92 猫の手
その日、予定通り二十層までの攻略を終えた俺たちは、ダンジョン『震える死者』を後にして、オリュンポスのクランハウスに帰った。
ここに至り、漸くこのパーティは纏まりを見せた。俺としては、以降はオリュンポスに留まり、共通の目的を持つ仲間として過ごすつもりでいる。
多目的室で開いた会議では、明日は三十層までを攻略するという事で話は纏まったが、アレックスは少し考えたい事があるらしく、夕食を終えた後は早目に自室に引き取った。
そして、俺とロビンの二人がサロンでゆっくりしている所に、聖エルナ教会からやって来たアシタが、寺院からロビンへ緊急のものだという書状を持って訪れた。
「どうした、ロビン」
「いえ……ディートさんが、ギルドで第一階梯の宣告を受けた事について、今すぐ私に詳しく説明するように言って来ています」
寺院からの書状の内容は、ロビンに対する召喚命令だ。そこに俺が含まれない事が事態の複雑さを告げている。
ロビンは『教会騎士』だ。俺に仕えているが、それを理由に寺院からの召喚を断る事は出来ない。
「アシタ。貴女は残ってディートさんのお世話をしなさい。決して粗相のないように。また破廉恥な事をしたら承知しませんよ?」
「ああ、うん……いや、はい。しません。分かりました……」
と殊勝に答えるアシタは、ロビンに言葉遣いを矯正されている最中だ。最低限の礼儀作法ぐらいは身に付けろと言われたようだ。
「ムカつきますね……」
眉を寄せ、険しい表情のロビンは、寺院からの召喚状をびりびりに破いて暖炉の火にくべてしまった。
「……今さら何を……」
ロビンとしては、元より俺を第二階梯の神官として申告していた事もあり、寺院の召喚には強い不満があるようだった。
「……で、俺はどうなるんだ?」
「近い内に、ディートさんも寺院に召喚されると思います。そこで改めて宣告師の鑑定を受ける事になるでしょう」
「ふむ……」
『聖女』の件もある。そういう意味で、寺院には用がない訳じゃない。
――エリシャ・カルバート――
この聖女とやらに関する俺の心境は複雑だった。
神が殺せと言うのだ。そこには、それなりの理由があるのだろう。だが、俺としては、一度この目でエリシャを見極めたい。
「……寺院からの召喚か……」
「はい。今の所、ディートさんは第三階梯として認定されていますが、恐らくその召喚で階位が上がる事になるでしょう」
「ふむ……どうなる?」
ロビンは忌々しそうに言った。
「寺院にはエリシャが居ます。ディートさん、貴方が第一階梯として認定される事はありません」
「そうか」
異世界人である俺は、この世界の人間が定めた地位や権威に魅力は感じない。どうでもいい。だが、寺院の召喚に応じれば、エリシャに会える可能性がある。
「……この事を、ルシールは知っているか……?」
「いえ……まだ知らない筈です」
エリシャを見極めるにあたり、ルシールの意見を聞きたい。
「知らせておいてくれ」
今の所、留守にしているが、一応、俺は聖エルナ教会の司祭の立場にある。俺の言葉は当然のものだ。それ故、ロビンは難しい表情で頷いた。
「分かりました。あれにも伝えておきましょう」
「……うん。そうしておいてくれ……」
俺は小さく息を吐く。
本気でエリシャを殺すなら、俺も色々と決めねばならない覚悟がある。
俺は深く考え込みそうになり、首を振って、一時エリシャに関する思考を追い払う。今はダンジョンに集中するべきだった。
◇◇
さて、聖エルナ教会に所属する事になっているアシタとゾイだが、現在は文字の読み書きや礼儀作法について勉強させられているようだ。
小うるさいロビンが出て行ってしまうと、アシタは大欠伸をして俺のベッドに寝っ転がった。
「お疲れだな、アシタ」
この世界ではだが、アシタとは古い仲だ。少しぐらい気を抜いたからと言って、今さらどうこう言うつもりはない。その思いから来た俺の労いの言葉に、アシタは疲れた表情で頷いた。
「……まったくだよ。朝は、おばちゃんに読み書きで絞られて、夜は夜でロビン姉ちゃんにこき使われるんだぜ? 最低だよ……」
「……大変だな。少し緩めるよう、俺からロビンとルシールに言っておこう……」
「助かるよ……」
俺は一人で神官服を脱ぎ、寝巻きのローブに着替える。アシタはベッドに寝っ転がったまま、そんな俺をぼんやりと見つめていたが、思い出したように言った。
「ゾイなら、おばちゃんと上手くやってるぜ」
「そうか」
ゾイは寡黙なドワーフの少女だ。種族の特性として、真面目さと辛抱強さが上げられる。ルシールと上手くやっているというなら心配する事はない。
「あ、そうそう。あんたに言っておきたい事があったんだ」
俺はテーブルの上にある水差しで二つのコップに伽羅水を注ぎ、一つをアシタに差し出してベッドに腰掛けた。
「お、すまねえな」
身体を起こしたアシタは、伽羅水を一口飲んで、それから少し難しい表情になった。
「……パルマで、おかしな病気が流行ってるって知ってるか……?」
「おかしな病気?」
「あぁ。あたいはロビン姉ちゃんの使いっ走りであっちこっち行くからな。色々見たり聞いたりすんだよ」
「うん……気になるな……」
今日も色々とあった。神官服を脱いでしまうと、ずしんと疲労が肩にのし掛かったような気がして、俺は小さく溜め息を吐き出した。
「詳しくは分かんねえ。特にビーの縄張りの辺りは 、あたいには鬼門だかんな……」
……あの辺りはスラム街だ。下水道も近く、衛生環境も良くない。質の悪い感染症が発生してもおかしな話ではない。
「……アビーたちは、確か井戸水を使っていたな……」
そこから連想する感染症といえばコレラだが、そうなれば酷い事になるだろう。江戸時代の日本じゃ、井戸水からの感染症で多くの人間が死んだ。
「……近い内に、一度、行ってみるか……」
アビーの様子も心配だし、その『おかしな病気』とやらも気になる。だが……
アシタは、ぎょっとして目を剥いた。
「はあ? ディ、お前、狂ったのか!? ビーに殺されるぞ!」
「まさか……まあ、怒ってはいるかもしれんが、そこまではしないだろう……」
アシタは思い切り顰めっ面で首を振った。
「お前、馬鹿か? あたいもゾイもお前も、ビーとは逆縁切ったんだぜ? 許されるとでも思ってんのか?」
「……そうなのか?」
アシタは深い溜め息を吐き、伽羅水を一気に煽った後、何度も呆れたように首を振った。
「二度と、そんな事言うな。ビーの事は忘れろ。パルマには絶対に近付くな。あんたにもしもの事があったら、ロビン姉ちゃんが何をするか分かんねえぞ!」
「……そうは言ってもだな……」
脳裏を掠めたのは、母の言葉だ。
……やがて刈り取る死が来る……
あの言葉が、感染症や疫病なんかを指し示す言葉だとしたら、とんでもない事になる。
「……」
少しばかり考えるが、思考が纏まらない。今日もダンジョンで、たっぷりと魔素を吸収した俺の身体は休みを欲している。
俺は小さく欠伸した。
アシタは警告するが、アビーが俺を殺す事は不可能だ。そう断言できるぐらいの差がある。
アシタは真剣な表情で言った。
「……ディ。ビーをナメるな。これは、あんたの為に言ってるんだ……」
「……心配性だな、お前は……」
「あん? ディ、お前、寝惚けてんのか?」
「……どうだろうな。よく分からない……」
さっきから眠くて眠くて堪らない。俺が自信なさそうに首を傾げると、アシタは本当に困ったものを見るかのように目尻を下げた。
「もう……本当にしょうがないヤツだな……ロビン姉ちゃんの苦労が知れるぜ……」
「……」
俺は右手で顔を拭った。
どうもいかん。ここまでアシタに窘められるとは、今の俺は相当なものだ。
寝惚けついでに、俺は言った。
「なあ、アシタ。窓枠に手が掛かっているように見えるのは、俺の気のせいか……?」
「えっ?」
一瞬、ぎくりとした表情で固まったアシタは振り返り、窓枠に掛かった手に目を剥いた。
「……マジかよ……」
低く呟いたアシタは、俺を庇うように背中に隠し、腰に差してあった長いナイフを抜いた。
窓枠に掛かった手が、コンコンと窓ガラスをノックする小さな音が室内に響く。
「……珍しい場所からの、珍しい来客だな……」
来客が人間でない事は分かる。その伸びた手が猫人のものである事も。
遠造にしては小さいし、もしこの客が遠造なら、ヤツは正面から堂々と来るだろう。
殺意や害意は感じない。
敵意があれば、俺より先にアシタの方が早く反応しただろう。
遠造以外に俺を訪ねるような猫人は、一人しか覚えがない。
「……エヴァだ。開けてやってくれ……」
残念な事に、今夜はまだ眠れそうにない。
俺は小さく欠伸した。