56 ディートハルト・ベッカー2
まず、俺は言った。
「シュナイダー卿、忘れたか? ここオリュンポスに於いて、お前は招かれざる客だ。発言もそうだが、俺の如何なる行いについても邪魔する事は許さんと、そう言ってあった筈だな……」
そうだ。
俺はロビンと結んだ契約を破棄した覚えはない。その事に気付いたロビンの顔はみるみる内に青ざめ……
「恥を知れ! この痴れ者が!!」
激しい怒りに、身体が沸騰する思いだった。
「本来は立ち入るだけでも許されん立場にありながら、口先だけで暴利を貪ろうとするとは厚顔無恥にも程がある!!」
これは、以前発したような命を削る類いの言葉を使った雷鳴ではない。その為、ロビンが寿命を縮めるような事はない。
だが、神官の神力を伴った言葉には強い力が宿る。
「その汚い口を閉じていろ。俺が許可するまで、二度と喋るな!」
この狂信者に、命を削る類いの罰は効果がない。言動を制限する方が余程効果的だ。
「そんな! 私は――」
ロビンは何事か言い訳しようとして――開き掛けた口が、かくんと閉じた。
俺は、永遠にこの教会騎士の発言を許すつもりはない。以後、教会騎士レネ・ロビン・シュナイダーは、ここオリュンポスのクランハウスに於いて、二度と喋れなくなったという事だ。
「出て行けと言わんだけ感謝しろ……!」
言霊による『強制契約』。これが神官の雷鳴の正体だ。その威力は、雷鳴を発する神官の力と怒りの程度に依る。
そして――
「ルシール……! ああ、ルシールよ!!」
「あ、あああ……」
何度も言葉を発そうとして、それでも発声に失敗し、喉を掻き毟るようにして喘ぐロビンを見て雷鳴の威力を悟ったルシールは、その場にへなへなと座り込んだ。
「……お前は、俺のする事に口出し出来るほど、いつから偉くなったんだ……?」
「お許しを……どうか御慈悲を……」
ルシールは膝を着き、頭を垂れて謝るが、実力もなく口先だけで権利ばかりを主張する恥知らずを許す訳には行かない。
だが、ゴミクズと違ってこいつが俺の逆鱗に触れるのは初めての事だ。少しは慈悲を以て接してやってもいい。ぐっと怒りを堪え、『雷鳴』だけは勘弁してやる。だが――
「お前の助祭としての任を解く。これからは、一修道女として皆と肩を並べて精進せよ」
「あ、ああああ……!」
権力を振りかざすヤツが一番苦痛を感じる時は、その権力を奪われた時だ。教会内に於いて、助祭としてのルシールの権力は大きい。司祭の不在時には司祭と同等の権力を与えられるほどだ。今回はそれを剥奪した。
ルシールは平伏し、咽び泣いた。
俺としては、金属バットと名前を変えなかっただけ、有難いと思ってもらいたい。
ふと思った。
次、ルシールが何かやらかした時は『金属バット』に改名させよう、と。
無論、こんなバットは愛用しないが。
「……遠造。もういいぞ」
ポリーに軽く背中を叩かれた遠造は、耳の穴に突っ込んだ指を外し、黙り込んだロビンの歪んだ顔と、咽び泣くルシールの様子とを交互に見比べ、それから眉を下げたドン引きの表情で俺を見た。
「金は……そうだな。今回は俺が直接受け取ろう。帰る時にでも渡してくれ。勿論、いつもの額で構わない」
「お、おう……」
耳を塞いだ遠造の判断は全く正しい。『雷鳴』は対象を選ばない。関係なくとも影響を及ぼす場合があるからだ。
そこで、意図せず溢れた神力が静電気のようにパチッと音を立てて煌めいたのを見た遠造が、慌てて上着を抱えて逃げ出そうとしたのを見て、その背中に言った。
「アネットに、話があるから来てくれと言っておいてくれ」
余程、今の俺が嫌なのか、遠造は後ろも見ずに治癒室から飛び出して行ってしまった。
……他の修道女には、あの豚のエサでも食わせよう。
少しは考え直すだろう。
そこまで考えた所で、逃げた遠造と入れ替わりになるように、ニコニコと笑顔のマリエールが治癒室に入って来た。
「……?」
マリエールは俺を見つめ、小首を傾げた表情に疑問符を張り付けている。そのエルフの尖った耳には、ご丁寧に耳栓が突っ込んである。
「……耳栓を取れ。そのままじゃ話も出来んだろう……」
この女の価値観と性格には難があるが、頭脳の方は驚くほど明晰だ。俺が耳を指差して見せると、一つ頷いたマリエールが、耳栓を外しながらロビンを指差して言った。
「馬鹿」
続けてルシールを指差して言った。
「無恥」
この女の価値観と性格には難がある。頭脳明晰である反面で、個人主義。興味のない事には見向きもしないが、逆に興味のある事には寝食を忘れて没頭する。
ロビンが怒りに床を踏み鳴らし、ルシールは一層咽び泣く。
「こうなると思った」
「……」
このマリエールという女は賢すぎるのが問題だ。俺が団体様で訪れた時には既に『雷鳴』を予見しており、予め耳栓をして治癒室に入って来た。
短く溜め息を吐いて呆れる俺に、マリエールが手を握り込むようにして、そっと伽羅の破片を渡してくれたのでそれを口に放り込んだ。
「ふむ……」
ロビンの持っている物とは少し違うが、これはこれでいい伽羅だ。香りが澄んでいて、優しい味がする。
俺がその伽羅を嗜む間、マリエールは椅子に腰掛け、ニコニコと笑顔でその様子を見つめていた。
落ち着いた所で、俺は言った。
「……マリエール、お前は賢い。もう分かっていると思うが、この者たちに治療の光景を見せてやりたい。嫌なら出て行かせるが……」
「構わない」
そこで、ずかずかと態とらしい足音を立て、アネットが治癒室に入って来た。
「……来たか。暫く振りだな」
「……」
アネットは黙って腕組みした『警戒』のポーズ。だが、ここに来た以上、話し合いの余地はあるという事だろう。
「いい加減に機嫌を直せ。意地を張って無視を決め込むのもいいが、治療ぐらいさせろ。そうでなければ、俺がこのオリュンポスに来た意味がない」
その言葉に、アネットは目尻を下げ、困ったように俺を見た。
「……………………」
暫くの沈黙の後、アネットは腕組みを解いた。
「……そうね。もう忘れるわ……」
「そうしろ。いがみ合うのは治療の後でも出来る」
「……そこまでしてする事でもないわね……」
「そうだな。拘る事ではないな」
やんわり返すと、アネットは微かに笑みを浮かべた。
◇◇
そして――
ローブの上半身部分をはだけ、半裸になったマリエールの姿を見てアネットは戦慄した。
「な、なによ、これ……」
マリエールの右の乳房はどす黒く変色し、青黒い血管が蜘蛛の巣のように浮き出ている。
見る者全てが『不吉』を連想するであろう『病変』に、俺も意図せず険しい表情になった。
「……これが『癌』……悪性腫瘍だ」
「…………」
アネットは言葉もなく、瞬きすら忘れたようにマリエールの『悪性腫瘍』を直視している。
「こ、これって、どうなるの? 治らないの……?」
「かなり進行している。このままでは、二年も生きられんだろうな」
ロビンや七人の修道女たちも息を飲み、緊張と共にこの深刻な現状を受け止めていたが、当のマリエールは平然としている。
「治る?」
マリエールの短いその問いには、俺も決意を以て短く答えた。
「治す」
マリエールは朗らかに笑った。
「なら、問題ない。先生との出会いに感謝を……」
「……」
アネットは額に珠のような汗を浮かべ、マリエールの腫瘍から目を離せずにいる。
「癌って、前にあんたが言ってたやつよね……これは……」
マリエールの場合、既に身体の複数箇所に転移が見られる。この病は死に繋がる病だ。そしてこの病との戦いは長く厳しいものになる。
そう告げた時のアネットの動揺は激しいものだった、
「嘘……転移まですんの……?」
「だから、こうなる前に治療をさせろと言ったんだ」
「……」
「腫瘍は最終的に脳にも転移する。この病の最後はとても苦しいものになる」
アネットは何度も唾を飲み込み、怯えたように口元に手をやった。
「蛇は……アスクラピアの力は……」
「これはマリエールの身体と同化している。『癒し』ではどうにもならん。母その人ならどうか知らんが、今の俺の力では不可能だ。よって、治療には別の手段を用いねばならない」
そこで、俺は苦しくなって首を振った。
「この病の治療法は幾つかあるが、俺は個人的な理由から、最も安全で最も時間が掛かる方法を選択した」
「な、なんで……?」
笑いたければ笑うがいい。
俺は正直に答えた。
「……最も簡単で早い治療法は、マリエールの身体を切り刻んで腫瘍を全て摘出してしまう事だ。その時は全身に母の術を以てしても消せない傷跡が残るだろう……」
それはもう、見る影もない程に。
「俺は……その方法を選択出来なかった……惰弱と笑ってくれて構わない……」
『エルフ』という生き物は美しい。ましてマリエールは女だ。例えその命と引き換えになったとしても、俺にはこの美しさを壊す事は出来ない。
「……」
――癌。
この悪魔は、いったい俺を何処まで苦しめれば気が済むんだ。
脳裏に踊るのは痩せこけて骨と皮だけになって死んでいった母の姿だ。アスクラピアじゃない。俺のお袋だ。気が弱く、報われる事なく死んでいった。
負けたくない。この世界にて、アスクラピアの強い癒しの力を得た俺だが、その力を以てしても、未だこの悪魔に勝利するに至らない。
俺は自らの惰弱と無能を悔やみ、額を掻き毟った。
――誰一人として、笑う者はなかった。
この時の俺は、それが酷く惨めだった。
明日は朝6時の更新になります。