオレンジ色をしていたのだろうが、それが日光や風雨によって褪色して今は斑の柿色になっている。シャッターは下ろされており鍵が掛かっていたが、此方もかなり古くて錆が浮いている。軽く鍵の機構部分を狙ってやれば……。
軽く気合いの声を放ちながら、機構部を狙って踵で蹴りを叩き込むと、シャッターが波打ちながら耳障りな金属音が鳴り響かせる。
普段ならこれで色んな所から死体共が寄ってくる所なんだがな、と思いつつしゃがみ込んで取っ手を握り、シャッターを持ち上げる。すると、思いの外抵抗なく開いた。やはり古いので壊れやすくなっていたようだ。
シャッターの向こうには磨り硝子の入り口があった。磨り硝子の向こうには広い土間の上に棚や小さな硝子張りの冷蔵庫を置いてある簡素な商店の姿がぼんやりと滲んで見える。
何というべきか。実際には地元に無くとも、どこかノスタルジーな気分にさせる作りをしていた。
引き戸に手を掛けてみると、此方は抵抗なく開いた。シャッターに鍵が掛かっていなければ内側は無くても良いかと思ったのであろう。
店内から軽く据えたような臭いが漂ってくる。生鮮食品の類いは無いが、菓子やらが腐って袋の中からはみ出ているのだ。棚を見ると、パッケージの中で一口ドーナツが液状化しているのが分かった。
カノンはそっぽを向いて入ろうとしない。流石に、必要が無ければ酷い臭いがする上に密閉された空間には入りたくないのだろう。
彼女の鼻は青年のソレよりずっと繊細だ。人間の犬に比べてずっと鈍感な鼻でも辛いのだから、カノンには例えようも無い程辛いはずである。普段は文句も言わず街に着いて来てくれているので、今はそっとしておいてやろう。
色々と物色してみるものの、食べられる物はあまり置いていなかった。この場合の食べられる物、とは味の善し悪しでは無い。腐っておらず、胃に入れれば栄養になる物の事だ。
大抵の食品は賞味期限どころか消費期限を過ぎて腐っているし、マシな物も幾許かの菓子や袋のインスタントラーメンが残っている程度。だが、無いよりはマシなので鞄に詰め込んでおく。
幸いな事に、棚には缶詰も幾つかあった。果物の缶詰に、この独特な枕型の缶はコンビーフである。脂っこい肉の塊なのだが、これはこれで存外悪くない物である。
缶詰を回収すると、店の中には殆ど腐ったものしか残っていない状態になる。別に遠慮する必要はないのだが、流石にやりすぎかと感じさせられるのは青年が小心であるからだろうか。それとも染みついた民族性の為せる業か……。
レジが置いてある居間へ続く高い段差の前に置いてある硝子張りの冷蔵庫は、真っ赤なボディの某有名炭酸飲料のマークがプリントされたもので、かなり古いのか褪色して真っ赤だったであろうボディが小豆色のようになっていた。
その中で、何本かの瓶コーラが取り残されていた。そういえば未だに瓶のコーラを置いてある店もあるんだったか。
青年は冷蔵庫からコーラを取り出し、冷蔵庫の側面にフックで引っかけてあった栓抜きを手に取った。ポーチの中のサバイバルナイフにも栓抜きは入っているが、やはりこういう物は雰囲気が大切だろう。
弾くようにして王冠を外し、コーラを一口含む。炭酸が口の中で弾け、独特の甘みと刺激が口内に伝わった。土間自体が寒いこともあるので、冷蔵庫が停止していても然程温い訳では無いが、それでもキンキンに冷えているとはいかない。
運動の後に限界まで冷やしたコーラを飲んだら爽快で美味いのだが、もうそんな物は望めないだろう。常温に近いコーラを楽しみながら、青年はかつての味が記憶の内に蘇るのを感じていた。
もう商店には用は無い。さっきの家にあった物と同じ日付で同じ新聞社の新聞が放置され、その上に鼈甲の大きな眼鏡が置いてあるのを横目に店を後にした。
コーラを少しずつ煽りながら街をゆったりと歩く。実に静かであり、ブーツがアスファルトを叩く硬質な足音と、カノンの爪が地面をひっかく音だけが響き渡る。
それ以外の音は、時折風が吹いて何かが揺れる程度の物だ。そういえばそろそろカノンの爪を切ってやるべきだろうか、擦れ合う音が少し大きくなっている気がした。
一定間隔で鳴り響くそれは楽しそうな響きを有しているのだが、如何せん少々喧しい。此処であるなら気にする必要はないのだが、死体が残っている街を探索するには些か五月蠅すぎるのだ。
とはいえ、大型犬の爪は堅個で鋭い。切るのには大きな爪切りがあっても一苦労なのである。この前、コンビニに置いてある普通の爪切りを試したら、爪切りの刃の方が完膚無きまでに潰された事を思い出して青年は少しだけ肩を落とした。
しかし、流石にカノンの武器の一つを奪うのは忍びない。隠密性の為とは言え、大事な武器を一つ無くすのはとても心細いだろう。今度からやすりでもって調節するだけにするべきであろうか?
鑢にしても、ダイヤモンドコーティングの頑強な物でなくてはなぁ、等と考えながら歩いて居ると、少しだけ背が高く、大きな建物を見つけた。
平型店舗の大きなスーパーだった。大阪では見た事の無いスーパーなので、ローカルなチェーンか個人経営のスーパーだろう。
かつては街の台所を支える供給源として活躍していたであろうそこは、硝子が割れ、血糊が飛び散って閑散とした空虚な姿を晒している。
大抵のスーパーでは間口は広く取り、硝子で中の様子が伺えるようになっている。入り口は左右二カ所にあり、その合間にレジが並んでおり、硝子壁に沿うようにして買い物台が設置されている。
その構造のおかげで日の光が入る為、中はそこそこ明るい。一番奥の方は暗いのだが、それでもライトがあれば大丈夫だろう。
しかし、かつては丁寧に磨き上げられていたであろう店の正面は硝子が何カ所か砕け、入り口の自動ドアの硝子が殆ど全てたたき割られてフレームだけになっている姿は見るに忍びない。足下に目をやれば、相当の修羅場が展開されたのか、血糊が絨毯のように広がっている。
念の為にショットガンを構えながら、撒き散らされた硝子を踏みながら店内へ忍び入った。硝子が踏みにじられて硬質な音が響くが、散らばっている量そのものはかなり少ない。どうやら放置されている間に風雨で撒き散らされたようだ。
薄暗い店内の中は、思っていたよりも臭くなかった。スーパーは先ほどの店と異なって生鮮食品が山ほどあっただろうから相当臭いのでは無いかと思うが、不思議とあまり臭くないのだ。
青年が歩を進めると、レジの前で死体が一つ転がっているのが見えた。内蔵を酷く食い荒らされて腹が空っぽになり、腕や首も殆ど肉が無くなり、その上にミイラ化して乾物のようになった死体だ。服は殆ど剥がれ、萎びた元は乳房らしき物が申し訳程度に残っているのが見えた。
喰われた死体は必ず死体として蘇るのだが、如何せん限界という物がある。脳幹か脳髄を破壊されると連中は行動を停止するのであるが、死んだ後に喰われすぎる等して体の損傷が激しければ復活しない事があるのだ。この死体はそんな死体である。
とはいえ、激しい損傷、とはいったが。それは正しく這う事も出来ないほどの損傷という段階まで言ってからの話である。下半身がもげた程度では連中は這いながらでも向かってくる。精々、四肢が全部もげた程度では死にはしない。
この死体のように、内臓を全て引きずり出され、四肢を動かす事も出来ぬほど筋肉を貪り、顔面の肉を殆ど食い荒らされてようやく復活しない死体が出来上がる。
青年は死体の強引にこじ開けられた、乾燥した肉のへばり付く肋骨と、その間から除ける背骨と背中の内側を見て、スペアリブという感想を抱いた。別に食欲がわいた訳では無いが、何となくイメージとして浮かんだだけである。
用心深い事に超した事は無いので、完全に死んでいる事を確認する為に足先で殆どはげ上がった頭を軽く蹴っ飛ばしてみた。
「うぉあっ!?」
青年の情けない声が広々とした伽藍の店内へと響き渡る。軽くつま先で突いたつもりだったのに、まるでダンブルウィードの如く転がって言ってしまったのだ。乾燥しきったことにより、間接の接合が脆くなっていたようである。
西部劇の決闘の場面をイメージすると、乾いた草の塊のような物がよく転がっているが、茶色く変色した頭は正しく外見上はそれである。
嫌なオカヒジキもあったもんだと思いつつ、青年は予想外の事態に少し跳ね上がった心臓の脈動を落ち着けさせた。死体には慣れたつもりではあるのだが、やはり予想出来ない事態には弱い。
ふとカノンを見ると、自分の後ろで行儀良く座っていた。ただ、軽く首を傾げ、何やってんだか、とでも言いたげな風情ではある。
青年は大きく溜息を吐いてから、カノンの頭を一撫でして店の奥へと歩を進めた…………。
数十分後、青年は蒼い顔をしてスーパーから出てきた。何処のスーパーにでも置いてあるような、籠を乗せられるカートの上下段に食料や飲料を満載しているので満足そうな顔をしていても不思議では無いのだが、その顔色は酷く悪い。
カートを押して表に出て、青空の下に自分が居る事を確認してから、青年は深々と行きを吸い込み数度深呼吸を繰り返した後で、スーパーの前を申し訳程度に賑やかしていた花壇の隅に腰を掛けた。
そして、籠の中より店内から持ってきたコーヒーを一缶取り出し、片手で器用にタブを押し上げ、胃に流し込む。そこまでして青年はようやく一心地着く事が出来た。
しかし、青年の苦しみを理解出来ないという用に、カノンは特に何も感じていないのかその隣に座り込んで暇を潰すように毛繕いをしていた。時折顔を覗き込むのだが、何故青年がここまで憔悴しているのかは彼女のあずかり知らぬ原因にあった。
まず青年は店の前の方で食べられる物を沢山籠に詰め込んだ。大抵はパスタや素麺のような乾物で、次に長期保存の利く様々な缶詰だ。そして、余ったスペースに飲料やレトルト食品をねじ込む。
本来なら籠を二つ満載し、カートに搭載出来る限界を突破したので帰ってもいいのだが、青年は少し奥が気になって見に行ってしまった。
何故かは分からない、街が安全だから浮かれたのか、それとも安全確認の為か……。もしくは、単に臭わない事が彼の興味を惹いてしまったのか。兎に角青年はカノンを連れて置くの探索に乗り出してしまったのだ。
確かにバックヤードに行けば梱包されたままの食べ物が沢山あるかもしれない。だが、残念ながらキャンピングカーには積載限界があり、青年の生活スペースは既にかなり切り詰められている。必要以上に食料を持ち込んでも持てあます訳だ。
だから、別に行く必要性は全く無い訳である。それでも青年はライト片手にスーパーの奥へと進んでしまった。
店の奥には腰の位置程度の高さの陳列用フリーザーが幾つも並んでおり、乾ききって変色した何かを乗せたパックが幾つも転がっていた。それだけなら何て事は無いのだが、青年からすると実におぞましい光景が広がっている。
足下やフリーザーの中に転がる数え切れない程の虫、虫、虫。その全ては死んでいるのだが、蠅やゴキブリなど実に多様な人間の領域にて蔓延る害虫が転がっていたのだ。中にはネズミのような小動物の姿もあった。
なる程、夏の間に蠅が卵を腐った食べ物に生み付けて爆発的に増え続け、増えた蠅が更に残った物に生み付ける。そして、同じようにゴキブリなどの害虫もそれを食べて延々と増えていく……結果、数の爆発に限界が来た後の大量死がこの現場であろう。
腐る物が夏の内に繁殖で殆ど食い荒らされ、量が減って完全に干涸らびたのだ。だから冬の今となって臭いが消えたのだろう。
臭いがしないのがいいが、それ以上におぞましい光景に青年は一瞬昼に食べた物が勢いよく食道を駆け上がってくるのを感じたが、精神でそれをねじ伏せて食道を顫動させ、無理矢理胃に押し戻した。吐いたら勿体ないし、体力も落ちる。
死体には慣れた。鉈で首をたたき落とすのも、鈍器で頭を西瓜のように砕くのも、ショットガンでミンチに変える事も顔色一つ変えずに出来るようになった。だが、こうなる前より青年は虫が何よりも嫌いであったのだ。
叫び出したくなるのを感じながら、青年はフリーザー付近の虫で出来た絨毯と相対したまま一歩ずつ退いていく。カノンは、常に無表情を維持し、大抵の事態には淡々と対応する青年が珍しく恐慌状態に陥っているのを見て首を傾げた。
しかたないだろう、彼女からすれば死んだ虫の山など単なるゴミ、若しくは最終的に困った時の食料でしか無いのだから。
だが、カノンは青年に忠実な犬だ。青年が進めば共に進み、退けば共に退く。何が青年を脅かしているのかは分からないのだが、兎に角青年が逃げるのなら逃げた方が良いのだろう。
そのまま青年はじりじりと退いていき、虫の死骸の山が棚に隠れて見えなくなるまで退った所で、背を向けて小走りに店内を後にして今に至るという訳だ。
青年は着付けの為に選んだ好きでも無いブラックコーヒーを飲み干して深く息を吐いた。死体は怖くない、悲惨な姿の動かなくなった死体にももう慣れた。目の前で人が食われるのも平気だが……やはり、幼い頃からのトラウマという物は如何ともし難いようだ。
虫よりよっぽどおぞましい物ですら容易く始末できるようになったというのに、真逆今更怖じ気づいて逃げる事になろうとは。どうやら自分は今後も虫に怯えなければならないだろう。
しかし、全ての虫が怖い訳では無く、大抵の虫は怖くない。蜘蛛は機能美が素晴らしいと思うし、カマキリは格好良いとは思う。そして、蝶は美しいし蛾も種類によっては美麗だと感じる。
だが、アレだけは駄目なのだ。蠅と、ゴキブリなどの害虫が。あれだけは何年経っても苦手で、ずっと避けていたし、潔癖な部分があるのはアレ等の存在を遠ざける為に染みついたのやもしれない。
蠅ならまだ数匹程度であれば遠ざける位は出来るが、あれほど山ほど転がっていると怖気が走って吐き気に襲われるし、ゴキブリなんぞは一匹見ただけで軽い恐慌状態に陥る。下手に部屋で発見してしまった日には、恐ろしくて碌に眠る事も出来ないほどだ。
青年は淡々と何でもこなしすぎるところがあるので、どうにも無感動で無感情に思われるが、それでもやはり人間なのである。怖い物はあるし、苦手な物だって存在する。
それが、青年にとっては死体ではなく虫であっただけなのだ。
疲れた顔で、口の中の苦味や先ほどみたおぞましい光景に苛まれながら座っていた青年に、カノンは一度頬を嘗めて励まそうとした。
犬が顔を嘗める行為は親愛の証なのだが、カノンは青年と自分の間に家族の情ではなく、厳然とした利害関係と主従契約が存在する事を理解していた。なので、普段は彼女からこんなに気安く触れる事はあまりない。
青年は彼女を多くの死体から護る武力と安全な住処、そして食料を提供する。そして、その代償として彼女は自分の能力を用いて彼を補助する。つまるところの雇用契約なのだ。
単に愛だの何だのだけでは生き残れない事を彼女は重々に承知していた。此方がもたれかかるだけでは、この青年は自分自身の為に離れて行ってしまう。愛着などはあるだろうが、青年は生き残る為ならば重荷になる物は容易く切り捨てるだろう。
だが、それでも彼女は青年の事を信頼し好感を抱いていた。この二人っきりの小さな群れ、その群れを率いる頼りになるリーダーなのだ。
慈愛や気遣いの心が込められた一嘗めに、青年は不格好ながら笑みを作って応え、カノンの頭を少し乱暴に撫でた。カノンは満足げに目を細め、少し強めに頭を掌に押しつけた。
さて、何時までも座り込んでいる訳にはいかない。青年は一度深呼吸して体の中の空気と思考を入れ替えてから立ち上がり、近くに珍しく立ったまま残っていた屑籠に空き缶を放り投げた。
空になったコーヒーの缶は手から放たれると緩い放物線を描いて飛んでいき、屑籠の内側に引っかかる様に命中し、一度真上に跳ね上がってから中央に落下し、快い音を立てた。
青年は放った時には既に籠に背を向けており、鉄製の籠の中で缶が跳ねる音はその背に浴びせられた…………。
青年はその後さして広くはない街をゆったり歩いて探索していたが、時刻が三時に差し掛かった頃には既に日が傾きかけていた。流石に冬となると日が落ちるのは早いし、そろそろ冬至が近い。下手をすれば四時頃にもなると日がとっぷり暮れているという事もある。
さて、そろそろ帰ろうかなと青年が思った時、小さなレンタルビデオ屋が目に入った。庇は色褪せ、看板は倒れて壊れていた。そして、扉は外れて外に転がっている。
そっと中を覗き込むと、落葉やらゴミが地面に山ほど転がっているが……DVD等が陳列された棚はしっかりと残っていた。
小さく声を漏らしながら青年はライトで店の奥を照らしてみる。何故か店の奥にあるカウンターの梁から輪っかが作られたロープがぶら下がっていた。
吹き込まれた枯葉を踏みながら店の奥に進む。棚には新作の映画やドラマなどが陳列されており、他にもCDコーナーや、暖簾が外れ掛かっているがアダルトコーナーも設けられていた。
何に使われた輪っかかは大凡分かっていたが、青年はカウンターを覗き込んでみる。殆ど白骨化したミイラの胴体が転がっていた。ライトを奥に巡らせると、奥には同じく干涸らびてボサボサの頭髪が僅かばかり残った頭蓋が転がっていた。
青年は片手を顎に添え、考える。恐らく、常況に絶望して首つりで自殺した死体が、時間が経ってから体が腐って首が千切れて今に至るという事だろう。カウンターの上に蠅の死体が軽く転がっていたので、やはりこの遺体も夏の間に蠅の苗床になっていたようだ。
しかし、これはある意味良いな。青年は店の中を見回して、少しだけ唇を歪めた。
棚を物色し、好きだった映画や気になっていた映画のDVDを手に入れる。幸いな事に、電池で動くポータブルDVDプレイヤーがカウンターの上に放置されている。DVDそのものはカーナビからでも再生できるのだが、運転中には危なっかしくて見ていられないし、態々DVDの為にエンジンを始動させるのは阿呆らしい。
娯楽の種が手に入るというのは有り難い。普段に暇な時間が有り余っているかと問われればそうではないのだが、青年にも憂鬱になる時くらいある。そういった時の気晴らしが手に入るというのは実に有り難い物なのだ。
青年はDVDをあらかた物色すると、今度はCDのコーナーに手を伸ばした。選ぶのはエアロ・スミスのアルバムやSUM41、レッドツェッペリンのようなロックバンド。あまり似合わないかもしれないが、こういう類いのバンドが青年の趣味であった。
あとは、懐メロと馬鹿にされるやもしれないが、メタリカやザ・グレイトフルデッド。往年の有名ロックバンドの楽曲も手に入れる。ミクスチャーやハードロックには興味は無くても、いわゆる普通のロック程度の音楽なら青年は結構好きな部類に入る。
気に入った音楽や面白そうな映画のDVDが何枚もバックパックに詰め込まれ、青年はさっき虫を見て沈んだテンションが俄に浮上するのを体感していた。表情は普段通り平素を装うが、荷物を仕舞う手つきや移動の際の足取りが跳ねるように軽い。
文句があるとすれば、クラシックが一切置いていなかった事だが、個人経営の小さなレンタルビデオ店に大きな文句は言えないだろう。
可能な事ならベルリンフィルの古い軍楽を纏めたアルバムなんぞも欲しかったが、それは余裕のある時に大きなCDショップでも見つけたら探してみるとしよう。
大量の収穫を抱えて青年は店を出た。既に日はとっぷりと暮れかかり、東の空は真っ赤に染まりつつも、西の空にはビロウドを敷き詰めたかのような夜が現れ始めていた。
夜と夕方が混在する独特の時間帯の中で、青年は空を眺めて小さく口笛を吹いた。それにカノンが反応して顔を上げるが、特に意味の無い口笛だ。
ロングトーンだったそれは次第にリズムを帯びるように鳴り、意味の無い音は音楽へと転じた。口笛の軽くて高い音で演奏されるのは、ホルストヴァッセルリート……ドイツの軍楽である。
趣味が分かれるだろうが、青年は勇壮なクラシックは大好きだった。一応日本の軍歌にも味はあると思うが、やはり悲壮感ただよう曲調と歌詞の曲より、勇ましいテンポで響く勇壮な曲の方が聞いていて気分が良い。
普段なら青年はどれだけ気分が良くても、カノンを呼ぶ時しか口笛など吹きはしない。甲高い音は遠く響き渡り、死体の感覚を刺激して此方に引き寄せてしまうからだ。
しかし、こうなる前は手持ち蓋差になるか、単調な作業を行っている時、青年はよく口笛を吹いていた。手慰みには丁度良く、なおかつ好きな曲を脳内で流せるので、暇つぶしには最適だと感じていたからだ。いつからこの癖がついたのかは分からないが、小学生の頃には既に時間割を合わせながら吹いていた気がする。
機嫌良く口笛を吹く青年の隣で、カノンも何処か楽しげに歩く。本日の成果は大量であり、ガラガラと少々喧しい音を立てて舗装道路の上を進むスーパーのカートには食料が山盛りだ。
精神衛生上よろしくない光景が一部あったが、本日は世界が狂ってから数える程しかない穏やかな日であり、青年の中では特に有意義だったと記憶出来る程だ。
徐々に茜色が漆黒に制圧されていく中、ただ青年は口笛で軍歌を単調にループさせながら、たった一人の相棒を伴い、愛しい我が家へと凱旋した…………。
相変わらず遅い上に動きが無いという……でも、そろそろ動き始めるかもしれない。もっと文才が欲しいです。
色々と感想有り難う御座います。返信遅れているというか、出来ておりませんが大変励みになっております。本当にありがとうございます。これからもよろしければ付き合ってやって下さい。
ふと思ったのですが、感想とレビューってどう違うんですかね
さて、では次回も宜しくお願いします。また、感想や誤字の指摘などお待ちしております。