68 毒犬
ロビンには暫く顔を見せるなと言い渡し、自室に引き取ったその日の晩。
「……ジナが生きているだと……?」
ルシールに伴われてやって来たゾイは、俺が姿を消してからの事を話してくれた。
ジナを助けると譲らず、頑なに命令を拒絶した俺をナイフの背で叩いて気絶させたアビーだったが、その後は酷く取り乱したようだ。
第一声は――
「ああ、畜生! やっちまった!」
というものだったようだ。
「でも、本当に酷かったのはその後なんだ」
その後のアビーの指示は混乱を極めた。
ジナを今すぐ殺せと言ったかと思うと、その次の瞬間には思い直したように制止したり、やはり殺せと喚いたり。そして結局は、スイに命じて俺が作った薬を使い、ジナは一命を取り止めたというのがあの晩の顛末だ。
「アビーはすごくディを大事にしてたんだよ。部屋の奥に隠して、誰にも会わせないようにして……何でも言う事聞くスイにだけ世話させて……」
呪詛返しの影響もあり、臥せっていた事もあるが、その間、ゾイから見た俺はそう見えていたようだ。
「ディが居なくなって、アシタはすぐ出て行っちゃった」
これに関しては、当然だと言うのがゾイの考えだ。
アビーは、あっさり俺を素通りさせたアシタの失態を絶対に許さない。俺を素通りさせたのはスイもゾイも同じだが、『見張り』を命じられていたアシタの責任はより重い。そして、一度角を折る事でアビーがアシタに植え付けた恐怖は大きい。
「ゾイがアシタでも、逃げちゃうよ」
選んでここに来たと言ったアシタだが、実際はアビーを恐れて『逃げた』というのがゾイの見立てだ。確かに納得の行く説明ではある。しかし……
「そうか。ジナは生きているか……」
一つ、胸の痞えが取れたような気がした。
悪たれのアビーだが、一線を超える事だけは踏み留まった。
「そうか……良かった……」
そう安堵する俺を見て、ルシールも小さく頷いて見せたが、ゾイは激しく首を振った。
「全然、よくなんてない。ディが居なくなって、そこからアビーはもう無茶苦茶」
山ほどある仕事を放り出して、アビーが先ずやった事は俺の捜索だ。手下のガキ全員に命じて、縄張り内を血眼になって探した。
「あの辺りは、おかしいやつ多いから……ゾイもすごく心配した……」
今はともかく、あの時の俺にとって、アビーの縄張り外が最高に危険地帯だったのは間違いない。
「それに関しては、すまん……」
「……」
ゾイは少しだけ恨めしそうに俺を見て、呆れたように肩を竦めた。
「それでオリュンポスに行って……猫の人は正直に教えてくれたよ。ディは教会騎士に捕まったって……」
それは遠造らしいやり方だ。アビーと揉めるより、正直に話した方が問題は少ないと判断したのだろう。
確かにそうだ。
ガキとはいえ、一端の侠客になったアビーと揉めるのは、オリュンポスにとって一銭の価値にもならない。それより正直に話して、俺に関するいざこざの全てを教会騎士に押し付けた方が賢明だ。
我関せずの考え方は、如何にも個人主義の遠造らしい。
ゾイの話では、流石のアビーも教会組織と揉める勇気はなく、大人しくパルマの貧乏長屋に帰ったそうだ。
「アビー、本当に酷かったんだ。あの犬コロのせいだって言って滅茶苦茶に暴れ回って、かと思ったら次は泣き出して……」
この時には、もうゾイはアビーの下から去る決意を固めていたそうだ。だが、あまりに落ち込んだアビーを見捨てるのは忍びなく、暫くは組織の運営にも手を貸すつもりでいたと語った。
「そうか……」
ジナがまだ生きているとすると、俺とアビーとはまだ歩み寄りの可能性があるという事になる。
「……………………」
漠然とアビーの事を考えていると、不意に、ゾイが険しい表情で黙り込んでいる事に気付いた。
「どうした、ゾイ」
黙り込んだゾイは、何かを深く考えている様子だ。難しい表情で言った。
「ジナの事だよ。治っても逆印があるから外に出す訳にはいかないし……それに、あいつ……」
そこまで言って、ゾイは難しい表情のまま、首を振った。
「スイが、あいつの面倒見るの嫌だって言い出したんだ」
「……」
このゾイもそうだが、スイもまたジナの死を望んだ一人だ。その考えは分からないでもないが……
ゾイが言いたいのは、そういう事ではないようだ。何度も首を振った。
「……あいつ、すごく臭いんだ……」
そのゾイの言葉に、俺もジナの匂いを思い出して嫌な気分になった。
「ああ、臭いな。あいつからは孤児特有の匂いが抜けてなかった」
獣臭さと下水道のドブの匂いが入り混じったような、俺も『ディートハルト』も生理的に受け付けない匂いだ。
ゾイは眉を寄せた深刻な顔で首を振る。
「違う。そんなんじゃない。もっと……こう、なんて言うか……すごく嫌な匂い……」
「嫌な匂いか……」
「あんまりスイが嫌がるから、皆で持ち回りで世話しようって話になって……でも他の皆もすごく嫌がって……」
なんだろう。
俺は何かを失念しているような気がする。嫌な胸騒ぎがする。
「……ゾイもすごく嫌で……嫌で嫌で堪らなくて……あいつに近付くのだけは嫌で……」
「……」
ゾイは決して悪い子ではない。俺とジナとの酷い経緯があったからとはいえ、ここまで嫌悪を剥き出しにするのは意外な事のように感じた。
ゾイがぽつりと言った。
「毒犬」
「……なんだって?」
「あいつの世話をした後、皆、あいつの事をそう呼ぶんだ。ゾイ、すごく嫌で……本当に嫌で……」
なんだろう。ゾイは、とてつもなく酷い事を言っているのだが、それを非難する気になれない。俺自身、それが何故か分からない。
ゾイは上目遣いに俺を見て、申し訳なさそうに言った。
「だから、ゾイの番が来る前に逃げて来たんだ……」
「……そうか」
この時の俺は、ジナが何らかの感染症に罹った疑いを感じながらも、あえてその事を考えないようにした。
俺もまた人の子だ。
ヤツには殺され掛けたのだ。生きていると分かれば、それ以上、気に掛けてやる必要はないと思った。
俺は咳払いして、ジナの話を打ち切った。
「エヴァは? あいつはどうしてる」
この質問に関しては、ゾイは露骨に嫌そうな顔をして見せた。
「知らないよ、あんなやつ。大嫌い」
「そ、そうか……」
話を持って行く方向を間違えた。
そもそもゾイはエヴァと一戦やらかしているし、メシ炊きをやっていた際はエヴァにこき使われていた。当のエヴァ自身がそう言ったのだから間違いない。ゾイが恨みに思うのは当然だ。
「アシタは――」
次に、一緒にやって来たアシタの事に話題を振ろうとした俺だったが、それは途中で遮られた。
「ぶん殴ってやりたい。あいつ、馬鹿だからディの行き先なんて何も分かってなくて、それでこの近くをぶらぶらしてたんだけど、ゾイを見付けて付いて来たんだ」
「……」
頭痛がして来た俺は、眉間の辺りを軽く揉んだ。
ゾイは肩を竦め、アシタの真似をして見せた。
「『何やってんだ?』『どうしたんだ?』『ディに会うんなら、一緒に行こうぜ?』とか言って付いて来て、本当に調子いい……」
確かに、外門でのアシタの態度はあまりいいものには見えなかった。
元々が寡黙なゾイは、それ以上にアシタを非難する事はなかったが、とても腹を立てているのは見ていて分かる。
俺がそのゾイを持て余した事を察してか、ルシールが軽く咳払いして言った。
「ゾイの扱いは、見習いになります」
癒者としての力がないゾイは、修道女になる資格はない。だが『ドワーフ』という種族は元々信仰心が強く、アスクラピアとの親和性が高い。今からでも研鑽を積めば癒者として目覚める可能性が……ない訳ではない、というのがルシールの説明だが……これはゾイを聖エルナ教会に置く為の方便だという事は鈍い俺でも分かる。『下女』と呼ばないのは俺に対する配慮でしかない。
ゾイは修道女見習いとして勉強しながら、主に雑役の仕事をするそうだ。
「夜ももう遅い。それではゾイ。行きますよ?」
「え? あ、はい、先生……」
ゾイは、このまま俺の部屋に留まるつもりだったのだろう。一瞬、不服そうな顔をしたが、ルシールには逆らえないようで、促されるまま、酷く物言いたげな表情で俺の部屋から出て行った。
「……それでは、お休みなさい。ディートハルトさま……」
最後に振り返り、俺を見たルシールの笑顔は、何処か達観したような悲しげな笑顔だった。