41 聖エルナ教会にて1
アレックスの左手の接合術式により、全神力と体力の全てを使い果たした俺は力尽き、倒れた。
◇◇
俺は眠っている……
そして奇妙な事だが、俺は天井から眠っている俺……ディートハルト・ベッカーを見下ろしていた。
その眠っている俺の側に青ざめた唇の女が立っていて、微笑みを浮かべている。
(アスクラピア……!)
加減したつもりだが、やり過ぎたか。中身三十歳を超える俺とは違い、ディートハルト・ベッカーの身体は十歳の子供のものだ。成熟した精神に付いて行けず、身体の方が音を上げたか。四十時間にも及ぶ術式の疲労に耐えられなかったとしても無理もない。
だが、母は微笑むだけだ。戯れる指で虚空に俺の名を描く事はしない。
母の声が聞こえる。
お前はよくやった。
己の最大の困難を克服する者は、最も美しい運命に与る。
それは素直に俺の成長を認め、喜ぶ言葉だったと思う。
聞きたい事は山ほどあった。
何故、ジナに『逆印』を刻んだのか。
あいつのしでかした事で俺は死にかけたし、確かにそれは腹が立つが、『神』が自ら乗り出して罰さねばならない程の罪なのか。
そのジナを助けようとした俺に対して怒りはないのか。俺の力は俺自身を基盤にしないものだ。力を奪う事も出来る筈だ。
でも、そうしなかった。
外法すら取り入れた術式では、寧ろ俺を支え、祝詞の半分を与えてくれた。力を貸してくれたのだ。
その全ての疑問に、母は答えない。
そうだろう。こいつは超自然の存在だ。虫けらの俺に、こいつの思惑を理解する事は不可能だ。
だが、見守っている。
俺のする事を見つめている。
母は微笑うだけだ。
俺は……このままでいいのだろうか。このまま進んでいいのだろうか。
この身に過ぎた力の代償を求める事もなく、母は微笑っている。
……ならば、俺は俺自身の道を踏み締めて行くだけだ。
『アスクラピアの子』、ディートハルト・ベッカーとして生きて行くだけだ。
◇◇
目を覚ました時、殆ど唇が触れ合ってしまいそうな至近距離に狂信者の顔があった。
「近すぎる」
狂信者に遠慮はいらない。間近に迫った顔を押し退けながら身体を起こすと、そこは知らない場所だった。
オリュンポスのクランハウスなら、もっと金が掛かっているだろう。パルマの貧乏長屋なら、あそこは空気自体が違う。どちらでもない場所だ。
「……ここは、何処だ?」
木の床。テーブルやクローゼット等の古臭い木製の家具が目に映る。全ては質素で慎み深く、そして静寂が保たれている。
微かに伽羅の匂いがして、気分は悪くない。
ロビンは、いつの間にか長袖のシャツに、ゆったりとしたレギンスという格好だった。男物だが、不吉感漂う黒い外套に黒い甲冑姿じゃない。
「喉が渇いた。水と……あと、伽羅が欲しい」
「……」
ロビンは静かに頷いて、テーブルに置いてあった水差しでコップに水を注ぎ、何故かぼんやりとした顔で、そのコップを俺に差し出して来た。
「ありがとう」
コップに注がれた水を一口飲むと、少し嫌な匂いがして、俺はロビンの顔目掛けて水を吹き掛けた。
「なんだ、このドブ水は。聖水にしろとまでは言わんが、せめて煮沸しろ」
「…………」
ロビンは頭からびしょ濡れになり、目に入った水を指先で拭っている。
「……この容赦のなさは、ディートさんです……」
「それ以外のものに見えたなら、お前にも蛇を使うべきだろうな」
そのロビンの目の前でコップの水を祝福して聖水にする。それから改めてコップの水を煽った。
飲める水になった。
「……あの水はなんだ。何を入れた?」
「……別に。ただの井戸水です。おかしな物は入ってません……」
「そうか。じゃあ、すぐにでも使用は止めろ。身体を害するぞ」
「……直ちに」
ロビンは震える程の美人だが、頭の具合が残念な事になっている。こればかりは俺の蛇でも治せない。
「井戸は後で祝福してやる。近隣の者にもそう伝えてやるといい」
「……それには、お幾ら程の喜捨をお求めになられますか……?」
「喜捨だと? 馬鹿め。水とは全ての者の生活に必要なものだ。そんなものに金を取れるか」
「……ディートさんです……」
ぼんやりと言って、ロビンは覚束ない足取りで部屋を出ていってしまった。
「ふむ……」
俺は両手で持ったコップを回しながら、静かに溜め息を吐き出した。
ここが何処かは分からないが、非常に居心地がいい。静かで、微かに漂う伽羅の匂いで気が休まる。
胡座を組み、瞑想しているとロビンが戻ってきた。
「……」
ロビンは何も言わず、その場に佇む。
こいつは『神官』を熟知している。何か言いたい事が有ったとしても、俺の瞑想を邪魔する事はしない。
瞑想を終えて――
「ここは教会だな」
片方の目を開いて視線を送ると、ロビンは静かに頷いた。
「……アレックスさんの術式は成功しました。今は、アレックスさんにも貴方にも休養が必要な筈です……」
「ふむ……」
確かに、そうだ。長時間に及ぶ術式で多量の出血を見たアレックスには暫く休養が必要だ。続けて右手の接合術式を行う事は出来ない。
「……マリエールさんには、術式で余った血印聖水をお渡ししておきました。暫くは大丈夫です……」
ロビンは囁くような小声で喋る。
寝起きから喚き散らせば、俺は必ず気を悪くしただろうから、それで合ってる。
「オリュンポスのクランハウスは広いし豪華ですが、貴方がしっかり休養を取る場所としては相応しくありません。ここの方が適していると判断しました」
「そうか。分かった」
確かにここは悪くない。静寂と質素さの中に謙虚さを感じる。俺の中の『蛇』が落ち着く。ここは休むには最適の場所だと語り掛けて来る。
「……で、俺は何日眠っていた?」
「二日です。神力も体力も、とっくに限界を超えていましたし、もう目覚めないかと思いました」
「……二日間か」
俺は深く考え込んだ。
以前、アダ婆に『宣告』を受けた時は三日の眠りだった。
ロビンが遠慮がちに言った。
「……母からのお告げはありましたか?」
「ああ、あった。というか、術式中も母の語り掛けはあった。お前は何も聞こえなかったのか?」
「……」
ロビンは、ふるふると横に首を振った。
「その……貴方は、まだ幼い。限界まで力を使い果たした状態で、二日間も母と語り合うのは自殺行為です」
「別に好きで寝込んだ訳じゃない。以前宣告を受けた時は三日も眠り続けた事を考えれば、今回は短い方だ」
「……」
俺の言葉に黙り込んだロビンの表情は、今まで見た中で一番険しいものだった。
「……それでは、合計で五日間も『刷り込まれた』のですか……?」
「刷り込む?」
それは遠造も言っていた事だ。『刷り込む』とはなんだ? 俺はいったい何をされた?
「……母は、試練を乗り越えた者に力を与えますが、貴方に対してはやり過ぎです。死んでもおかしくありませんよ……」
ロビンの心配は尤もだ。二回に分けて、とはいえ五日間も昏倒すれば、子供の身体には負担が大きすぎる。命に関わる。
「……」
おそらくだが、『刷り込み』が長くなった原因は、ディートハルト・ベッカーの中身が成熟した『俺』の精神であるからだろう。
「母はなんと?」
「別に。このまま進めと」
「……」
ロビンは目尻を下げ、困ったものを見るような顔で、何度も何度も首を振った。
「貴方には、絶対に私が必要です」
「お前が……?」
必要ない、と笑い飛ばそうとして……俺はロビンとの約束を思い出した。思い出してしまった。
「私は、貴方のただ一人の騎士です。その事をお忘れなく」
「……分かったよ。分かった……」
俺は疲れ、右手で顔を拭った。
「……それより、伽羅は……」
「あれは焚き染めて使うもので、食べる物ではありません。仄かに香るように使うのが奥ゆかしいのです」
「知ってる。口に含むだけだ」
「神官であれを好む人は多いですが、口に含むのは貴方だけです。他の方はそこまでしません。悪い癖ですよ」
「……じゃあ、煙草をくれ」
その瞬間、ロビンの表情は酷く冷淡なものになった。
「冗談ですよね?」
「ああ……」
冗談なものか。そう言いたかったが、今のロビンからは危ない気配を感じる。
「二度と言わないで下さい。面白くないです」
「だったら伽羅をよこせ。あれがないと、俺はムカつくんだ」
「しょうがありませんね……」
ロビンは、アスクラピアの神官大好きな狂信者だ。ある程度の我儘は笑って受け入れる。元より準備していたのだろう。懐から小さい伽羅の破片を取り出して、にこにこと嬉しそうに笑った。