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65 警告

 この聖エルナ教会の居住塔は教会堂を挟んで二つあり、それぞれ二十室ほどの個室がある。

 つまり、最大で四十人程の居住スペースがあるという事になる。

 教会堂に向かって左の居住塔の最上階に司祭たる俺とその第一の騎士であるロビンの居室があり、一階部分には元助祭であるルシールの居室もあったが、今は他の修道女シスタたち同様、右の居住塔に自らの居室を移動させている。


 両腕の骨折を問題なく治療した後、アレックスは、現在、右の居住塔に『入院』している。

 勿論、アホのままだ。

 アホになったアレックスには絶対安静を言い渡し、身元引き受け人のアネットには、非道を行わない事を条件に、アレックスの『入院』の許可をもらった。


 勿論、寛容な俺は非道な事なんてしない。少し、修道女シスタたちの研修材料になってもらうだけだ。


 そのアホのアレックスには、年配のポリーを中心に二人の修道女シスタを付け、計三人で世話に当たらせている。

 具体的には食事の世話をさせたり、垂れ流しになった下の世話をさせたり、散歩させて適度な運動をさせたり。時折、精神安定の術を掛け直す必要があるが、それもポリーらに一任している。万が一に備え、拘束もしてあるので、正気付いた所で修道女シスタたちが被害を受ける事はないだろう。


 再生を進めているアレックスの『右手』についての管理はマリエールに一任している。


 そして、この聖エルナ教会の普段の活動内容だが……


 日々、アスクラピアへの信仰と愛を深める為に禁欲的かつ規律厳しい生活を送っている。

 それ以外には、市井での炊き出しや治療行為なんかの奉仕活動もやっているようだが、治療行為に関しては喜捨の要求を前提としており、これは『奉仕』というには当たらない。


 俺は新しく司祭の地位に付いた事と、十歳という年齢を理由に暫くの準備期間を設け、この聖エルナ教会の活動全てを見直す事にした。


 その俺の元へ、一修道女に戻ったルシールが山ほどの書類を持って来て、その決済や問題事項に対する判断を仰いで来た。


「……ふむ」


 まあ、気が進まないが、これでも司祭の階級にあり、この聖エルナ教会では『神父』と呼ばれる立場にある以上、こういった裏方の雑務から逃れる術はない。


 ルシールから助祭の権限を奪わなければ、これを押し付ける事も出来たのだろうが、その判断を下したのは俺だ。舌の根も乾かぬ内に、その判断を覆す訳には行かない。


 俺は山ほどある書類に、ざっくり目を通し、それらを幾つかの種類に分類した。


 書類仕事は向こうの世界でも山ほどやった。手際は悪くない方だ。


「……奉仕用に買い付けた豚のエサの備蓄が一ヶ月分か。ここで使用したとしたら、全ての処理にどれだけ掛かる?」


 その俺の問いには、ロビンが嬉しそうに答えた。


「一日三食としても、全て使い切るには半年は掛かりますね。乾燥させれば滅多に腐るものではありませんし、ご安心を」


「では、そうしろ。あの豚のエサを民間に供する事は固く禁じる」


 向こう半年間、ルシールら修道女シスタの食事は、あのドブ臭い豚のエサになる。


「施設の修繕、維持費に金が掛かるのは仕方ないが、少し高過ぎるように感じる。ロビン、私見でいい。お前の意見を聞かせてくれ」


「全く、その通りであります」


「ふむ……ちなみに、この教会の運営費はどうやって工面している」


「毎月、寺院から銀貨三百枚が与えられております」


「三百万シープか……」


 この異世界に来て、二ヶ月近くなる。俺は、そろそろ通貨の価値に大体の想像が付き始めていた。

 仮にこれを一シープ、一円と換算すれば大体それで俺の価値観に合う。千円札は銅貨一枚。銀貨は一万円相当。金貨は十万円硬貨に相当し、扱いづらい。故に金貨は少し価値が目減りする。大抵の取引を銀貨で済ませてしまうのはその為だ。


「……ここに居る修道女シスタたちだって、無給でこき使う訳にはいかんだろう。運営費の半分を修道女シスタたちに与えたとして、残り半分では足りないか?」


 その言葉に目を剥いて驚いたのはルシールだ。


「は、半分というと百五十万シープになります……」


「だからなんだ? まさか無給でこき使っていたのか?」


 答えたのはロビンだ。


「そのまさかであります」


「……」


 俺は異世界人だ。だから、この世界の教会やそこで働く修道女シスタたちの給金に付いては詳しくない。俺は一時この問題を棚上げし、教会施設の修繕、維持費についての書類に視線を落とした。


「……修繕に使っている業者を全て入れ替えろ。ロビン、出来るか」


 ロビンは畏まり、左手を胸に当てて頭を下げた。


「このロビンにお任せあれ」


「うん。その新しい業者とは、一度会っておきたい。段取りも一任する」


「御意」


 ロビンは有能だ。かなりムカつくが、こいつは非常に有能なのだ。いっそ、こいつに司祭を任せる事は出来ないだろうか……


 ちらりとロビンに視線をやると、当のロビンは上機嫌で笑みを返して来る。


 俺は、大きな溜め息を吐き出した。


 一方、慌てたのはルシールだ。


「ぎょ、業者を総入れ替えするのですか? 付き合いが長く、気心も知れた者たちですが……」


「だから腐るものもある」


 ルシールの意見を一刀両断して、俺はロビンに視線を戻した。


「ロビン。お前は有能だが、一人しか居ない。何人か駒を持て」


「はい……」


 ロビンは気に入らないのか不服そうにしている。だが、一方で俺の言う事に納得もしている。

 そう。教会騎士であるロビンが優先しなければならない仕事は俺の護衛だ。この聖エルナ教会の管理ではない。


「…………では、本部に頼んで同胞を手配しましょう……」


 渋々、そう言ったロビンの言葉を、俺は慌てて制止した。


「ま、待て! 待て待て待て待て!!」


 これ以上、狂信者キチガイが増えては堪らない。


「下男なり、下女なり、下働きする者を雇えばいいだろう!」


「はぁ……それは構いませんが……その者たちに支払う給金は、何処から捻出するのですか?」


 修道女シスタに給金を与えるのはいいが、それでは今の運営費だけでは足りない。ロビンが指摘したのはそういう事だ。


「……修道女シスタたちに稼がせる。あいつらには、もっと『実践』が必要だ」


「それは…………面白そうですね!」


 修道女シスタたちを苛め抜く事に定評のあるロビンは、とてもいい笑顔で頷いた。


 そして、何故かルシールの顔色は酷く青ざめている。


「どうした、ルシール。アスクラピアよりも青い顔色をして……」


 その俺の言葉に、ロビンはニヤニヤと意地悪く笑っている。


 ルシールが寺院から与えられた教会の運営費を着服している事は予想出来ている。だが、俺としては彼女に機会を与えたい。


 ルシール・フェアバンクスは真面目な修道女シスタだ。彼女が不正を犯すなら、そこにはそれなりの事情があると思われる。


「し、司教様から、炊き出しの奉仕を中止した理由をお求めになる書状が来ておりますが……」


 なんとかそう言ったルシールに、俺は机の上で指を組んでこう答えた。


「返信には、これを民間に供するのは気が引けると書き添えて、あの豚のエサを送ってやれ」


「そ、それは、司教様に対して無礼に当たるのでは……」


「司教が五徳を知る神官なら、無礼には当たらない。それでも文句があるようなら、俺が直に申し開きしよう」


「し、しかし、奉仕の義務は……」


「奉仕とは、本来、義務付けられるようなものではない」


「は、はい……その通りです……」


 残りの書類は、全て決済処理の書類だ。これは俺が司祭になる前の決定事項だから、今さらそれを覆す訳には行かない。


 それは、全てルシールが決済したものだ。


 俺は、ずいっと山ほどの書類をルシールの方に押しやった。


「残りは、お前のサインでお前が全て決済しておけ」


「……」


 俺は、ルシールに遠回しに警告したつもりだ。


 これで修道女としてのルシール・フェアバンクスの信仰と人間性が試される。


 ロビンは有能だ。俺の思惑などお見通しで、表情を消してルシールを見つめている。


「さあ……面白くなって来ましたね……?」


「……」


 ルシールは答えない。青ざめた表情で、机の上の書類を凝視している。


 俺は退屈になり、窓から見える中庭を見回すと、ポリーら三人の修道女に連れられて、庭を散歩しているアレックスの姿が見えた。


 ポリーには適度に運動させろと命じてある。今はその最中なのだろう。アレックスの腰には縄が付けられていて、それを引っ張るポリーらの後をアレックスは付いて回っている。

 見る影もないとはこの事だ。


「本当に馬鹿なヤツだ……」


 その光景には何の興味も感じなかった俺は、外門の前に佇む二人の人影に眉を寄せた。


 一人は身長一七〇を超える女。もう一人は随分小さいが、がっちりした体つきのドワーフの少女。


 何処か見覚えのある二人の姿に、俺は思わず呟いた。


「アシタとゾイ……?」


「浮浪児ですね。慈悲を施して追い払いましょう」


 ロビンの言うこの場合の『慈悲』とは幾らかの金子の事だ。


「……保護するという選択肢はないのか……?」


 そこで、ロビンの表情は一気に険しいものになった。


「顔見知りですか?」


「……少し。ああ、少しだけだ。特別、仲がいい訳じゃない……」


 俺の複雑な心境を看破したのだろう。ロビンは深い溜め息を吐き出した。


「ディートさん。あれら浮浪児が何人居るとお思いですか? 貴方は蜂蜜より甘く優しい。しかし、我々も余裕がある訳ではないです」


「……」


「それに、あれは浮浪児です。馬車に乗ったって、馬に乗ったって、浮浪児は浮浪児です。信用は出来ません」


 二人を差し向けたのは、アビーの差し金だろうか。


 アシタとゾイは、居住塔の一番上に居る俺を見つめている。


「そうだな……」


 ロビンの言う事は正しい。


 俺が、幾らあの二人に愛着を持っていたとしても、あの二人を信用する事は出来ない。


 愚かなジナが死んだあの日、俺たちの道は別れた。


 アビー、アシタ、ゾイ、エヴァ、スイ……


 全員、悪い奴らじゃない。

 命の安いこんな世界だ。だから、絶対に人を殺してはならないとは言えない。それは彼女らの命を縮める事になるだろうから。


 だが、俺はジナを哀れに思うのだ。


 あの日、置き去りにされ、誰に看取られる事もなく苦しんで死んで行っただろうジナを哀れに思う。


 俺にとって、あれらの浮浪児は、残酷な人殺しだ。ジナが生き返りでもしない限り、その考えは変わらない。


 嫌な物を見た。


 疲れた顔をする俺を、ルシールが心配そうに見つめていた。


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