71 朝食
『慈悲』『慈愛』『公正』。
俺はこの三つの徳を以てルシールを裁いた。
例え、母であろうとも、俺の下した裁きに文句は言わせない。
「ルシール、お前の罪は全て俺が預かった。以降は助祭の地位に戻り、皆の為に尽くせ」
これは事実上の無罪判決だ。
ルシールの地位を戻したのは、その人間性に相応しい地位に戻しただけの事。
踞ったまま、静かに泣き咽ぶルシールをその場に残し、俺は神官服の裾を翻して礼拝堂を後にした。
◇◇
真実の現れを厳粛な遊戯として楽しめ。
全ての真実は一でなく、それは常に多である。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
一人、長い身廊を歩きながら俺は呟いた。
「一の中にこそ、多を見出だせ。
多を一のように感じるがいい。
そこに始まりと終わりがあるだろう」
母が授けてくれた俺の祝詞の一部だが、祈る度、深く瞑想する度に思う事がある。
神が語る深淵は、あまりにも深い。俺がその一部を垣間見る時、全ての出来事は結末を迎えている。
至らぬ虫けらの俺には、神の存在はあまりに遠い……
その日、俺は自室に籠り、誰とも会わずに一日を深い祈りと瞑想の内に過ごした。
◇◇
敬虔な謙虚には神性が宿る。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
その翌日、つんと澄ました顔のルシールがゾイを伴い、食事を持って現れた。
「ディートハルトさま。お食事をお取り下さい」
「うん……」
そう言って差し出されたのは普通の食事だ。豚のエサじゃない。
パンやチーズ。メインの焼き料理はパイのようで、食欲をそそる香ばしい匂いがする。汁物はとろみがあって中には野菜や肉が多く入っていて、これも旨そうだ。
腹も減っていたし、俺は躊躇わず完食した。
その間、ルシールは眉一つ動かさず、俺の食事光景を見つめていた。
白くきめ細かい肌に切れ長の瞳。上がり眉は一切動かず、昨日の泣き顔の面影は欠片もない。その鉄面皮は正に厳格な修道女を思わせる。
だが、昨日までと少し違う。
フードを下ろし、長い髪を外に出して一纏めにしているからだろうか。
隣に立つゾイは少し呆れたように肩を竦め、時折、ちらちらと無表情のルシールを見ている。
「……」
食事を終え、ナプキンで口元を拭いながらこの違和感について考える。
初めて会った時のルシールは、三十代前半から半ばの女に見えたが、今朝は何故か、もう少し若く見える。
化粧をしている訳ではない。
修道女たちは規律正しく禁欲的な生活を送っている。化粧品の類いを使う訳がない。そもそも、そんな贅沢品は禁止されている。彼女らは例外なく素っぴんのはずだ。
ルシールは静かに言った。
「……今日のご予定は?」
「アレックスに会う。少し話がしてみたい。修道女を全員連れて来い」
「かしこまりました。……ゾイ、あなたはここに残って、ディートハルトさまの着替えを手伝いなさい」
そう言って、無表情のルシールは俺の部屋を去った。
「……?」
そして、二人きりになった途端、ゾイは半目になって睨むような表情で俺を見つめた。
「ディがやったんだ。知らないから」
「何の事だ?」
「分からないならいい!」
その朝のゾイは冷たかった。
二人きりになったというのに態度がよそよそしく、神官服のベルトを締める時は、内臓が飛び出るかと思う程、きつく締め付けられた。
まあ、ゾイが本気なら、俺がただで済む筈がないから手加減していたのは分かるが、少しばかりを通り越して手荒い扱いだった。
ゾイが恨めしそうに呟いた。
「……あれ、先生が全部作ったんだよ……」
「そうか。旨かったぞ」
「……」
ゾイはどんぐり眼を糸のように細め、何も言わずに俺の部屋から出て行ってしまった。
女の考える事は分からん。
「なんなんだ……?」
ゾイが出て行った扉を見つめ、俺は静かに嘆いた。
そして……
ゾイの機嫌を損ねた事を嘆く俺の目の前で、扉から遠慮がちなノック音がして、姿を現したのはロビンだ。
こちらは鉄面皮の無表情で現れたルシールとは違い、目尻を下げた泣き出しそうな顔をしている。
そのロビンは視線を伏せ、消え入りそうな声で呟いた。
「……朝食をお持ちしました……」
「あ、ああ……」
既に腹一杯の俺だが、これを突き返すのは違う。手に負えない事になるぞ、と俺の中の蛇が騒ぐのだ。
アスクラピアの蛇が警鐘を鳴らすとは……いったい何が起こっているんだ?
俺はまた席に着き、ロビンが用意した二度目の朝食を摂る。
あまり気が進まない。
ロビンが用意したのは魚料理で、まだ少し湯気が立ち上っている事からして、焼き上げたばかりのものであるという事は分かる。
「……」
なかなか、食事に手を着けない俺を見るロビンは、目元を赤くして小さく鼻を啜った。
いつもの俺なら遠慮なく突き返す所だが……蛇の警鐘に従って、やむを得ず食事に手を着ける。
「――旨い!」
気乗りしなかった俺だが、一口食べると思わずその言葉が口を衝いた。
魚は見るからにマスの一種だが、皮が香ばしくパリパリに焼き上げられていて、その身はよく脂が乗っている。実に旨い。
肉より魚派の俺には堪らない。
「これは……ふむ……堪らん旨さだ……」
「……」
腹一杯である事を忘れ、夢中で食事を続ける俺を見て、ロビンの口元が僅かに緩む。
だが、依然として目尻が下がったままだ。いつものロビンなら、ドヤ顔で鬱陶しい蘊蓄の一つでもかました所だ。
「……どうした、浮かない顔をして……」
その言葉にロビンは弱々しく顔を背け、小さく呟いた。
「…………暫く顔を見せるなと言われています……」
「……」
アシタめ。ロビンに何も言わなかったのか? 使えないヤツだ。だが、先の一件に関しては、俺の口から言及するのが筋だ。
こいつの人間らしさは確認した。傲慢な差別主義者だが、好き嫌いだけで物事を判断するようなヤツじゃない。
「……それか」
食事の手を止め、ロビンに向き直った俺は、重い口を開いた。
「……俺には、自分でも制御できない苛烈な性分がある……」
「はい……」
しおらしく頷くロビンには、いつもの騎士然とした凛々しさが一つもない。
我ながら口下手な男だ。
ただ一言の謝罪すら、素直に言う事が出来ない未熟者。
「…………」
目尻を下げたままのロビンと見つめ合うこと暫し。
俺は俺の正しさを信じる。
それは、おそらく『騎士』であるロビンもだろう。それ故、俺たちは衝突する事も珍しくない。
不器用な俺が口にした言葉は……
「……俺を見捨てないでいてほしい……」
この言葉に俺という男の駄目な部分が集約されているような気がして、俺はへこたれるような気持ちで溜め息を吐く。
「――!」
だが、その言葉がロビンに与えた効果は劇的だった。
泣き出しそうだった目尻が持ち上がり、興奮気味に鼻息を荒げたかと思うと、食い気味に俺を見つめる。
「そ、それは? それはどういう意味ですか?」
「……」
まだ追い詰めるか。だが、ここで逃げ出すのは違う。
「俺には、お前が必要だ」
俺は、俺と反する個性を全て叩いて回るほどの馬鹿じゃない。
それは俺の命を縮める事になる。時に行きすぎる俺の制止役として、ロビンの存在は必要だ。
だが、こいつの人種主義は気に入らない。それが俺を素直じゃない男にしている。
「ディートさん。貴方は、このロビンを必要だとおっしゃる!」
ロビンの瞳が赤くなる。何がどうしたのか分からないが、俺の言葉に興奮する要素があったようだ。
「……」
俺は面倒臭くなって来た。酷い間違いを犯してしまった気がしてならない。
ロビンは胸を張り、手を腰に当てた姿勢で言った。
「では、このロビンに詫びて頂きましょうか!」
そんな事を堂々と言い放つロビンの顔には、『自信回復』と大きく書いてある。
「地べたに手を着き、自分を見捨てないでいてほしいと! さあ!」
「…………」
俺は憮然として言った。
「失せろ。この差別主義者め」
こいつには、これぐらいの冷たさで丁度いい。
そして俺は……
依然、駄目な男のままでいる。