28 最も役に立たない者とは
現在、パルマにある長屋……通称『パルマの貧乏長屋』は二十棟あるが、そのうち五棟がアビーの手中にある。
ほんの一ヶ月前までは、履いて捨てる程いるガキ共の小さな集団のリーダーでしかなかったアビーだが、今じゃ立派な侠客だ。商人には優しく、治安を乱すチンピラにはとことん厳しい。
今のところ、このやり方が功を奏して、アビーの縄張り界隈は賑やかになりつつある。
だが、まだだ。アビーは勿論そうだが、俺もまだこの辺りを発展させるつもりでいる。
そして、出る杭は打たれる宿命にある。
政治的不安。貧困。多すぎる人口に対して圧倒的に不足する物資。理由はクソ程あるが、それらを含め、急激に台頭したアビーには問題が多い。
時間が足らない。
性急に成長した俺たちに足りないものの筆頭がそれだ。拡大した縄張りを支える構成員が少な過ぎる。
集団の構成員は現在二十三名。アビーが拾ってきたヤツが大半だが、その殆どが十歳程度のガキで喧嘩には向かない。そいつらの主な仕事は石鹸作りと情報収集だ。
縄張り内には既に幾つもの小集団が侵入している。どれも小粒だが、今のアビーの立場を狙っている。散発的にではあるものの、小さなトラブルは毎日のように発生している。
現在、アビーの目下の課題は実力を備えた構成員……もとい戦闘用員の補充だ。
直接戦闘可能な構成員が決定的に欠けている。それを思えば、アシタ、ゾイ、そしてエヴァ。この三人が未だにメシ炊き女でいるのは、アビーの気分の問題による所が大きい。
だから、今回アビーが俺に紹介したがっているヤツが『戦闘用員』だって事は分かる。
アビーが指笛を鳴らした。
「ジナ! 入りな!!」
扉が開き、微かな獣臭が鼻に衝く。その瞬間、俺は凄く嫌な予感がした。すぐ分かった。こいつは……
ゆっくりと扉が開き、顔を出したのは身長一七〇を超える女だ。
身長だけならアシタがやや上だが、全体的な筋肉量は向こうが上。明らかなパワータイプ。
知らない顔。新入り。フサフサと揺れる尻尾。そして……ネジが一本抜けた顔。どちらかと言えば可愛らしい顔付きだが、ネジが一本飛んでいるように見えるのが犬人の特徴だ。
力強く体格に優れ、性格は温和。弱者に対する保護欲が旺盛。少し頭は足りないが上下関係には敏感で、トップの命令には忠実。欠点はその上下関係に敏感な所だ。基本、温厚な犬人だが、組織内での力関係には非常な拘りがある。
「……」
ジナと呼ばれた犬人の女は、俺を見るなり眉間に皺を寄せ、一瞬だが嫌悪感を剥き出しにした。
俺が愛用する伽羅のせいだ。
鼻のいい犬人は、強い匂いのするものを嫌うヤツが多い。
かなり嫌な状況だ。
先の一件を経て、『ディートハルト・ベッカー』は俺の中から姿を消した。でも、完全に居なくなった訳じゃない。あいつが伽羅を好きなように、俺も伽羅が大好きだ。これだけじゃないが、俺たちには幾つか共通点がある。
『俺』じゃない『俺』が、このジナを無茶苦茶に嫌ってる。
まず、この匂い。アビーが拾って間もないせいか、孤児特有の匂いが抜けてない。向こうも俺の匂いが嫌かもしれないが、俺の方も負けないぐらい嫌だ。
……不潔感がある。
次いで、この不潔に感じるというのは、かなり不味い。何故かというと、この『感じる』というのは理屈じゃない部分がある。生理的に受け付けないとでも言えばいいだろうか。
そのジナを見て黙り込む俺の様子を見ながら、アビーが面白そうに言った。
「ジナ。ディだ。こいつがウチのNo.2だ。今は弱ってて療養中だ」
弱ってる、と聞いて、ジナの耳がぴくりと動いた。
「よわい……? にばんなのに、よわいか……?」
やっぱりネジが一本飛んでる。犬人の悪い所ばかりを集めたのが、この『ジナ』という個性だ。
言葉に知性の欠片も感じない。『組織』というものを理解できてない。頭が悪く、ただ単純に力関係だけで組織の序列を決める。
アレックスに最初抱いた感想を何倍も濃くしたような不快感があった。
「……」
俺は生理的に受け付けず、首を振った。きっと顔にも出ただろう。
アビーは賢い。良くも悪くも、こうなると分かっていて、このジナと俺を引き合わせた筈だ。
アビーは笑いながら言った。
「ジナ、お前は、このスイとディの言う事は何でも聞け。クソを食えと言われればそうしろ。死ねと言われれば喜んでそうしろ。お前には腕力以外に取り柄はない。その唯一の取り柄を使ってディを守れ。あたしとスイ以外のヤツを、絶対にディに近付けるな。特に女は駄目だ。ディに不用意に近付く女は殺して構わない。出来るな?」
「……」
ジナは、ぽうっとした表情でアビーの話を聞いていた。賭けてもいい。この言葉の意味一つだって、こいつは理解しちゃいない。こいつの小さい脳味噌で理解するには、アビーの話は複雑で長過ぎる。
「……面白そうなヤツだな……」
俺は呆れて首を振った。こんなヤツを連れて来たアビーに対しても呆れ果て、何度も何度も首を振った。
「あ……」
その様子を見ていたスイの顔が、みるみるうちに青くなる。この子はこの子であまり賢くはないが、雰囲気を読むのだけは長けている。鋭く俺の内心を読んだのだろう。
特にスイには心配性のきらいがある。俺のやる事なす事全てをよく見ていて、何事にも気を揉む。そして、このスイは未だ八歳という事もあり、当然だが戦闘用員には向かない。忠実さがアビーに買われ、ゾイに代わってこの位置を占めるようになった。
療養中の今は不満はない。スイはよくしてくれる。夜間、冷えきった身体で寝床に侵入して来る事以外は問題ない。
だが俺は、小さくて賢く、力強くも気が利くあのドワーフの少女を恋しく思っていた。
……ゾイは、今頃どうしてるだろうか。
目を覚ました時には、既にアビーの命令で居なくなっていた。
アビーに鞭で打たれたようだが、その傷はちゃんと癒えただろうか。あのエヴァと仲良くやれているだろうか。……心配だ。
(こいつ、使えんぞ)
そう目配せして伝える俺に、当のアビーもそう思ったのか、その表情は苦虫を噛み潰したように歪んでいる。
俺はジナが嫌がるのを承知で新しい伽羅の破片を口の中に放り込んでカラコロやった。
「うげ……」
辺りに広がるハッカの匂いを嫌がり、鼻面に皺を寄せたジナが、思い切り顔を逸らしたのを見て、アビーも呆れたように首を振った。
だが、考えは変えないようだ。
難しい表情でジナを見るだけで何も言わない。
俺は言葉に出してはっきり言った。
「アビー、本気か? もう一度だけ確認するぞ。本気なんだな?」
その言葉に、アビーは少し動揺したようだったが、すぐさま平静を装って言った。
「あぁ、本気だね。何処かの穀潰しよりは役に立つだろうさ」
「……」
最早、語るに落ちた。
俺は沈黙を選び、その俺と平静を装うアビーとの間でスイの焦ったような視線が行き来している。
俺はゆっくりと瞬きして、言った。
「暫く瞑想する。全員、出て行ってくれ」
普段ならスイだけは残すのだが、この時の俺は不愉快で一人になれる時間を優先した。
アスクラピアの神官にとって、毎日の瞑想と祈りは決して欠かせてはならない時間だ。
アビーは不承不承。同席を許されなかったスイは困惑して。ジナの場合は訳も分からず席を立った。
ここ最近のアビーがいつもの口癖を言った。
「ディ、今日も祝福をおくれよ」
「……」
俺は雑に聖印を切り、人差し指をアビーの額に押し付けた。
いつもと違うやり方に、アビーは驚いたように俺を見つめ返す。そんなアビーには祝福の代わりにこの言葉を送った。
「最悪な日に来た者は、やはり最悪な日も心地よく感じるのだろうな」
◇◇
人は各々が自己の流儀によって考えねばならない。
人はそれによって、一生に通ずる各々の真理に到達するのだから。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
そろそろ、俺も俺自身の流儀に従って行動する事にしようか……