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66 慈愛

 聖エルナ教会にある左の居住塔。その最上階にある司祭の部屋から、見下ろす形で外門に佇むアシタとゾイの姿を見つめている。


「…………」


 俺は……何故、自分で行かないのだろう。何故、自分の口で決別の言葉を突き付けないのか。


 ロビンは黙って一礼し、部屋から出て行ってしまった。


 教会騎士であるロビンは、神官のような聖職者を除いて容赦のないヤツだ。まだ子供だから殺しはしないだろうが、二人が要求に応じない時は、容赦なく実力で排除するだろう。


 ゾイもアシタも、階上の俺から目を離さない。


「……!」


 その二人から、俺がもぎ取るようにして目を離すと、ルシールが躊躇いがちに、そっと言った。


「ディートハルトさま。あの二人は、知り合いなのですか……?」


 ロビンにもルシールにも、この聖エルナ教会に来る前の事は言ってない。

 これからも詳しい話をするつもりはない。それらはもう過去の出来事であり、振り返るべき事ではない。


「……」


 ルシールは黙っている。俺が話し出すのを待っているようだ。

 俺はルシールの容貌に弱い。

 いつも口元を引き締めていて、目尻をつり上げたルシールは、一見して厳格な『キツそうな女』だ。そういう女が目尻をこれでもかと下げ、ひたすら俺を気遣う顔をしていると、何か言わなければならないような気がして来る。


「……」


 何度もルシールを見て、何度も目を逸らす事を繰り返す。


「う……」


 その間もルシールは我慢強く黙っていて、俺が口を開く事を待ってくれている。


「…………」


 結局、俺は根負けし、ほんの少しだけ口を開く事にした。


「……俺は、元々、あの二人がいた集団に所属していた……」


 それは、言外に孤児であるという事を示している。まぁ、本当のディートハルト少年には父親が健在だが、似たようなものだ。


「――!」


 その俺の告白に、ハッとした表情を見せたものの、ルシールは何も言わない。今にも泣きそうな顔で、そっと俺の肩に手を掛けたがそれだけだ。


「……その時、会った宣告師に『神官』としての宣告を受けた。あれらには世話になったし、迷惑も掛けた……」


「……」


 ルシールは何も言わない。

 彼女は正しい沈黙の使い途を知っている。


◇◇


 優しさと静けさと愛情と。


 人を弱らせるには、それだけあればよい。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 少しだけ。

 そのつもりだった俺だが、気が付くと殆どの出来事をルシールに話していた。


 彼女らが所属する集団は、拙いながらも必死に生きていて、俺はそこでヒール屋をして日銭を稼ぎ、そこでアレックスとの間に奇妙な繋がりが生まれた事。


 無論、全てを話すつもりはない。


 だが、この異世界にやって来て未だ二ヶ月弱。その内の半分以上を彼女らの集団に属して過ごした。それなりに濃密な時間だった。


 そして、愚かで哀れなジナの事。


 そのジナのした事で俺は死にかけ、仲間の報復に遭ったジナは半死半生の有り様になった事。


 そのジナに『逆印』が刻まれた事を話した時は、流石のルシールも仰天して目を見開いたが、それでも黙って俺の話を聞いていてくれた。


「……」


 ルシールは黙っている。彼女は、きっとよい聞き手なのだろう。そもそも慈悲と慈愛なくしては癒し手の資格はない。

 それが俺を弱くする。

 アスクラピアは復讐を是とする神だ。苛烈だが、それだけの存在ではない。力を振るう神官には代償を要求し、五戒という厳しい制限を課すが、困難に打ち勝つ者には新たに力を与える。


 そう。俺の信仰するアスクラピアは、人間と同じように複雑なのだ。だからこそ、この不完全で複雑な女神は信仰するに値する。


「ジナは……あれは、まだ子供だ。幾らアスクラピアが赦さんと言った所で、俺はジナを見捨てる気はなかった……」


 俺が複雑な胸の内を吐露する間、ルシールは黙って話を聞いていた。


「だが、仲間たちは、誰一人としてジナを許さなかった」


 それでもジナを救おうとした俺だったが、硬いナイフの背で打たれ昏倒し……


「俺は、死人も怪我人も嫌いだ。いがみ合うにしても、憎み合うにしても、生きていてこそだ」


 だからこそ、俺は仲間と呼ぶ存在が許せない。これは俺が俺自身である為に許してはならない事だ。


 それ故、俺は黙って彼女らの集団を離れた。


 もう、戻るつもりはない。


 だが、俺を追って来た彼女らを見てしまったこの複雑な胸の内はどうしようもない。それでも別れを選択したのは……


「俺は、冷たくて残酷なヤツだ」


 そこで、漸くルシールは口を開いた。


「あなたが本当に残酷な人なら、そんな顔はしません。それは、人として当然の感情です……」


「やめろ。慰めるな」


 そんなものは何の役にも立たない。全て慰めは卑劣だ。言い訳したくなる。本当は違うのだと言い訳したくなる。それは卑劣以外の何物でもない。


 頑なに言う俺を見るルシールの瞳から、ぽろぽろと涙が溢れた。


「あぁ……お願いです。一人で苦しまないで下さい。一人で痛みを背負わないで下さい……」


「…………」


 ルシールは膝を着き、幼いディートハルト・ベッカーの身体を引き寄せ、抱き締めた。


「……ほんの少しでいいのです。だから、どうかどうか、貴方の苦しみの一欠片でいい。私にもそれを背負わせて下さい……」


◇◇


 愛は、いつだって油断ならない曲者くせものだ。幾ら頑なに振る舞おうと、それはいつの間にか、お前の固く閉ざした心の扉を開いてしまう。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 そこで階段を上がるブーツの音がして、慌てて立ち上がったルシールは、ぐんと胸を張り、いつもの厳格な表情に戻った。


 目元と鼻の頭が赤くなければ、それはいつものルシールだったと思う。


 その泣き顔を隠すようにルシールは窓際まで歩き、アシタとゾイが居ただろう外門の辺りを見る事でロビンとの正面からの対面を避けた。


 これ以上、卑怯者になるのは御免だ。俺は執務机の前にある椅子に腰掛け、いつも間の悪いロビンに感謝した。


 そして、間を置かず扉を開け放ったロビンだったが、これが意外にも酷く困った顔で目尻を下げている。


「……申し訳ありません、ディートさん。あの子らに会って頂けませんか……?」


「うん? どうした?」


 これは珍しい。この狂信者が往くべき道を譲るとは、これは相当な事だ。

 ロビンは申し訳なさそうに言った。


「……実は、あの浮浪児の一人がベル氏族の者なのです……」


「ベル氏族?」


「……はい。砂漠に住む鬼人オーガの一種族でして……私の家門は、このベル氏族に大きな借りがあるのです……」


「借り……?」


 この狂信者すら恩義に思うその『借り』に非常に興味を駈られた俺だったが、そこで振り返ったルシールが割り込んだ。


「では、会いに行きましょう」


 振り返り、そう言ったルシールの泣き腫らした顔を見て、少し驚いたように目を見開いたロビンだったが、一瞬後には気持ち悪そうに眉間に深い皺を寄せた。


 ロビンは俺に歩み寄り、怪訝そうに耳打ちした。


「……ルシールを叱責なさったのですか……?」


「似たようなものだ……」


「なら、いいんですが……」


 ロビンは納得出来ないのか、口をへの字に曲げている。


 ルシールはもう、その泣き濡れた顔を隠そうともしない。


◇◇


 気高く情け深くあれ。

 その事だけが、お前と他の一切を区別する。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 俺は右手で顔を拭った。


 人には得手不得手がある。どうやら俺は、ルシールの泣き顔が苦手なようだ。


「さぁ、行きましょう。すぐ行きましょう。心行くまで話し合いましょう」


「なんです、お前は。いい歳をして、涙など見せてみっともない」


 妙齢の女性に年齢の事を言ってはいけない。それは命を縮める事になる。いい歳の男なら、皆知っている常識だ。


 ルシールは、ロビンに睨み殺さんばかりの視線を向けてやり返した。


「だまらっしゃい。このぼんくら騎士が!」


「ぼ、ぼんくら?」


「何も知らず、何も分かろうともしない。そんなお前は埋葬されるがいい!!」


「なっ、なっ……なんですって!?」


 そのルシールの鬼気迫る剣幕には、俺ですらも怯んでしまう。流石のロビンも目を白黒させて困惑している。


 犬猿の仲とは、正にこの二人の事を言うのだろう。


「……!」


 二人は黙って睨み合う。


 湧き出した感傷をロビンが台無しにしたが……俺はこうして、ベル氏族の一人『アシタ・ベル』とゾイとの面会を果たす事になった。

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