31 後始末
何処かでヒステリックに喚き散らす女の声がした。
頭がガンガンする。こんな超音波で怒鳴る女は、アビー以外に思い当たらない。
――もう少しだったのに!
――歪んでしまった!
――これはもう治らない!!
なんの話だ? 薄く目を開けると、青ざめた唇の女が髪を掻き毟るようにして苦悩している姿が見えた。
◇◇
俺は失敗した。
ゴミはゴミ箱に、きちんと捨てなきゃいけない。
そんな当たり前の事をさぼった俺に、天は罰を与えたもうた。
なんの為に三十年も生きた。そこで得た教訓はどうした? 俺は、ほんの一瞬でも己の人生哲学を忘れた事を痛切に悔やんだ。
(あのクソ犬……)
滲む世界の中、奇妙な夢を見た。
そこには煌めくような赤毛の大柄な狐が居た。そいつは尾が二つに割れていて、俺と目が合うと、嬉しそうにぺろりと頬を舐め上げた。
俺は赤毛の狐に包まれるようにして眠っていた。
近くにはゾイやアシタも居て、眠りこける俺を心配そうに見つめている。
ふと出入り口付近に視線をやると、美しい黒豹と目が合って、そいつは何故か焦ったように目を逸らしてしまった。
◇◇
苦い薬を喉に流し込まれた俺は、噎せ返るのと同時に強く咳き込んだ。
「――やった! 目を覚ました!!」
叫んだのはアシタだ。
顔を見るのは一ヶ月振りになるだろうか。亜人の成長は驚く程早い。少し背が伸びたように感じた。
「あぁ~! ディ! ディ! そのまま眠っちまうんじゃないよ! 蛇だ! 自分に蛇を使って回復するんだ!!」
懇願するように叫んだのはアビーだ。
珍しい。殺しすら平然とやらかすような女が、涙と鼻水とで顔をぐしゃぐしゃにしていた。
……思い出した。
あのメス犬だ。吹き飛ばされた時は、まるで交通事故にでも遭ったような凄まじい衝撃だった。
意識してアスクラピアの蛇を呼び出すと、身体中が酷く痛んだ。どうやら、大きなダメージを受けたこの状況で蛇を使う事は無理があるようだ。
駄目だと思った。
回復を司るアスクラピアの蛇だが、術者本人に対しては、そんなに便利に出来てない。
「――駄目だッ! ディ! 許さないよ! 諦めるんじゃない!!」
どうやら、我らが女王蜂陛下は、俺に今一度の再起をご所望であらせられる。
――人使いの荒いやつめ。
強く意識を奮い立たせ、蛇を呼ぶ。
「――いいよ、ディ! その調子だ! 頑張れ……頑張れ……!!」
まぁ、これでくたばったら間抜け過ぎる。今回は、母も見逃してくれるようだ。
弱々しい光を放ちながら蛇が力を発動すると、胸の奥を強く圧されるような感じがして、俺は大量に吐血した。
「ディ! あぁ~!!」
アビーのヤツがぎゃんぎゃん喚いて煩い。
今の吐血は問題ない。肺に溜まっていた血を吐き出しただけで、却ってすっきりした。
俺は身体を起こし、袖で、ぐいと口元を拭った。
「……治った。もう心配ない」
それにしても、ろくでもない事だ。あんなつまらないヤツに殺されそうになるとは、俺も随分と焼きが回った。
「……腹が減った。何か食わせてくれ……」
しかし、俺は何時間こうしていたのだろう。アビーは俺が吐き出しただろう血で服が赤くなっているし、久し振りに見るアシタもゾイも大汗をかいていて、酷く消耗しているように見える。
「……」
耳元でぎゃんぎゃん喚いて煩かったアビーだが、俺が回復した途端に、今度は黙り込んで静かになった。
「アビー。分かっていると思うが、俺は騒がしいのは好かん。ここに居る間は静かにするんだ」
「分かった……」
アビーは、ずるずると鼻を啜りながら、それでも健気に笑って見せた。
と、そこでアシタとゾイも大きく安堵の息を吐く。
俺は言った。
「アシタ。ゾイ。お前たち、生きている癖に、何故、早く来ない。お陰でこの有り様だ」
アシタがいかにも心外そうに言った。
「ご、ごめんよ……」
ゾイは赤くなった目元を擦りながら、がらがらに掠れた声で言った。
「ごめなさぁい……」
きっと、何度も俺に呼び掛けたせいだろう。久し振りに聞くゾイの声は酷く嗄れていた。
そして――
「おい、そこの。そう、お前だ。他人のフリして知らん顔してるんじゃない」
焦ったように視線を泳がせたのはエヴァだ。出入り口を守るように、扉の前で立ち尽くしている。
「……」
時刻は夜で、壁には幾つかのランタンが鈍い光を放ち、辺りをぼんやりと照らしている。
「……」
ぐるりと辺りを見回すと、部屋の隅で、正座の格好でこちらを見るスイが肩を震わせて泣いている。
見る限り、罰は受けていないようだが、我らが女王蜂陛下には癇癪の悪癖がある。
「……アビー。今回、スイは悪くない。罰は与えないでやってくれ」
「……」
泣き腫らした目元を擦りながら、アビーは渋々と言った表情で頷いた。
「それと……もう分かっているとは思うが、アシタ、ゾイ、エヴァの三人にメシ炊きをやらせるのは止めろ」
「……」
これには思う所があるのか、アビーは素直に頷いた。
そして、もう一つ。
「……あのクソガキはどうした? まさかとは思うが、もう殺したとは言わんだろうな」
勿論、ジナの事だ。
これに大きく反応したのはエヴァだ。酷く狼狽えたようにあちこちを見回し、逃げ場を探しているように見える。
「ああ、あの馬鹿かい? 居たねえ、そんなのが。忘れてたよ。あいつなら、エヴァが半殺しにして庭に転がしてるよ」
「そうか」
やったのはエヴァか。しかし……あの時、エヴァが変身したように見えたのは気のせいだろうか。
アビーが忌々しそうに言った。
「……死にかけてるからね。放っておこう。あいつは苦しませてから死なせるんだ」
本気を出したアビーの怒りは激しく、残酷で執拗だ。
俺は首を振った。
「駄目だ。連れて来い。治してやるから使え」
これには四人が異口同音で答えた。
「「「「はあ!?」」」」
アビー、アシタ、ゾイ、エヴァの四人は、死にかけのジナをそのまま死なせるという事で意見が一致しているようだが……
「ヤツも身に滲みたろう。それに、アビー」
「な、なんだい……?」
アビーは用心深く身構えた。
この一ヶ月、相談役をやっていた俺は、数え切れない回数の説教を繰り返した。その為か、アビーは説教の気配を感じると警戒するようになった。
「あ、あれだろ。あんたと来たら、また小難しい話をして、あたしを煙に巻くつもりだろうけど、今回ばかりはそうは行かないよ!」
いや、今回もそうさせてもらう。俺はぴしゃりと言った。
「あれを連れて来たのはお前だろう。この愚か者が!」
「あぅっ……」
この一件に関して言うなら、一番責任を負わなければならないのは、ジナを連れて来たアビーだ。
「俺はちゃんと確認したぞ。本気か、と。お前は、その時なんと言った?」
「……」
「何処かの穀潰しより役に立つとか言ったな。もう忘れたか。愚かなだけじゃなく、鳥頭にもなったのか?」
そこでアシタが顔をしかめたが、まぁ、それはそれだ。
「あそこまで馬鹿だなんて、思わなかったんだよ……」
アビーは唇を尖らせ、反発するように目を逸らした。
俺は呆れて首を振った。
「……なぁ、アビー。よく聞け……」
「畜生! また始まったよ!!」
天を仰ぎ、嘆息するアビーに続ける。
「……お前はリーダーだ。皆、お前の後に付いていく。これは以前も言って聞かせたな?」
「あぁ、クソ!」
そこで俺は、俺自身が思う『リーダーの資質』について話した。
「……役に立つヤツばかりしか居ないならいいが、実際にはそうはいかん。ジナのようなヤツでも、なんとか使うのがお前の仕事だ。そして出来るなら、ヤツ自身にも成長を促せ。お前なら出来る」
「クソ! クソ! あんたと来たら、いつもそれだ! お前なら出来る! お前なら大丈夫!」
そうそう。最初のアビーは、そんな簡単な煽てに乗るほど可愛らしかった。
だが今は……
「駄目だね! 拷問していいってんなら、治してもいいさ! でも、あんたはそんな事認めないだろう!」
「当たり前だ。とにかく、よく考えろ。お前が成長して、組織もまた成長するなら、ジナのようなヤツはまた出て来る。その時、お前は全員を処刑するつもりか?」
その瞬間、アビーは激昂して叫んだ。
「そうさ!」
まずったと思った。
よく分からないが、今の言葉の中に、アビーの敏感な部分を刺激する内容があった。こうなると、アビーは梃子でも動かない。
「あいつは、あんたを殺す所だったんだ! 許せない! 絶対に許さないよ!! あたしがこの手でブッ殺してやりたいぐらいさ!!」
「……」
アシタとゾイの時もそうだったが、アビーには、そうと決めたら譲らない激しい側面がある。その激しさは、時として理屈より感情の部分を優先させる。
「……」
お手上げだ。
俺が、参ったと両手をあげると、アビーは嬉しそうに微笑んだ。
「……あんたも分かったようだね。うん、うん……そうなんだよ。そういう事もあるもんなんだよ……」
なんなんだ、それは。何の話をしているんだ。なんのロジックもない。
俺は、もう少しだけ考える。
こんなクソみたいな世界でも、感情的に殺しをやるのは不味い。それは絶対に癖になる。悪たれのアビーだが、これはこれでいい所もある。理論的じゃないこれは、その良さを殺してしまう。
とにかく、このまま故意にジナを死なせる事だけは許さん。
しかし……
なんだって、俺が俺を殺そうとしたヤツの事を生かそうと苦労しているんだ。
俺は疲れ、大きく溜め息を吐き出した。