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51 金属バット

 聖書で語られる神話に於いて、かつてのアスクラピアは癒しを司るだけの善性の存在に過ぎなかった。


 しかし、醜い蛇の姿を忌み嫌った軍神アルフリードの剣に因って、命乞いの甲斐なく無慈悲に斬り殺されてしまう。


 ――母は身籠っていた。


 アスクラピアの切り裂かれた腹から、うじゃうじゃと無数の子蛇が湧き出し、その光景に嫌悪を覚えた軍神アルフリードは剣を引いて立ち去った。


 子の為に命乞いしたにも関わらず、無慈悲に斬り殺された母と、遺された子の怨念の壮絶たるや如何に。


 アスクラピアはこれにより昇神し、神と呼ばれる存在の一柱に至った。


 癒しと復讐の女神『アスクラピア』の誕生である。


 この後、軍神アルフリードはアスクラピアによって『逆印』の咎を受ける事になる。


 無敵の強さを誇る軍神アルフリードではあったが、如何なる回復の術もまじないの類いも受け付けぬ身体になり、戦傷に苦しんだ末、最後にはアスクラピアの遺した子のしゅに因って非業の最期を遂げた。


 因果応報である。


 嘘か本当かは知らんが、アスクラピアしゅは未だに健在で、軍神アルフリードの血を引くとされるアルフリード帝国の王族には身体の何処かに逆印が刻まれているのだという。


 軍神アルフリードは無慈悲の咎により、子々孫々、永劫に続く呪いを得たという訳だ。


 あくまでも神話だ。

 真偽のほどは知らん。異世界人の俺には毛ほども興味のない話だ。


◇◇


 閑話休題はなしはかわって

 聖エルナ教会にて与えられた一室で、俺は地獄のような難しい顔で教会騎士ロビンと向き合っていた。


「なあ、ロビン。神父と牧師の違いとはなんだ?」


 ちなみに、俺のいた世界では『神父』と『牧師』とは似ているようでいて違う。どちらも同じキリスト教の聖職者ではあるが、『神父』はカトリック。『牧師』はプロテスタントに分類され、立場は明確に違う。

 ロビンは笑顔で言った。


「神父は尊称で、正式な職名は司祭になります。牧師はただの職名になりますね」


 あまり答えになっていない気がする。この世界では、似たようなものと思っていいのだろうか。


 俺の記憶が確かなら、ディートハルトのヤツは、父ベルンハルトの事を『牧師』と呼んでいたが、『神父』がただの尊称とするなら、牧師であるベルンハルトを神父と呼んで差し支えない……のだろうか……?

 分からん。とにかく……


「今の俺の立場はどうなっているんだ?」


 俺に『教える』という事が嬉しいようだ。ロビンは笑顔のまま、頷いた。


「本来、司祭の役割は司教によって任じられますが、現在、この教区に第三階梯の神官はディートさんしか居ません」


 つまり……

 この聖エルナ教会に於いては、この俺が自動的に『神父』になるという事だろうか。

 俺は頭を抱えた。


「すまん。全然、分からない……」


 俺は俺でしかない。いきなり神父とかいうものにでっち上げられたからと言って、異世界の教会に詳しくなる訳じゃない。そもそも興味がない。


「なあ、どうしても神父にならなきゃ駄目か……」


「いえ、どうしても嫌なら、お父上のように野に下るという選択もありますが……」


「うん……」


「それはなりません。貴方は優秀な神官ですが幼すぎる。保護すべき存在が必要です。私もそうですが、今の状況では『寺院』もそれを許しませんよ」


「……」


 分かっていた。

 俺が幾ら自信満々に振る舞おうと、ディートハルト・ベッカーという少年は未だ十歳の子供に過ぎない。全く以てロビンは正しい。だが……


「……『寺院』とはなんだ?」


 その俺の問いに、ロビンは肩を竦めて溜め息を吐き出した。


「……教会を統べる場です。分かりやすく言うなら、大きな教会と思えばいいでしょう」


 馬鹿でも分かる説明をありがとうよ。俺は内心で鼻を鳴らし、口の中の伽羅をがりごりと噛み締めた。

 何処から手に入れて来るのか分からないが、ロビンの持っている伽羅は、アビーが山ほど買い込んでいた安物の伽羅とは質が全然違う。香りに品があり、噛み締めると仄かな甘味が幾らでも湧き出して来る。

 その上等な伽羅を口の中で弄びながら、俺は少し考えて言った。


「……その寺院から、別の神官を呼ぶ訳には行かないのか……?」


 その俺の問いに、ロビンは眉を潜めて言った。


「如何なる理由で?」


「俺はまだ十歳だ。本人の未熟でも、経験不足とでも、なんとでも言えるだろう」


「貴方は行き過ぎな部分がありますが、未熟者ではありません。そもそもこのロビンが、そのような者を主に頂く訳がありません」


 こいつのプライドと信念はどうでもいい。

 俺は、押し付けられそうな責任を回避するのに必死なだけだ。


「しかし、色々と難しい事があるだろう。何も知らんでは済まされん局面もある筈だ」


 ロビンは意外そうに言った。


「それは……ディートさんらしくない。いつものように心の赴くまま、修道女シスタたちを率いればいいのです」


「そうは言ってもだな……」


 そもそも俺は異世界人だ。そんなヤツが中心になって率いる集団が、この世界に受け入れられるとは思えない。それは都合のいい想像だ。


「困った時は、このロビンを頼りにすればいいでしょう。貴方が思い煩う必要は何もない」


 尚も渋る俺の様子に、ロビンは険しい表情になって吐き捨てた。


「なんの為に、このロビンが居ると思っているのですか?」


「……」


 確かに、教会騎士であるロビンなら、教会や寺院に関係する役職等にも詳しいが……こいつは頭が残念なヤツだ。

 俺は悩みに悩んだ。

 ロビンの言う通り振る舞えば、恐ろしい結果になるだろう。それだけは分かる。だから、俺を支える人材は常識人であるべきだ。


「……神父が不在とはいえ、この教会を仕切る者がいるだろう。それは……」


「修道院長の事ですか? 確か……ルシールとかなんとか言ったような気がしましたが、その者がどうかしました?」


「ルシールか」


 俺は以前居た世界で見ていたドラマから、どこぞの悪役が使っていた金属バットを連想した。


「いい名だ。気に入った。その者を補助にしてくれ」


 そして、あわよくばその金属バットに全てを任せたい。俺の悩みなど、軽く吹き飛ばしてくれる筈だ。


「……補助、ですか。その者を助祭に任命するのですね? 分かりました。本人にその旨を通達致します」


 この時、やけにあっさりと意見を受け入れたロビンの様子に、俺は非常な不安を覚えた。


 そして――


 時を経ずして現れたのは、三十代前半ほどの妙齢の修道女だ。

 きりりと引き締まった眉。

 唇は真一文字に固く閉じられていて、いかにも厳格そうな女性というのがルシールの第一印象だ。


 ……好みだ。


 俺自身、見た目は十歳の子供とはいえ、中身は三十代のいい歳の男だ。同年代の異性には強く惹かれるものがある。況してやそれが美人とあればなおさら。修道服なのが尚いい。

 俺は神官服リアサの襟を引き締め、居住まいを正した。


「改めて、ルシールさん。ディートハルト・ベッカーです。よろしくお願いいたします」


「……はい」


 自己紹介はなし。ルシールは暗い表情で頷いた。

 まあ、ここを仕切って居たのは彼女だ。いきなりやって来たガキに地位を取られて嬉しい訳がない。信頼を勝ち得るのはこれからだ。


 と、そう意気込んだ所で、目の前のルシールに、いきなりロビンの張り手が飛んだ。


 張り手の衝撃に吹き飛び、その場に倒れ込むルシールに、ロビンは平然と言い放った。


「礼に倣わざるは卑賎の輩。神父さまが礼儀正しく接して居られるのに対し、お前の態度はなんだ? 明らかに礼を失している」


 さぁ、問題は山積みだ!


 吹き飛んだ金属バット(ルシール)は、ロビンに打たれた頬を押さえながら、睨み付けるようにして俺を見据えている。


 俺は頭を抱えた。

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