27 発展
身に余る神力と生命力を消費してヒュドラ亜種の呪詛を打ち祓った件から、一ヶ月の時間が経とうとしている。
パルマの貧乏長屋は全部で二十棟。一棟辺り七つの部屋があるが、そのうち五棟がアビーの所有する物件だ。
この一ヶ月でアビーが抱える集団は大きくなり、総勢二十三名を数えるようになった。
五棟ある内の一棟を塒として使っており、その他の四棟は賃貸物件として一般人に貸し出しされているが、入居者は少ない。
アビー曰く、
「今のところ、メシ代にもなりゃしないけどね……」
そしてこの一ヶ月、調子のいい時を見計らってアレックスの治療とマリエールの診察の為に定期的にオリュンポスに向かう俺だったが、それ以外の時間は伏せる事が多く、ほぼ軟禁に近い状態にあった。
だから、という訳でもないが、今の俺はNo.2でありながら、やっている事と言えば、定期的にオリュンポスを訪問しているだけだ。暇潰しに生活用水の祝福をしたり、怪我や病気になったガキの治療をしたりする事もあるが、殆ど部屋から出る事はなく、基本的には深く瞑想したり、相談役のような感じでアビーの話を聞いたりしている。
そして一ヶ月経った今、アビーは俺の部屋に入り浸るようになっていた。
側には常に蜥蜴娘のスイがいて、ゾイと同じかそれ以上に尽くしてくれるから不自由はない。オリュンポスから多額の賠償金が支払われ、生活の水準もぐんと上がり、そこに不満もない。伽羅も山程買ってある。
「……ディ、あんたの言う通り、ショバ代を取らない事にしたら、長屋の住人が増えた」
ここら一帯、長屋前の通りまで既にアビーの縄張りだ。
最初、アビーは縄張り内の通りで商売をする屋台や露店なんかから場所代を取ろうとしたが、俺がそれに待ったを掛けた。
俺は少し咳き込んで、それから伽羅の破片を一つ口に放り込んだ。
「だから言っただろう。そんなヤクザ染みた真似をしている内は、いつまで経っても駄目だ。せっかく広げた縄張りも無駄になる」
アビーは酷く真剣な表情で頷く。
「……以前より、長屋の通りが屋台だの露店だので賑わい出した……これもそのせいかね……」
場所代を取らない事で人の行き来が増えた。当然、通りに落ちる金が増える。それが原因で空部屋が多かった長屋に住人が増えつつある。長屋、一件一件の賃貸料自体は安いが、例え小さくとも、安定した収入が見込める事は大きい。
「で、あたしは次に何をすりゃいいのさ」
その問い掛けを聞き、伽羅の強い香りに噎せて咳き込むと、アビーとスイの二人が背中を擦ってくれた。
「アビー、あんたがボスだ。皆、あんたの背中に付いていくんだよ。俺が口出しする事じゃない」
いつものやり取りだが、アビーはこれを鼻で笑った。
「はん、あんたこそNo.2の自覚を持ちなよ。あんたは、あたしの右腕なんだ。あんたはもう『使う』側なんだ。使われる側じゃない。一緒に考えな」
以前はもう少し扱い易かったが、最近のアビーは知恵を付けてきた。
やむを得ず、俺は答える。
「……大勢連れて、偉そうな顔でそこら辺を練り歩いて来い。いつも通りだ。悪さするヤツには容赦するな。商人には優しくしてやれ」
するとアビーは困ったように目尻を下げた。
「そいつは、いつもやってるさ。今日だって、もう十人はぶちのめした」
「いいぞ、もっとやれ。力を持て余してるヤツもいるだろう。上手く使え」
「……これ」
アビーは困ったように目尻を下げたまま、手に持った袋を差し出した。
「なんだ、それは」
「最近、あたしが通りを歩く度に商人共が押し付けて来るんだ」
アビーが差し出した袋の中には、菓子や軽食なんかの食料品の他に、煙草や酒なんかの嗜好品も入っている。
「……ふむ。上手くやってるようだな。じゃあ、上手い話は向こうからやって来るさ」
この近辺に店を置く商人たちにとって、アビーはガキだが気のいい『侠客』だ。商人には優しく、俗に言う場所代……みかじめ料も取らず、かすり(上前を跳ねる)も脅しもやらない。
「人が多くなってきた。好むと好まざるとに関わらず、揉め事は向こうからやって来る。その時、解決するのは誰だ?」
「……!」
アビーは理解したのか、何度も手の平を拳で打ち、納得したように頷いた。
「解決するのはあたしらだ。するってえと……」
「お前が手間を掛けるまでもなく、向こうから守り代を払ってくるだろうな」
「……なるほど……なるほど……そいつは旨いね……」
「ここで転けるなよ、アビー。速やかに戦力を整えろ。信用できて、なるべく強いヤツを揃えるんだ」
この言葉には苛立ちを含んだ答えが返ってきた。
「分かってる。分かってるよ」
俺が思い浮かべたのは、アシタとゾイの顔だ。あの二人なら強さに問題ないし、信用も出来る。メシ炊きをやらせているのは勿体ない話だった。
「なあ、アビー……」
そこで、アビーが眉間に皺を寄せて険しい表情になった。
「あたしは、あの穀潰しと役立たずを許すつもりはないよ!」
「……」
アシタとゾイの件に関して、アビーの怒りは未だに収まらずにいる。
「あの穀潰しは、あたしの期待を二度も裏切りやがった!」
俺が寝込む羽目になったのは、決してアシタのせいではない。そう何度も諭したが、アビーはまるで聞く耳を持たない。
狐目を細くして、益々苛立ったように言った。
「一番ムカつくのは、あの役立たずさ!」
ゾイの事だ。
何故かアビーの怒りはアシタよりゾイに向けられていて、その言葉はアシタに向けられるものより苛烈だ。
「ディ、あんたが言うからここに置いてやってるけどね! あたしはあのチビを許すつもりは毛頭ないよ!!」
「……」
ゾイの役目は逐一俺の行動を報告し、万が一にも俺の無事を損なわない事にあった。そのゾイの失態は、俺から離れ、呪詛返しを制止出来なかった事と、アビーに対する報告を怠った事だ。
一ヶ月前。俺が呪を祓った事で倒れた際、ゾイは意識を失った俺から離れず、詳しい報告はアシタに丸投げした。アビーはこれを命令無視と見た。そして間の悪い事に、アシタの頭はあまり良くない。その報告は要領を得ず、慌てて駆け付けたアビーを激昂させるに至った。
「あのガキは、あんたに媚を売るのに夢中でやるべき事をやらなかったんだ!」
俺には、アビーの怒りが分かるようでいて、まるで分からない。
ゾイが俺に特別な感情を持っていた事は知っていただろうし、アシタは腕力頼りで頭の足りない所がある。責任をどうこう言うなら、俺は勿論の事、その二人を組ませたアビーにも一端の責任がある。
「……」
アシタとゾイの件に関しては、もう少し冷却期間が必要だ。そう思った俺は軽く咳払いする事でこの話題を打ち切った。
「……それより、石鹸の方はどうなってる?」
あからさまに話題を変えた俺をぎろりと睨み付け、 アビーは大きく溜め息を吐き出した。
「……そっちは悪くない。ガキ共の小遣い稼ぎにもなってるし、少ないけどシノギも上がってる」
結局のところ、灰と油で作った石鹸は、俺の想像通り上手く行かなかった。
きちんと泡立つし、汚れも取れる。だが、固まらなかったのだ。作り方が悪いのか、それともこのファンタジー世界の環境が原因かは分からない。出来上がった代物は俺の想像とは掛け離れた代物だった。
落胆した俺だったが、アビーはこれを良しとした。売り物になると判断し、瓶詰めにして安く売り飛ばした。
一つ三〇〇シープ。びた銭でも買える代物だが、身体を洗えるのにも使えるし、洗濯にも使える。これが長屋の連中や商人なんかに飛ぶように売れているようだ。
「そうか。うん、そうか……」
最近はガキ共の身なりも綺麗になり、清潔感が出て来たと思っていた。
文明的な生活は清潔から始まる。俺が口元を緩ませると、アビーも屈託なく笑った。
囁くように言った。
「やっと笑ったよ……」
「うん? 何か言ったか?」
「いいや、何も?」
アビーは、少しにやけた表情でそっぽを向いた。
ちなみに今の俺は完全な相談役だ。神力はとうに回復しているが、アビーかスイの許可なしに使用する事は禁止されている。
そこで、アビーがぽんと膝を打った。
「そうだ、ディ。あんたに紹介したいヤツがいるんだった」
「ん、誰だ?」
これは本当に珍しい話だ。
この一ヶ月、俺はオリュンポスに向かう以外の外出は控えるように言われている。身体を酷く痛めた事もそうだが、呪詛返しの一件が一部の冒険者たちの間で有名になってしまった事が主な理由だ。
――寺院や教会に属さない強力な神官がいる。
女王蜂アビゲイルの『お宝』は、その強力な神官『ディートハルト・ベッカー』だ。
以降のアビーは、ずっと神経を尖らせている。拾われた恩もある。だから横着を言わず従っているが、この軟禁がなかなかに手強い。オリュンポスに向かう事にしても、中に暗幕を張った馬車での移動であるし、長屋の中を移動するのにも、スイがべったりと張り付いて離れない。長屋内であれば口出しするような事はないが、厨房への出入りだけは強硬に反対する。
小さいガキに涙ながらに、それだけはやめてくれと言われれば、流石の俺も無下に出来ない。それが普段従順なガキ……スイの言う事となると尚更だ。一ヶ月という時間が経ち、ゾイより付き合いが長くなった今、俺はこのスイに逆らう事が難しくなって来ている。
思わず溜め息を吐き出した俺に、アビーが口元を歪めて悪そうな笑みを浮かべた。
「なんだい、溜め息なんて吐いちまってまあ」
もう一人見張りを増やす。
アビーが言ってるのはそういう事だ。