42 聖エルナ教会にて2
伽羅をねだる俺の様子に、ロビンは微笑ましいものを見るような目を向けながら上機嫌だった。
その後は、重湯に似た粘性のあるスープを飲むように言われたので大人しく従った。
笑顔で俺の身体を拭いたり、食事の世話をしたりするロビンは狂信者には見えず、世話焼きで年頃の女にしか見えない。
ロビンが笑顔で言った。
「いつも、大人しいディートさんならいいのに」
今の俺は病み上がりのガキに過ぎない。ロビンのお節介は少々うざったいが、行為自体は適切で親切心のあるものだ。
ここはアビーの支配するパルマの貧乏長屋でなければ、俺を受け入れたオリュンポスですらない。押し付けとはいえ、好意を受けながら、それを撥ね付けるのは如何にも厚かましく、そして失礼だ。
俺は右手で聖印を切り、謝辞を述べた。
「ロビン……さん。貴女の好意に感謝を」
「……!」
その瞬間、ロビンは花が咲いたような笑みを浮かべた。
「まあ! うふふふふ!」
◇◇
愛も友情も終わりがある。
仄かな好意だけが永遠の勝利を告げるだろう。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
教会騎士、レネ・ロビン・シュナイダーは公正な取引により、神官たる俺……ディートハルト・ベッカーの騎士になった。
その事の意味を全く理解していなかったのが俺にとっての悲劇の始まりだ。
ロビンは笑顔で言った。
「ディートさん。オリュンポスでは、私との約束を破りましたよね?」
「……そんな事はない。俺は自身の身の丈を超えるような術は使わなかった……」
「十歳の子供が二日近く不眠不休の術式に没頭し、あまつさえ全神力を振り絞った神法を行使し、更には二日もの間、母との会話に及んだ事をそうおっしゃる。どうやら、私たちの認識には重大な行き違いがあるようですね」
「……」
ロビンの言う事は、至極全うなものだ。俺はアスクラピアの神官らしく、沈黙を以て答えとしたが、ロビンの口撃は止まらない。
「お答えになられないのは、私の言い分をお認めになるという解釈でよろしいでしょうか?」
「……ああ」
まさに、そうだ。俺は、俺……『ディートハルト・ベッカー』が未だ十歳の子供である事を真剣に考えなければならない。そういう意味では、ロビンの言う事は全う過ぎて返す言葉もない。
そして徐々に、ロビンの口撃は激しさを増して行く。
「しかも、ディートさん。貴方は私の行動を制限したのをいい事に、アレックスさんととんでもない約定を交わしましたよね?」
「ヒュドラ亜種討伐の件か。あれなら考えがあっての事だ」
「そうですか。聞きましょう。このゴミクズで良ければ」
「……」
どうやらロビンは、オリュンポスでゴミクズ扱いされた事を根に持っているようだ。
「……母のお告げがあった……」
ベッドに腰掛けた俺を見るロビンの顔は、いかにも胡散臭いものを見るかのように眉間に皺が寄っている。
「それは……母の存在を言い訳にして、適当な事を言っているように聞こえるのは気のせいでしょうか?」
言い訳は嫌いだ。俺は短く言った。
「そこに当為がある」
ロビンは深く溜め息を吐き、呆れたように首を振った。
「貴方の年齢で? 生き急ぐにも程があります。馬鹿げてます。今度こそ死にますよ?」
「……試練が命懸けなのはいつもの事だ。母は楽をして得た物に価値を与えない……」
「……」
ロビンは、また呆れたように首を振った。何度も何度も首を振った。
「貴方の母に対する信仰は素晴らしいですが、それは行き過ぎです。自殺行為ですよ」
「……」
何を言っても、俺の考えは変わらない。仲間を失ったアレックスもそうだろう。そこに当為がある以上、この道は譲れない。最悪、アレックスと二人きりでヒュドラ亜種に対する事になるかもしれないが、それでも構わない。
「都合が悪くなると沈黙ですか? 貴方は信仰を便利使いしてませんか?」
「そう思うなら捨て置くがいい。お前には何も期待していない」
そう言い放った刹那、ロビンの気配が剣呑な物に変化した。
ざわ、とコバルトブルーの髪が僅かに舞い上がり、瞳の色が真紅に染まる。
低く、圧し殺した声で言った。
「……私は貴方を守るただ一人の騎士です。今の言葉は取り消して下さい……」
俺は言った。
「お前には何も期待していない」
「……」
「もう決めた事だ。俺は一人でもこの道を踏み締めて行く。これ以上の議論は無意味だ」
「…………」
真紅の瞳を怒りに燃やし、ロビンは静かに首を振った。
「……なりません。このロビンが貴方の盾となり、如何なる邪悪からも守り切ります……」
俺はこの議論に意味を感じ得ず、酷く面倒臭くなった。溜め息混じりに言った。
「そのよく喋る口を閉じていろ。弁舌を以て意志と能力を示すのは卑怯者のする事だ」
「……」
ロビンは押し黙った。
俺の意志が固く、曲がらない事を理解した。だからといって、ロビンの怒りが一分子も減じる事はない。
「……まだ、私を試されますか?」
「何度も言わせるな。お前には何も期待していない」
「……!」
瞬間、ロビンは踵で床を思い切り踏み鳴らした。
ばきん、と音を立てて木の床にデカい穴が空いた。
重い沈黙が流れる。
ロビンが撒き散らす怒気のお蔭で地獄のような静寂だが、俺にはそれが心地よく感じる。
瞳を真紅に染めたまま、ロビンは言った。
「……貴方の二度目の挑戦を受けましょう。その試練には、このロビンも肩を並べて相臨みましょうぞ……!」
「……」
その返答自体は理解の範囲ではあったが、ロビンの怒りは理解できない。
教会騎士であるロビンが最も優先するのは俺……『神官の安全』で、試練や困難の克服の優先度は二の次、三の次だ。神官である俺と、教会騎士であるロビンの信仰は似ているようでいて違う。その違いが分からない。その温度差がロビンと俺との間に軋轢を生んでいる。
「すまないが、お前がよく分からない。……お前の当為はなんだ?」
ロビンは胸を張って言った。
「貴方を守る事」
「……お前のそれは、母の意志より優先されるものなのか? 違うんじゃないか?」
そうだ。ロビンが信仰しているのは母であり、俺ではない。俺が母の試練に臨むと言えば、こいつは喜んでそれを見守るなり付き合うなりするべきなのだ。だが、そうじゃない。
そこが俺には分からない。
答えを持っているのはロビンだ。だからこそ、俺は素直にそれを問うた。
「……私は、確かに母を信仰しています。しかし……!」
次の瞬間、ロビンは激発して叫んだ。
「私は騎士だ! 『戦う者』だ! 舐めるな、ディートハルト・ベッカー!!」
「……っ!」
そのロビンの迫力に怯み、俺は思わず息を飲む。
理解した。理解してしまった。
レネ・ロビン・シュナイダーという一人の教会騎士の矜持と当為を理解してしまった。
「……」
額に滲んだ汗を拭いながら、俺は軽く唇を噛み締める。
「……す、すみません。興奮してしまって……」
一種の怯えを見せた俺の様子に一歩引き下がり、ロビンは自らを諌めるように深呼吸した。
「…………私は、騎士として貴方に剣を捧げました。『騎士の誓い』です。貴方に曲げられぬ事があるように、私にも曲げられぬ事があります……」
自らを落ち着けるように深呼吸を繰り返すロビンは、ゆっくりと瞬きを繰り返し……次第に瞳の色が真紅から元のコバルトブルーに変わる。
「もう決めた事です。例え、その相手が誰であれ、私の誓いは変わりません」
「そうか……」
剣を向ける相手が信仰する神であれ、騎士の誓いは変わらない。それが教会騎士ロビンの当為なのだ。
場合によっては、アスクラピアにすら牙を剥く。だとすれば、こいつは確かに俺のただ一人の騎士に違いない。
――神の思し召し。
生き急ぐ俺に、母はレネ・ロビン・シュナイダーという一人の騎士を守護者として遣わせた。
『運命』という言葉は嫌いだが、俺はこの出会いに運命を感じずに居られない。
何もかも、母の意思に阿る訳ではない。その性分は、俺と通じるものがある。
俺は……
「……全ての発言を取り消して詫びる……すまなかった……」
母は、この俺を何処へ誘おうというのか。
この出会いに、俺は超自然の意思の存在を感じずには居られなかった。