59 ディートハルト・ベッカー5
適切な答えは、いつだって愛らしい乙女のキスのようだ。
「脳みそのないお前にも、よく分かるように教えてやる。表に出ろ、アレクサンドラ・ギルブレス。お仕置きの時間だ」
俺の言葉の意味を理解出来ず、アレックスはポカンとした顔で隣の遠造を見て、それから俺に視線を戻した。
「……エンゾ、今の聞いたかい? あたし、喧嘩を売られちゃったよ……」
「そうみたいだな……」
短く答えた遠造だが、その口元が不敵に笑っている。
これだけデカい口を叩き、俺が負ければ遠造は笑うだろう。逆の立場なら、俺だってそうする。
馴れ合うのは嫌いだ。
男の関係はこれでいい。
◇◇
アレックスは、ヘラヘラ笑ってソファから立ち上がった。
「やっぱり、あんたは面白いね。付き合ったげるよ。尻でも差し出せばいいのかい?」
「……」
俺は神官服の裾を翻し、背後のアレックスには顎をしゃくって付いて来いと合図した。
再びテラスに戻ると、そこではロビンが油断なく外套の前を僅かに開き、剣の柄に手を掛けている。
そのロビンを伴い、広い中庭に出た所で俺は言った。
「アレックス、ハンデをやる」
「は?」
「ロビン、お前は俺を守れ。お前からの反撃は許さん」
「御意に」
短く応えたロビンは吐息を震わせて興奮していた。俺とアレックスを見つめる瞳が赤い。鮮血の紅。瞳の色が変化するのは種族的なものだろう。
レネ・ロビン・シュナイダーは『騎士』だ。こいつは『戦う者』なのだ。俺の戦意に強く当てられて興奮している。
「安心しろ。今回は、お前を痛め付けるのが目的だ。命を奪う呪は使わない」
「あ、そう。それで、あたしはあんたのお尻をペンペンしたら、それでいいかい?」
「……」
馬鹿なヤツだ。
幼い見掛けだけで俺……ディートハルト・ベッカーという高位の神官を侮っている。
「その言葉、侮辱と受け取るが、いいか」
アレックスはニヤニヤ笑っている。俺は本気で言っているが、こいつには、その本気が一切伝わってない。
「ああ、ごめんごめん。でも、ねぇ……?」
「そうか。それでは、もう一つハンデをやろう。お前は真剣を使って構わない。俺を殺すつもりで掛かって来て構わない」
そこでアレックスは目尻を下げ、困った表情になった。
「ディート。あんた、自殺願望があんのかい?」
「ふむ……」
俺は少し考える。
この事の意味を考える。アレックスは余裕綽々で、ここまで来て尚、挑戦されているという意識がない。自分が負けてしまうという可能性を微塵も感じていない。これをどうするか。
「そうだな……」
少し考えて、結局の所、俺は面倒臭くなった。
馬鹿に付ける薬はない。身体に叩き込むのが、一番手っ取り早く分かりやすい。
「……話し合うのも面倒だ。始めよう……」
アスクラピアの二本の手。
一つは癒し、一つは奪う。
彼の者は永遠に一である。
多に分かれても一である。永遠に唯一のもの。
「……多に別れよ。戦士の魂……!」
刹那、アレックスから飛び退いて距離を取った俺の周囲の空間に十二の聖印が浮かび――
召喚に応じた十二の戦士が現れる。
その一人一人に顔はなく、のっぺりとした表情。何れも軽鎧を纏い、手に手に長い錫杖を持っている。アスクラピアの高等神法、聖闘士の出現だった。
「……なっ!?」
そこで、流石のアレックスもギョッとして飛び退いた。
「行け、聖闘士。ヤツをぶちのめせ」
聖闘士たちに命じる俺の前に、抜剣したロビンが静かに立ち塞がる。
「マジか……!!」
手に手に持った錫杖で打ち掛かって来る聖闘士たちの姿に焦ったアレックスだったが、そこは一流の冒険者らしく即座に抜剣して応戦する。
「……」
数の上では十二対一。四方八方から迫る攻撃に、たちまちアレックスは防戦一方になった。
ロビンは静かに言った。
「馬鹿なヤツです。しかし……このままでは死ぬ危険がありますが……」
俺は小さく鼻を鳴らした。
「手加減はしている。この程度で死ぬなら、その程度のヤツだ。惜しむべき何物もない」
さて、この高等神法と呼ばれる召喚術だが……聖闘士はあまり強くない。
アレックスの本来の力を百とするならば、聖闘士一体辺りの戦力は、おまけして十という所だ。
よって、数で圧殺する。
「アレックス、本気を出せ。急がんと大変な事になるぞ」
パチンと指を鳴らして見せると、再び周囲の空間にアスクラピアの聖印が浮かび上がり――
再び十二の聖闘士が現れてアレックスに殺到する。
これで戦力比は二四対一。
アレックスは左手に持った長剣と右手のゴツい義手を駆使して立ち回っているが多勢に無勢。しかも、本来の力とは程遠い状態にある。
「ちょ、おい……本気か……!」
アレックスは逃げ回りながら、焦ったように俺を見て叫んだ。
ロビンは呆れて首を振った。
「……これは……私は必要なかったのでは……」
そうだ。最早、勝負あり。
アレックスは高位の神官を知らなすぎる。
俺は静かに息を吐く。
「……止まれ。戦士たち」
そこで、今正に錫杖でアレックスを打ち据えようとした聖闘士たちの手が止まった。
――静寂。
アレックスは荒い息に肩を揺らしながら膝を着き、動きを止めた聖闘士たちと俺とを見比べた。
「どうした、アレックス。チャンスだぞ?」
ここに至り、アレックスの瞳にめらめらと怒りの色が浮かぶ。
「ディート……あんたは……!」
「馬鹿が。漸く本気と分かったか」
この屈辱に、鬼人の血が騒ぐのだろう。赤いローブを脱ぎ捨てたアレックスの身体が赤銅色に染まっている。
俺は首を振った。
「アレックス。お前は、戦う術を持たない者を連れて仲間の仇を討ちに行くつもりだったのか?」
「……っ」
「俺とお前。舐めているのは、どっちだ?」
「――ガアアッ!」
刹那、アレックスは咆哮し、左の長剣で周囲の聖闘士をなぎ払った。
俺の命令に動きを止めていた聖闘士は、アレックスに凪ぎ払われ、三人が虚空に消え去ったが特に問題ない。
「――このクソガキが!!」
アレックスは荒れ狂い、無防備な聖闘士を切り付けて数を減らして行く。
「俺は、馬鹿と騒がしいヤツは好かん」
「私もです」
俺は無防備で攻撃されて消えていく聖闘士たちを見ても、攻撃の再開を許可しなかった。
「ロビン、少し遊んでやれ」
「……よいのですか?」
そう答えたロビンの瞳の色は落ち着き、元のコバルトブルーに戻っている。
「ああ、殺さなければそれでいい」
俺は右手を掲げるようにもたげ、静かに祈る。
「……戦士よ。お前は、あらゆる勝利の名を背負っている……」
魔術師と違い、直接攻撃の術が少ないアスクラピアの術には、身体能力向上系のものが多い。
強い祝福を受けたロビンの瞳がたちまち赤い鮮血の紅に染まり、再び戦意の向上が見られる。
「百の勝利。千の栄光は金色に輝き映える」
「素晴らしい……これも高等神法ですね……力が……漲る……」
更なる祝福を受け、ロビンの口元が不吉な三日月を描く。
「行け、この程度で充分だろう」
丁度、アレックスが聖闘士全員を切り伏せた所で、俺はロビンに命じた。
「三合以内に片付けろ」
「御意」
そう答えた次の瞬間には、ロビンはアレックスの前に立っていた。
「――!」
人智を超えたその速度に目を剥いたアレックスに、口元に不吉な弧を描いたままのロビンが剣を振るう。
ごう、と剣風が吹き荒れた次の瞬間、ただの一合たりとも剣撃を受け止め切れなかったアレックスの剣はキリキリと音を立てて宙を舞い、庭の芝生に突き刺さった。
「やはりか。つまらん」
ロビンの実力が見たかったのだが、今のアレックスとでは戦力比が大き過ぎて参考にならない。母の術による強化は全く必要なかった。
ロビンもそう思うのか、呆れたように首を振って、剣を鞘に納めてしまった。
素手で充分という事だ。
ロビンは、がっかりしたように言った。
「貴女、やる気あります?」
「……」
片手という事もあるが、今のアレックスは弱すぎる。左手の接合術式を経て、多量の出血を見た身体は貧血状態にあり、本来の半分も性能を発揮出来ないような状態だ。
勝って当然。
「ロビン、下がれ」
「……はい」
膝を着き、愕然とした表情のアレックスの様子に、ロビンは失望を隠し切れないようだ。
「貴女、いりません。当為の達成には、私とディートさんの二人で結構です」
俺は再び指を鳴らし、再び十二の聖闘士たちを召喚する。
「立て、アレックス。もう一度だ」
「…………」
ゆっくりと俺に向き直ったアレックスの顔は唇まで青ざめ、重度の酸欠の症状を呈している。
何度やっても結果は同じだ。
アレックスもそれを理解したのだろう。
「……」
戦意を喪失したアレックスが俺を見た表情は、くしゃくしゃの泣き笑いのような顔だった。