29 おくのひと
神官にとって、瞑想と祈りは決して欠かしてはならないものだ。
残念ながら、神官の力は祈りと信仰の二つによって保証される。
この力は借り物だ。
自身に基礎基盤を置かぬ力ほど儚いものはない。それ故に我らは祈らねばならない。
母の戯れる指が、虚空に俺の名を書くその日まで。
だが願わくば――
頭上に輝く清らかな銀の星が、新たなる道を指し示しますように。
◇◇
瞑想と祈りに沈んでいたのは数時間……いや、数分? 深く没頭すればするほどに、時間の概念は希薄になって行く。
「……?」
扉の向こうで物音がして、瞑想と祈りの時間が破られる。
どうやら、母は新しい刺激をご所望のようだ。
俺とアビーとの間には、幾つかの約束事がある。
一つは、この瞑想と祈りの時間を喧騒によって破らぬ事だ。
これは俺の力を維持する為にも必要な行為の為、アビーも快く受け入れた。
以降、その約束が破られた事はただの一度もない。組織に所属するガキ共も、古参であれば古参である程、俺の瞑想中は沈黙を守り、喧騒によって静寂を乱さない。
「さて――」
俺は胡座の姿勢を解き、ゆっくりと立ち上がる。
祈りと瞑想と信仰を深めるのに偶像はいらない。尊ぶべきものは全て己の中にある。故に、俺の居住区には偶像の類いは一切ない。
……地獄のような静寂が好きだ。
神聖な『行』を侵した者には罰を与えねばならない。
出入り口の扉の向こうには、スイが……いや、今はジナも居るのか。とにかく二人が詰めていて、余程の事がない限り、俺は一人の時間が保証される。静寂と沈黙とが約束されている。
つまり、出入り口を見張る二人の間で何かしらあったのだ。
「……どうした。何が……」
扉を開け放った俺の目に飛び込んだのは、こちらに背中を向けた格好で倒れ伏すスイの姿だった。
「……」
その倒れ伏すスイから少し離れた距離に、右手を振り抜いた格好のジナが立っている。
俺は溜め息を吐き出した。
「最も役に立たぬ者とは……」
服従も命令も出来ぬ者だ。
「……ジナ。何があった」
ゆっくりと俺に向き直ったジナは、口元に微笑みを湛えている。
「なぐった」
「それは見れば分かる。何故、殴った」
「よわいのに、えらそう。それと、くさい」
おそらく、沈黙に耐えきれなくなったジナに、スイが何事か言い含めたのだろう。匂いの方は俺が持たせている伽羅と見て違いない。
「……」
俺は少し考えた。
この最も役に立たない者をどう処すべきか。
「……俺も殴るか?」
「なぐりたい」
久し振りに会ったなかなかの逸材に、俺は思わず笑ってしまいそうになった。
俺は戯れる指を虚空にさ迷わせる。
ふらふら。
ふらふらと。
その指先を見つめているジナの頭も宙にさ迷う指に合わせて揺れる。ふらふら、ふらふらと。
俺は笑った。
「おやすみ、無能者」
こいつの人生が本なら、俺は読まないだろう。
「…………?」
宙にさ迷う指先を見ていたジナの視線が在らぬ方向を向いた。
本来は安らかな眠りを誘う為の術だが、こういう使い方も出来る。獣人は呪詛や魔術に対する耐性が少ない。特にアホにはこういう催眠系の術が良く効く。
人より獣に近い事の証拠だ。
「あれ? あれれ?」
視界が霞むのだろう。ジナは困惑して頻りに目を擦っていたが、ややもせずその場に崩れ落ちるようにして倒れ込むと、すうすうと寝息を立て始めた。
「……」
俺は短く息を吐く。
このまま、質の悪い術の二つ、三つ戯れに仕込んでやりたい所だったが、そこまでせねばならない程の手合でもない。
続いて、こちらに背中を向けた格好で倒れたままのスイを抱き起こした。
「スイ……」
倒れた時に頭を強く打ったのだろう。額から少し出血している。気絶しているが命に関わるような傷じゃない。ガキだが亜人の子だ。細っこいが、俺なんかより、余程丈夫に出来ている。
念の為、術で傷を癒した。
呪詛返しにより、俺の寿命は二十年程が損なわれたが、皮肉な事に神力の上限は大きく上がった。
多くの寿命を取られたが、アレックスを助けた事が『自己犠牲』の一つと見なされたのだ。身体こそ弱ったが、神官としての俺は強くなった。今の俺は、スイの治癒に使う神力程度は何の負担も感じない。
そんな事より……
強い嫌悪感を覚えたのは、スイの顔に複数の打撲痕が見られた事だ。
つまり、愚かなスイは沈黙と静寂を守る為、ジナの理不尽な殴打に気絶するまで耐えた。
俺は気絶したスイを抱き上げて寝室に運び込み、そっとベッドの上に寝かせた。
スイと居ると、どうにもこうにも調子が狂う。この娘は愚かだが、俺はその愚かしさを好ましく感じている。このリザードマンの血を引く、左利きの少女を好ましく感じている。
術で気付けしても良かったが、それをしなかったのは、これからする事で傷付けたくなかったからだ。
俺の居室は特別製になっていて、他の部屋より大分壁が厚くなっている。最初からそうだった訳じゃない。オリュンポスから多額の賠償金を得たアビーが始めにやった事がこれだ。防音と防寒性能を高める為だとか言い訳していたが、本当の目的は違うものだろう。
まぁ、興味はないが。
俺はスイもジナも置き去りにして部屋を出て、強く手を打った。
「誰か! 誰でもいい! 今すぐ来い!!」
一応、居住区に使われているこの長屋には多少の金が掛けられていて、周囲は高い壁に囲まれている。
庭に相当する場所では、十人近い亜人のガキがいて、どれもこれも油臭い。見ると、代わる代わる壺の中を掻き回して石鹸を作っているようだった。
「うん? 仕事中だったか。悪い事をしたな」
その石鹸作りをやっていたガキが三人ほどやって来て、俺の顔をまじまじと見つめた。
「……あんた、誰……? もしかして……おくのひと……?」
油臭いガキ共は、どれもこれも初めて見る顔をしている。アビーがこの一ヶ月で拾って来た新入りだろう。
「奥の人? なんだ、それは。俺の事か?」
ガキ共は、酷く珍しいものでも見たかのように目を丸くして俺を見つめている。
「……」
そこでガキ共は、大切な事でも思い出したかのように揃って黙り込んだ。
「何故、黙る。俺はディートハルトだ。アビーから名前ぐらいは聞いているだろう」
「……」
ガキ共はお互いの顔を見合せ、それから俺の顔を見て、分からないと言ったように首を振った。
「……アビーめ」
俺を孤立させる作戦だろうか。だとしたら上手く行ってる。
「……ボスが言ってたんだ。おくのひとが居る限り、何があっても大丈夫だって……」
「……」
俺は絶句して、軽く眉間を揉んだ。
なんだ、それは。偶像崇拝か? 何を考えているんだ、あいつは。
油臭いガキの一人が言った。
「ボスが来て、ここらは凄く良くなった」
もう一人が更に言った。
「ボスは、おれたちに住む場所をくれたし、食い物も小遣いもくれる」
何だ。何が起こっている?
「外を歩いても苛められなくなった。ボスのおかげ……」
ガキ共が言う『ボス』がアビーの事だっていうのだけは分かる。分かるが……
――女王蜂――
その瞬間は、がんと頭を殴られたような気がした。
「……ボスは、みんな『おくのひと』が考えた事だって言ってた……」
「……」
働き蜂共の目に崇拝の輝きを見て、俺はドン引きだった。
「朝は特に静かにするんだ。『おくのひと』が、おれたちの為に祈ってくれてるから……」
……静かな訳だ。
アビーがガキ共を静かにさせている手段は今まで謎だったが、その謎の一端を垣間見た気がした。
「……」
俺は疲れ、首を振った。
あまり考えたくない。それはアビーがやっている事だ。俺は関係ない。関係したくない。
「……スイは、知ってるか?」
「スイさん? 『おくのひと』に仕えてるえらい女の子の?」
「……」
もう何も聞きたくない。何も話したくない。このガキ共と居ると、俺は頭がおかしくなりそうだった。
「……ゾイとアシタを呼んでくれるか……?」
「ゾイ? アシタ?」
「メシ炊き女……って言えば分かるか?」
そこでガキ共の何人かが理解したように頷き、長屋の裏手に向かって駆けていった。
「……」
俺はアスクラピアの神官らしく沈黙を守る……と言えば聞こえがいいが、実際には、目の前のガキ共に何を言ったらいいのか分からなくて口を噤んだというのが正直な所だ。
気分は浦島太郎だった。
俺はアビーを舐めていた。
床に伏していた一ヶ月程の間に、俺という存在は、おかしなものにでっち上げられていた。
『おくのひと』だと?
偶像崇拝にはある種の神秘性が必要だ。アスクラピアの『神官』であり、部屋から滅多に出て来ない俺にはその要素がある。アビーが狙って俺をそんなものに仕立て上げたのだとしたら、その思惑は俺の理解を超えている。
ガキ共の為に祈る?
そんなものが加速すれば、どうなる? 将来的には即神仏にでもされちまうんじゃないだろうか。
石鹸作りを続けるガキ共が、ちらちらと視線を送ってくる。向こうから話し掛けてくるつもりはないようだ。
その視線に籠る感謝や崇拝の念を感じ、俺は気味が悪くて仕方がなかった。