98 震える死者12
夢。
夢を見ている。
一寸先も見えない闇の中、俺の目に映るのは、砂と風に草臥れた外套を纏う白髪の男だ。
「……兄弟、お前はいつもやり過ぎる。血を見るのが好きなのか……?」
「……俺は、死人も怪我人も大嫌いだ。血を見たい訳じゃない。だが……」
白蛇は呆れたように首を振った。
「純粋に闘争を好む、か……」
「そうだ。俺は純粋な意思と意思のぶつかり合いが好きだ。決着の瞬間、命の花が咲いて散る。その瞬間のなんと甘美な事か」
母は復讐を好む。あのしみったれた女は、慈悲と慈愛を標榜する反面で、闘争自体を否定しない。
「それは呪われた性分だ。お前は母の教えに忠実過ぎる。あの教会騎士は正しい。あの教会騎士を責めるな」
分かっている。このまま進めば、俺は最後まで持たない。肝心な所でしくじる事になっただろう。ロビンのした事はムカつくが、行動自体は正しい。
「分かっているならいい。それと……戦乙女は、あまり喚ぶな。あれは消耗が激しいだけじゃない。縁起が悪いんだよ」
「そうかもな……だが強い。秘術の一つに数えられる程度にはな……」
辺りを見回すが、母の姿は見当たらない。目の前にいるのは白蛇だけだ。
「戦士が死ぬ時、母は迎えに戦乙女を好んで使う。別のものを喚べ。あれは死神の手だ」
母の本性は死神にも似ている。その子が闘争の先にあるものを好むのも、その本性と似たり。
俺は鼻を鳴らした。
「白蛇、この期に及んで説教か? 冗談なら笑える事を言え」
白蛇は呆れたように首を振る。
「兄弟、油断するな。お前の試練は、お前が思うより、ずっと厳しい」
とてもそうは思えない。
アレックスは、俺が思う最強の戦士の一人だ。あいつに打ち砕けない敵がいるとは思えない。
盲いた白蛇は目の辺りに包帯を巻いていて、その表情から感情を推し量る事は出来ないが、酷く俺を心配しているように見える。
「兄弟。あの鬼人の女は確かに強い。だが、ダンジョンの深層では通用しない」
「……白蛇。お前は、いったい何者だ? その言い分だと、お前はダンジョンの奥に何があるのか知っているように聞こえる」
白蛇は疲れたのか、溜め息混じりに首を振った。
「……彼処は人ならざる者の領域だ。人の身で行くべき場所じゃない……」
白蛇は知っている。その半分が人でないこいつは、この世界の謎を知っている。
俺は非常な興味に駈られ――
「何がいいたい。勿体ぶらずに教えてくれよ、兄弟」
ダンジョンの奥には何か眠るのか。そこには、どんな神秘が存在するのか。
白蛇は言った。
「あそこは別の者の戦場だ。お前には、お前の戦場がある。お前はお前の戦場へ行け」
「勿論、そうするとも」
白蛇には白蛇の。俺には俺の地獄がある。俺はその地獄を罪と死を糧に踏み越えて行くだろう。
「……兄弟、もう一つだけ言っておく。お前は、あの教会騎士の言う事を、もっと真面目に聞け。お前の才能は確かに凄まじい。剣闘士を喚べるようになるとは思わなかったぞ……」
手もなくやられて、黙っている程のお人好しじゃない。俺は笑った。
「母の手は二本ある。これも『奪う手』よな。確かに貰ったぞ」
白蛇は首を振った。違う、というように何度も首を振った。
「アルフリードが睨んでいるぞ。忘れるな。母は『剣』によって殺されたのだ。お前は俺とは違う。純然たる『アスクラピアの子』だ。その意味が分かっているか?」
アスクラピアの子。
癒しと復讐の女神の子。つまりは『神官』。五徳と呼ばれる五つの戒めを持つ。
白蛇は鋭く言った。
「いいか、兄弟。『鉄』だ。特に『純鉄』は不味い。『鉄』に気を付けろ。母を殺した剣は純鉄だ。母は剣を嫌うんじゃない。鉄が嫌いなんだよ」
「鉄か……」
白蛇の言う通り、確かに俺たち神官は『鉄』を装備する事が出来ない。神官が装備するメイスにも鉄は一切使われていない。『刃物』は勿論、『帷子』さえも鉄製のものは受け付けない。何故か力が抜けてしまう。神力が弱まる。だが……
「白蛇、お前はどうやってアルフリードの加護を手に入れた」
「流した血と犯した罪による」
癒しと復讐の女神、アスクラピアと軍神アルフリードの加護を持つ、世にも奇妙な変わり種。
「何故だ。母は、何故、お前を見捨てなかった」
「最も尊い犠牲による」
◇◇
我々は何によって生きるか。
――愛ゆえに。
我々は何によって滅ぶか。
――愛なきゆえに。
愛がもたらす犠牲は、私が最も好むものである。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
白蛇が虚空の闇を見つめる。
「もう行け、兄弟。そろそろ、しみったれた女が帰って来る」
「……」
「俺と話した事は、あのしみったれには内緒だぞ」
白蛇の『半分』は母に侍る。故に、母の作ったこの奇妙な空間で俺との会話を成し得たのだろう。
「……」
白蛇は、尚も何か言いたそうに俺を見つめている。
右手で聖印を切り、言った。
「頭上に輝く清らかな銀の星が、新たなる道を指し示しますように……」
他にも何か言った。
「……闘争を好むか……そこまで似る事もなかろうよ。血は争えんという事か……」
その言葉は闇の中に溶かされて消えていく。
俺は……
◇◇
その刹那、俺は跳ね起きた。
耳の奥に、ぎゃりぎゃりと鉄と鉄が軋み合う音がする。
目に映るのはどデカい大広間だ。
首のない鎧の騎士が、そのどデカい大広間を巨大な戦車に乗って駆け回っている。
戦車は、スレイプニルと呼ばれる八本足の軍馬の二頭引き。
ぎゃりぎゃりと耳を打つ不快音は、右手に自らの首を抱える『デュラハン』と呼ばれる首なし騎士が乗り回す戦車の車輪から生じたもののようだ。
車輪には禍々しい刃が並び、それが回転する度に鉄同士が擦れる不快音がする。
アレックスはボス部屋の中央に陣取り、大剣を振り回して攻撃しているが――当たらない。両手のオリハルコンに掛けた術は既に効果をなくしている。その斬撃に衝撃波は生じない。
カカカと嘲笑う首なし騎士は自在に戦車を駈り、ボス部屋の広い空間を上手く利用して立ち回っている。
――四十層。
俺は壁際に座り込むようにしてもたれ掛かっていて、目の前にカイトシールドと呼ばれる大盾を構えたロビンが抜剣し、僅かに腰を落とした姿勢で身構えている。
とりあえず――
即時、身体能力強化の術を発動して目の前のロビンを援護する。
「戦況は?」
ロビンは振り返らず、答えた。
「かなり悪いです。アネットさんがやられました」
「くたばったか」
景気よく戦車を乗り回す首なし騎士を睨み付け、俺は鼻を鳴らした。
「馬鹿め。何故、俺を起こさない」
首なし騎士の駈るスレイプニルの二頭引きの戦車は個人の力が通用するものではない。脳裏を掠めたのは白蛇の言葉だ。
――深層では通用しない。
あのアレックスが。俺が最強と見込んだ戦士が通用しない。
そのアレックスだが、背後に倒れたアネットを庇うように首なし騎士の駈る戦車の前に立ち、遮二無二大剣を振り回して、アネットに近付けまいと牽制している。
「阿呆が……」
パチンと指を鳴らす。
広い間合いが確保された空間でこそ、召喚兵による戦術は最大の効果を発揮する。無数に現れたアスクラピアの聖印から、続々と聖闘士が湧き出し、続いて狙撃手が姿を現す。
突如出現した『部隊』に、首なし騎士は戦車の馬首を返して殺到する。
「ロビン、お前が先頭だ。盾を構えろ。密集隊形」
「――!」
さて、どっしりと腰を落として大盾を構えるロビンだが、ダンジョンに入った際はそんな盾は持っていなかった。おそらくロビンはマジックバッグを持っていて、そこから大盾を取り出したのだろう。
「そらそら、突っ込んで来るぞ。本気で力を入れろ」
本来、カイトシールドは騎士が馬上で使うものだ。頑丈で大きい。そのカイトシールドを構えるロビンを、密集した聖闘士が支える。
首なし騎士が戦車で迫り来るが、そこに狙撃手の放った無数の矢が雨あられになって降り注ぎ、スレイプニルが僅かに怯む。突進力が弱まる。
激突の瞬間、僅かにロビンがカイトシールドを傾けた事により、突進をいなされた格好になった戦車は、聖闘士を薙ぎ倒しながら直進し、ボス部屋の壁に盛大にぶつかって大破した。
「……!」
巨大な戦車の突進を受け切り、吐息を震わせるロビンの目は強い加護と戦闘の興奮に深紅に染まっている。
「ロビン、ヤツを殺せ」
首なし騎士の脅威は、主にスレイプニルが引く戦車によるものだ。戦車さえどうにかしてしまえば、首なし騎士自体の始末は容易い。
ロビンは戦車から投げ出された首なし騎士に歩み寄り、その弱点とされる首をブーツで思い切り踏み潰した。
これが、ダンジョンの『深層』だ。
A級冒険者とはいえ、アレックスとアネットの二人では厳しい。ロビンが俺の守護を放棄して、完全に二人に手を貸したとしてもそうだろう。つまり、四十層より先は、こんなバケモノ共が跋扈する死の領域だ。
気分を害した俺は、強く鼻を鳴らした。
「……首なし騎士か……」
こいつは『不死者』であると同時に『悪魔』にも分類される。思い出すのは白蛇の言葉。
「人ならざる者の領域、か……」
俺は腰の後ろに手を組んだ格好で歩を進め、アレックスの顔を見上げる。
「アレックス。アネットはどうだ。くたばったか?」
「……」
アレックスは答えない。
首なし騎士を打倒して静かになったボス部屋で、俯せに倒れ込み、ぴくりとも動かないアネットを見下ろしている。
戦車に跳ねられたのだろう。
俯せで転がるアネットの手足は、片仮名の『チ』の字を描くような格好で投げ出されている。
アレックスが、力なく呟いた。
「……アネット、死んじゃった……」
そのアネットは俯せに転がっていて、腹から飛び出した内臓が床に流れ出ている。だが、ほんの少し息がある。ほんの少しだけ、胸が上下している。
「まだだ、俺がいる。こいつが死ぬ事を許さない」
俺はアネットを蹴り転がし、仰向けの態勢にして、流れ出た内臓をかき集めて腹に押し込む。続けて折れた手足の骨を接ぐ。
「……」
その地獄のような光景を、アレックスは腑抜けになったように、ぼんやりと見つめている。
「…………」
死の闇に、どろりと濁ったアネットの視線が、僅かに動いて俺を見つめた。
「アスクラピアの二本の手。一つは癒し、一つは奪う。
彼の者は一である。永遠に唯一の者。
彼の者は全。全にして永遠にただ一つなり」
銀に輝く手で額に触れると、アネットの身体が目映いエメラルドグリーンの光を放ち、大きな口を開いた腹の傷が塞がり、再生していく。
「過去は常駐にあり、未来は予め生き、瞬間は永遠となる。命の流れは水にも似たる。空より出でて、空へと還る。永久に変わりて止まず」
傷付いて死に行くが定めなら、癒して生来るもまた定めなり。
即ち、逆も真なり。
「このような大きな傷は治すのではない。元に戻してやるといい」
これぞ秘奥。万物流転の法則。
まぁ、治すのも戻すのも、結果は変わらんが。
「う、ん……」
後には寝返りを打ち、静かに寝息を立てるアネットがいる。勿論、死んでない。
「言ったぞ。楽に死ねると思うなと」
俺は神官服の裾を翻した。
「……」
そして、遂に四十一層への扉が開かれる。地獄の門が開く。
戦え!
灰になるまで……
決戦を控え、俺だけが嗤っていた。