17 悪しき冗談
まず、アシタの折れた角の様子を詳しく『診る』。
……時間経過が甚だしい。
そもそも切断部位の接合は時間の経過を争う。早ければ早い程、接合の可能性は高まる。
「ふむ……」
俺は『診断』した。
こびりつくように付着している皮膚片は腐るだけだが、この角が『骨』の一部だとすれば見込みはある。これは、あくまでも『俺』の見立てだ。ディートハルトのヤツは何も言ってくれない。
「少し削るが、いいか?」
「え? そ、それは……」
「皮膚の部分だ。角自体は削らん。駄目か?」
「それなら……」
アシタはホッとしたように頷いた。
続けてゾイの持ってきた桶の水に強い祝福を与えて浄化する。
即席の『聖水』だ。飲んでよし。洗ってよし。更に強い祝福を与えれば、結界を張ったり、地場の浄化をしたりと色々と用途は広がるが、今回はこんなもんだろう。
それで折れた角をよく洗い、アシタの額……元、角があった場所も洗浄して清潔を確保する。
「よく見えん。もっと近くに寄れ」
「う、うん……」
アシタの傷口からは微量ながら、未だ出血が続いている。つまり細胞は生きていて、角が繋がる見込みはあるという事だ。
折れた角を充分に洗浄し、腐るしかない不要な皮膚片を削り取った後、改めて傷口を診る。
「…………」
よくよく見ると、それは不自然なぐらい綺麗な切り口だった。鋸のような凹凸のある刃物での傷なら諦めていただろう。
まさかとは思うが、アビーのヤツ……
アシタは期待に目を輝かせて俺の様子を見守っている。
「なんとかなりそうだ。来い」
「!」
額を見せる為、膝を着いた姿勢だったアシタは、四つん這いのまますがるように俺の足にしがみついた。
「繋がるものも繋がらん。少し痛むが暴れるなよ」
「――!」
アシタは大きく頷いて、予測される痛みに耐える為か、右の手の平をグッと噛み締めた。
勿論、俺は呆れた。
「怪我を治す最中に、新しく怪我を増やす準備をするな。馬鹿者が」
「は、はい……」
しゅんとして項垂れたアシタの口に、ゾイが固く絞った布切れを押し込んだ。
準備完了。
額の丸い傷口に折れた角を強く押し付けると、アシタはやはり痛かったのか、口の中の布切れをギリギリと噛み締めた。
そこでアスクラピアの『蛇』を使う。
両腕に黒い蛇が出現してとぐろを巻く。神力を開放すると辺りにエメラルドグリーンの輝きが溢れ……
「む……」
傷の治りが遅い。時間経過のせいか。それとも治療部位が『骨』であるせいか。なかなか繋がらない。かなりの負担だが、神力を開放し続ける。
「…………」
最初、苦痛に耐える為、歯を食い縛っていたアシタの表情から力が抜け、口からぼとりと布切れが落ちた。
目を剥いたエヴァが呟いた。
「う、嘘。繋がってく……」
神力を開放し続ける。辺りを照らす光は益々輝きを増し、癒しを受けるアシタの目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちて行く。
漸く角が繋がった時、俺は疲労困憊だった。
そもそも昨夜は酷寒に耐え兼ね、神力の回復もままならなかった。全ての神力を使い果たした俺は目を回し、その場にぶっ倒れそうになった。
というか、ぶっ倒れた。
耳の奥でバチンと糸が切れるような音がして、視界に暗幕のカーテンが落ちて――
◇◇
意識を失っていたのは数分ぐらいだと思う。
「……」
俺は鬼娘のアシタに抱き抱えられていて、その目の前で、尻餅を着いた姿勢のゾイと目が合った。
アシタがブツブツと何か呟いている。
「……おお、アスクラピアよ。感謝を。……ベルはこの恩を……忘れません。この身に……鬼の血は……ですが、その全てに賭けて……ベルは生涯……を守り……事を誓約……」
クラクラして上手く聞き取れない。アシタが母に深い感謝を捧げている事だけは分かる。
よく分からないのは、ゾイが尻餅を着いている理由だ。ぽかんと大口を開け、アシタを見つめ……いや、睨んでいた。
「ゾイ……?」
いつもは甘ったれていて、何かとボディタッチの多いゾイは、ぱっと見は可憐な少女の風貌をしているが、この時は眦を釣り上げ、本当の鬼のような表情をしていた。
だが、俺の呼び掛けを受け、我に返ったように微笑み、尻に着いた汚れを払いながら立ち上がった。
「ディ、大丈夫う?」
そこにいたのは、いつものゾイだ。甘ったれていて、間延びした声に安堵する。
が――
続けざま、俺は異常な量の発汗に見舞われ、半ば意識が飛んだ。
目眩が酷い。
今にも吐きそうだ。っていうか吐く。軽く肩を叩いてアシタに離れるよう促すが、アシタは微動だにせず、俺を抱えた姿勢で離れない。
駄目だ。吐く。
俺は身体をくの字に折り、猛烈に嘔吐したが、アシタは離れなかった。それがどうしたという態度だ。
「……」
そのアシタを、ゾイが平淡な顔で見つめている。何も言わないのが却って不気味だった。
強度のマジックドランカーに襲われた俺は正体不明になり、暫くは「あー」だの「うー」だの言って唸っていた……と思う。
とにかく、この辺りは意識がはっきりしない。
だが、ゾイが無茶苦茶怒っている事だけは理解していたし、アシタと俺の関係に大きな変化があった事だけは理解していた。
まあとにかく。
俺が正体不明になっている間、アシタは吐瀉物で汚れるのも構わず、俺を抱き締めた格好で少しだって離れなかったし、それを見つめるゾイの平淡な表情も何も変わらなかった。
視界がぐにゃぐにゃ揺れる。
ぱちぱちと拍手するような音がして、そちらに視線をやると、そこには笑顔のアビーが立っていた。
「……、…………。ディ…………」
駄目だ。俺の名を言った事は分かるが、それ以外は殆ど聞き取れない。だが、何かをゾイとアシタに言い付けていて、二人は馬鹿みたいに真面目に頷き返している。
「……」
正体不明になっている俺の顔を覗き込むアビーの顔もぐにゃぐにゃだった。
何か言った。
多分、ちゃんと稼いで来いとか、そんな感じの事だろう。とりあえず頷くと、ぐにゃぐにゃのアビーは嬉しそうに笑った。
勿論、稼ぐとも。
それが俺の一番の存在理由だからだ。血反吐を吐く羽目になっても稼がんと、俺の言葉は何の説得力も持たなくなる。ゾイも離れて行く。メシ炊きになるのも御免だ。
「……。………………」
またアビーが何か言った。
視線をずらすと、地面に額を擦り付け、何かを懇願するエヴァの姿が目に入った。
「……! …………!!」
エヴァは泣きながら、大声で何かを訴えているが、アビーは千切れたエヴァの尻尾を振り回しながら笑っている。
なんてヤツだ。
気を強く持つと、ぼやけた意識がはっきりとしてきた。
アビーが残酷に言った。
「駄目だね。メシ炊き女」
エヴァはその場に泣き崩れた。
全然、意味が分からないが、アビーが残酷な事を言ったのだけは分かる。
「ディにはゴミ箱が必要なんだ。メシ炊き女。お前は、ずっとゴミ箱のままでいな」
俺は笑った。
母よ。あんたはこういう冗談が大好きだったな。
「来な、メシ炊き女。お前には腐るほど仕事があるんだ」
こうして余計な因果が増える。
これも母の思し召し。
ディートハルト・ベッカーが逃げ出す訳だ。
泣き叫ぶエヴァは抵抗していたが、アビーに首根っこを掴まれて何処かに行ってしまった。
母の冗談はいつだって皮肉が利いていて面白い。
俺は笑った。笑うしかない。
そして俺は俺の人生哲学を変えるつもりは一切ない。
ゴミはゴミ箱へ。
残ったのは、千切れた猫の尻尾だけだ。