<< 前へ次へ >>  更新
56/189

54 強力な神官

 さて、現在、この聖エルナ教会には、修道院長のルシールを含めて七人の修道女シスタがいる。つまり、ここには七人の『癒者』がいるという事だ。


 俺は来るべき試練に備え、まずは彼女らを使えるものにしなければならない。


 夜が明け、朝早くから顔を出したロビンは妙に上機嫌だった。


「ディートさん、おはようございます」


「……」


 いつだって、朝は新鮮な死を思わせる静寂に包まれているべきだ。ロビンの挨拶に俺は小さく頷くだけにとどめ、殊更不快感を隠す事はしなかった。


 その俺の不機嫌とは関係なく、今朝のロビンはよく喋った。


「昨夜は、ルシールを強く叱責なさったそうですね。それでこそ、ディートさんです」


 どういう意味だ。さらっと酷い事を言われたような気がするのは俺だけだろうか。

 ……まあいい。


「ロビン、着替えを手伝ってくれ」


「はい!」


 俺は内心で舌打ちした。

 『シュナイダー卿』と呼ぶのを忘れてしまった。その後のロビンは、酷く上機嫌で俺の着替えを手伝ってくれた。


 十二のボタンを留め、腰のベルトを固く絞めると、姿見の中にはいつもの俺がいる。気が引き締まった所で――


「ロビン、遊びは終わりだ。今日の予定はルシールから聞いているだろう」


「……」


 遊びは終わり。そう聞いたロビンの顔付きは瞬く間に引き締まり、平淡なものになった。

 一拍の間を置いて――


「はい。聞いております」


「よし」


 短く応えた後は、ロビンと共に食堂に向かう。

 教会の朝は早い。

 昨夜は元修道院長であるルシールを叱責したが、彼女らは彼女らなりに厳しい規律の下に生活している。強い叱責のせいもあるだろうが、今朝に限っては『神父』の立場を持つ俺より、彼女らの方が余程早くから起きていて、テーブルには既に朝食が準備されており、席には全員が着席して俺を待っていた。


「……」


 挨拶の代わりに聖印を切って見せると、全員が黙ってそれに倣う。ロビンは静かにその光景を見回し、満足したのか、重々しく頷いて見せた。


 席に着く前、顔を腫らしたポリーが少し辛そうにしていたので軽く肩を叩いて祝福してやると、周囲に、ぱっと目映い星が散った。


 他の修道女シスタたちの注目を集める中、当のポリーは、目を見開き、次の瞬間には何事もなかったかのように、しゃきっと背筋を伸ばした。


「…………」


 何か言いたそうに俺を見るポリーには頷いて見せるだけに留め、短い祈りの後に皆で簡素な食事を済ませた。

 全ては沈黙と静寂の内に進む。

 今が特別そうなのではなく、アスクラピアの教会に於いては全てそうだ。

 アスクラピアは死を思わせる静寂を好む。

 修道女シスタたちが沈黙の中、出立の準備を終えた頃には、ロビンも蛇の紋章が刻まれた黒い外套マントに、やはり蛇の紋章が刻まれた黒い甲冑に身を包み、厳格な雰囲気を持つ教会騎士の姿に戻っている。


 万事、よし。


 教会の前には、ロビンが手際よく手配した二頭引きの馬車が二台用意されており、その馬車に乗り込む寸前、そっとポリーが俺の手に飴玉を握らせた事で微妙な気分になったが……まあ、それはそれだ。


 一路、オリュンポスへ。


◇◇


 静かな早朝の街並みを行く。

 がたごとと揺れる馬車の中、オリュンポスの連中に、ぞろぞろと引き連れた七人の修道女シスタの事をどう説明したものかと悩んでいると、その俺にロビンが小さく耳打ちした。


「……アレックスさんには、既に了承を得ております。ご安心下さい……」


「む……そうか……」


 本当に悔しい事だが、ロビンは恐ろしく役に立つ。おそらく、教会騎士という連中は、皆がこうなのだ。神官の事を熟知しており、骨身を惜しまず行動する。

 しかし、素直に礼を言うのは癪に障る。

 俺は黙って聖印を切り、ロビンに祝福を与える事で労いの代わりとした。

 ポリーに与えたのと同じ祝福だ。気力、体力の回復効果の他、小さな怪我や風邪程度の軽い病気ならこれ一つで済む。ぱっと小さく星が散り、ロビンは一瞬、驚いた後、口元を緩ませた。


「うふふっ…………失礼……」


 素直でない俺の謝意に、ロビンは笑いを堪えられないようで、顔を逸らして笑いを噛み殺している。


 ムカつくヤツだ。役立たずなら即座にクビだと言ってやるものの、こいつはやり過ぎる反面で、気が利き、非常に役に立つ。それがどうしようもなく腹立たしい。


「あの、神父さま……」


 そこで、同じ馬車に同乗していたルシールが酷く心配そうに俺の顔を覗き込んで来た。


「朝から、そのように強い祝福を何度も行使されては、お体に障るのでは……」


 それに応えたのはロビンだ。呆れたように首を振り、小さく溜め息を吐き出した。


ディートさん(・・・・・・)には、この程度はなんて事ありません。お前の心配は無用の長物です」


 何故かロビンは、殊更に俺の名を強調する言い回しをして、『神父』と呼ばない事が少し引っ掛かる。


「そ、そうですか……失礼しました……」


 何処か圧迫するようなロビンの雰囲気に気圧されたのか、ルシールが引き下がると、ロビンは口元に薄い笑みを浮かべ、それから興味を無くしたように馭者席側の幌を捲って車外を見た。


「……そろそろオリュンポスです……」


「……ああ」


 アレックスの左手接合術式以来だから、オリュンポスに訪れるのは四日振りという事になる。

 休養は充分取れた。

 気力、体力、神力共に回復している。体調は全く問題ない。それに加え、アスクラピアとの対面を経て俺の神官としての力は上がっている。

 先ずは、この力を試したい。

 逸る気持ちを圧し殺し、俺は静かに視線を伏せた。


◇◇


 馬車を降り、オリュンポスのクランハウスの前に立つと既に門戸は開かれており、中央エントランスにある階段の柱に、豪奢な赤いローブを纏うアレックスが凭れ掛かるようにして、笑みを浮かべているのが見えた。


 ぞろぞろと七人の修道女シスタを連れ、クランハウスに入った俺に、濃い疲労感漂う笑みを浮かべたアレックスが言った。


「おはよう、ディート」


「……」


 俺はそのアレックスの顔を見て一辺に不愉快になり、挨拶は雑な聖印を切る程度に留めた。


「馬鹿め。術式後は、ちゃんと休めと言ってあっただろう。顔に疲れが出ているぞ」


 出迎えには猫人ワーキャットの遠造も来ていて、俺の言葉に肩を竦めている。


「まさか、もうダンジョン探索を再開しているとは言わんだろうな?」


「そこまではしてない」


 アレックスは濃い疲労の浮かぶ表情で、何処かぼんやりしている。嘘はいてないように見えるが……


「阿呆が。殆ど寝てないだろう」


 視線を落とすと、アレックスの右腕にはゴツい義手が填まっている。


「こっちも色々あるのさ」


 アレックスは妙なしな(・・)を作り、柱に凭れ掛かったままでいる。


 そこで中央階段から降りて来たマリエールの瞳の下に紫の隈が浮かんだ笑みを見て、俺は呆れに呆れて首を振った。

 この女の価値観と性格には難がある。俺の治療方針には素直に従うが、それを理由に自らの行動を制限する事はしない。

 やりたい事をやりたいように。

 それが魔術師『マリエール・グランデ』の行く道だ。


「マリエール、また徹夜か」


「うん」


「そうか。ダンジョンに入ったと言えば、お前を殺していた所だ」


 遠造を除き、ここには悪い患者しか居ない。三人のメイドたちもそう思うのか、呆れたように首を振っている。


 馬鹿に付ける薬はない。注意するのも面倒だ。


 俺は強く手を打ち、広範囲に祝福をばら撒いた。


「おおっ……!」


 エントランスに降り注ぐ清らかな星の輝きに、遠造が目を剥いて刮目し、アレックスとマリエールは両手を開いて祝福を受け止めている。


 まずは、こんなものだろう。


 俺が神官服リアサの襟を直すと、何処かぼんやりしていたアレックスが、正気に立ち戻ったかのように狂暴な笑みを浮かべた。


「ようこそ、オリュンポスへ……!」


 俺は小さく頷き、アレックスの挨拶には虫でも追い払うように手を振って応えた。

<< 前へ次へ >>目次  更新