0 俺という名の少年
そいつは、くすんだ茶色い髪の少年だった。
年の頃は十歳前後。身体の線は細く、瞳の色は澄んだ青。いかにも真面目そうだ。そして、酷く世間知らずに見える。
髪の色や風貌からして、日本人じゃない。格好も何処か変だ。足元まですっぽり隠れる裾の長い学生服みたいな衣服を着ている。それは、映画なんかで見た神父のような出で立ちだった。
第一印象は『箱入り』の坊っちゃん。真面目そうで、甘ったれているように見える。こいつが教会からやって来たって言っても、俺は全然驚かない。
その少年が、酷く悲しそうに言った。
――母さんが死んだんだ。
「……そうか。残念だったな……」
俺には子供でいていい時期なんてなかったから、ガキに向かって使う言葉なんて分からない。
「親父がいるだろう。親父はどうした。親父は何をしていた」
――母さんにずっと付いてたよ。
「そうか……親父さんも頑張ったんだな。それで、お袋さんは、どうだった? 最後は……」
――眠るように逝ったよ。
「……」
悲劇に掛ける言葉なんてない。
今生の別れはいつだって悲しい。それが家族なら尚更の事だ。
気の毒に。
心からそう思う。
歳を食えば分かる。子供には両親に愛される時間が必要だ。
――兄さんを探しているんだ。
「兄貴がいたのか。家族が大変な時に、そいつは何をしていたんだ?」
――うんと、遠くに居たんだ。
男の子は父の反対を押し切り、その兄を探して旅に出たのだと語った。
無謀な旅だったとも。
――酷い目に遭ったんだ。
「……だろうな」
ガキの一人旅だ。そして世の中ってのは、そんなに甘くない。何もない方がどうかしている。
男の子は言った。
……すごく疲れた。もう終わりにしたい……
「ああ、そうすればいい。誰もお前を責めやしないさ」
……本当に、すごく疲れたんだよ……
そう語る少年の顔は憔悴していて、今にも倒れ込んでしまいそうに見えた。
「……君の名前は……?」
少年は言った。
……『ディートハルト・ベッカー』。
見た目で分かっちゃいたが、案の定、外国人だ。
「親父さんの名前は? 何をやってるんだ?」
……ベルンハルト。サクソンの片田舎で牧師をやっているんだ。
「ちなみに、お袋さんは?」
……クリスティーナ。
「そうか……知ってる場所なら送ってやろうと思ったが、生憎と知らん場所だ。俺に出来る事はあるか?」
そこで、少年は俯きがちだった顔を上げた。
……兄さんを探して欲しい。
「そいつは何処にいるんだ?」
……分からない。
「コイツだ! って特徴はあるか?」
……分からない。
「お前の兄貴だろう。なんで分からない」
……僕が生まれる前に、故郷から出て行ったんだ。
すると言うと、兄貴は少年よりずっとずっと年上だ。俺と同じぐらいの年齢になるだろう。
しかし……本当に無謀な少年だ。
顔も知らない兄貴を探して旅立ったのだ。失敗するのは当然の話だ。
「……お前、ひょっとしなくても……馬鹿なのか?」
……そこは父さん譲りなんだ。
「そうか。気の毒に……」
最初、そう思ったのとは別の意味でそう思った。
少年は無謀な性格をしていて、兄貴も同じように無謀な性格なら、そいつは絶対に見付からないだろう。
少年は酷く疲れたように言った。
……僕は疲れた……疲れたんだ……
「だろうな」
特徴も人相も知らん相手を探すんだ。そうならない方がどうかしている。
……あなたは、酷くはっきりとした物の言い方をするんだね……
「お前さんに色々あるように、俺にも色々あるんだよ。ディートハルト・ベッカー」
そして、沈黙が流れる。
黙っている間、少年と向かい合って対峙していると、俺は奇妙な感覚を覚えた。
それを言葉にするのは難しい。
少年と俺は、全くの別人だが、何処か似通っている。共通点がある。根本的な何かを同じくしているという実感のようなものがある。
何故か、俺は少年に親切にしてやりたかったし、少年の方は少年の方で、何故か俺を頼りにしている。
分からない。
だが、共感している。容姿も全く違えば、年齢も全然違うこの少年と俺は、大切な何かを共有している。
唐突に、少年が言った。
……神さまを、信じる?
俺は頷いた。
「ああ、信じる。神は居る。近くて遠く。遠くて近い場所にいる」
……僕は、よく分からなくなったんだ……
「そうか。気の毒に……」
宗教をやってる訳じゃないが、俺は『神』とやらの存在を信じている。
人生色々だ。
三十年生きて来て、俺は何度か『神の手』の存在を感じた時があった。
一つは、飲んだくれの親父が死んだとき。理由はなんと『親父狩り』だ。お袋や俺を散々ぶちのめしてくれた男が、通りすがりのチンピラにその百倍ぐらい殴られて死んだ。
俺は手を打って笑った。
二つ目は、お袋が笑った事。
お袋は気の弱い女で、いつだって誰かに遠慮していた。実の息子の俺ですら、お袋の本音は聞いた事がない。
でも、笑ってもらいたくて――
俺は散々道化をやった。流行りの芸人の真似をして踊ってみたり、歌ってみたり。
お袋は癌だった。
三十代で若かったから進行が馬鹿みたいに早く、あっという間に骨と皮だけになった。
俺は、そんな不幸なお袋の笑顔がみたくて、散々道化をやった。
最後は何をしたか覚えてない。
でも、お袋は花が咲いたように笑った。
最期は笑って死んで行った。
俺は泣きながら、その時、神はいるんだと思った。
祈りを捧げてる訳じゃない。信仰している訳じゃない。況してや感謝している訳でもない。
でも、存在だけは信じている。
そいつは超自然の意思の存在だ。そいつが何を考えているか、虫けらの俺たちには理解出来ない。だが確実に存在する。
俺たちを見守っている。
少年は黙っていて、無垢な青い瞳でずっと俺を見つめていた。
……君の信仰は素晴らしいね……
「そう大層なもんじゃない」
……兄さんを探して欲しい。
「知らん。神さまのお導きとやらがあれば、会える日もあるかもな」
いつからか、少年は微笑みを浮かべている。
……それでいいよ。あるがまま。君は君でいて欲しい……
「そうするとも」
俺は請け合った。
少年は名残惜しそうに言った。
……そろそろ時間だ。行こうと思う……
「また会おう。果てしない旅の終わりに」
躊躇う事なくそう返すと、少年はきょとんとした顔をして、それから笑った。
そうだ。
最後に見たのは、年相応の笑顔だった。
よく分からんが、俺はあいつを笑わせる事が出来たんだ。
いつからか俺は、一寸先も見えない暗がりにいて、怯える事なく目の前の闇と対峙していた。
耳の奥で、声が聞こえた。
◇◇
人はそれぞれ特性を持っていて、それから脱却する事が出来ない。ディートハルト・ベッカーの場合、無邪気な特性によって破滅した。
そして――
人は何処かへ至ろうとする時、己という個の存在を諦めねばならない。
――知識を与えよう――
――知恵を与えよう――
放埒に流れてはならない。常に自制せよ。赤裸々な人間の本能は、我が子に相応しくない。
覚えておくがいい。
愛がもたらす犠牲は、私が最も好むものである。
己の最大の困難を克服する者は、最も美しい運命に与る。
◇◇
頭の中に言葉が溢れ出ては消えていく。
そいつは最後にこう言った。
あの子には理解出来ない事柄が多過ぎた。
お前は生き続けよ。
いずれ、分かって来るだろう。
「そうするとも」
これまでだってやって来た事だ。今だってそうしている。難しい事じゃない。
俺は請け合った。
「俺は、いつだって俺で居ようと思う」
そして――
世界は闇に閉ざされた。
◇◇
……
…………
………………
……………………
初めは苦しいだけだった。
薄暗い穴蔵で目覚めたとき。
俺は子供たちに抱き着かれて眠っていた。
手足は勿論。腰回りまでガキがまとわり着いている。お陰で寒くはないが暑苦しい事この上ない。
「……なんだ?」
小さく呟くと、俺自身のものである声は酷くか細く、やけに甲高いものに聞こえた。
風邪でも引いたか。
身体のあちこちにへばりつき、惰眠を貪るガキ共を引き剥がして喉を擦っていると、穴蔵の奥の暗がりから、一人の人影が立ち上がった。
「新入り、目が覚めたのかい? 人間はお前しか居ないんだ。もう少しガキ共のカイロになってやりな」
「……」
なんだ、こいつ。というのが、この女の第一印象だ。
すらっとして、やたら身長だけはあるが、年の頃は十四~五歳という所か。顔に幼さが残っている。こいつもガキだ。
そのガキには返事をせず、俺は黙って現状の把握に努めた。
まず、暗い。お陰で周囲の状況が分からない。次いで臭い。酷い匂いで鼻が馬鹿になってしまいそうだ。そして狭い。奥まった下水道の洞穴を連想した。おそらくだが似たり寄ったりの場所。或いはそのものか。
身体にまとわりつくガキ共は、皆薄汚れた格好をしている。ルンペンか浮浪児か。似たようなものだ。全員、年の頃は十歳前後という所。
「ここは……」
また甲高い声が出た。まるで俺自身もガキになったみたいで気分が悪い。
喉を擦っていると、さっきのガキ……一際上背のある少女がまた話し掛けてきた。
「寝れないのかい」
忌々しそうに舌打ち一つして、少女は俺に向き直った。
「あたしはアビゲイル。アビーって呼びな。んで、新入り、お前は?」
「俺は……」
名前を言おうとして、俺は少し口ごもる。
――名前が喋れない。
俺は令和の日本人だ。結婚はしてないが、とうに三十歳は超えていて、勿論、働いている。独り暮らしのしがないサラリーマンだが、それなりに気に入っている。それが……喋れない。話そうとすると、喉が引っ掛かったみたいに言葉に詰まる。
代わりに一つの名前が脳裏に閃いた。
「……ディ。ディートハルト。皆はディって呼ぶ」
なんてことだ。俺は……
そしてまた口を衝いたのは甲高い声。
俺自身の掌を見ると、その手は薄汚れていて小さく、やけに頼りないガキの手のように見えた。
「…………」
くそったれめ。
ディートハルト・ベッカーだ。
鏡に映して見るまでもない。今の俺はディートハルト・ベッカーだ。その事に混乱していると、アビゲイルと名乗った少女が面倒臭そうに歩み寄り、やはり面倒臭そうに俺の頭を撫でた。
「そっか……じゃあ、アタシもディって呼ぶよ。今は寝てな、ディ」
「……」
分からない。何もかもだ。更なる混乱を避ける為に黙り込んでいると、アビーが悲しそうに言った。
「……分かんないのかい? 無理もないねえ……」
「何を……」
絞り出したのは、やはりガキの声だ。感覚が急速にアジャストして、この声が俺自身のものだと認識できるようになった時、俺自身も、この身体にへばり着くガキと同様に十歳前後のガキだという事が分かった。
そして――アビーが言った。
「ディ。お前は捨てられてたんだよ」
暗がりに引き返しながら、アビーは悲しそうにそう言った。
「そうか……」
喉から出る声こそ甲高いが、言葉遣いは俺自身のものだ。
軽い目眩と共に、脳裏に情報が湧き出して来る。
目の前の少女は……アビゲイル。
ここらには腐る程いるガキ共の元締めの一人。ガキ共は『アビー』または『ビー』と呼ぶ。
……くそったれめ。
なんだっていうんだ。どうしてこうなった。何が起こっている。
目の前の全てが、俺の理解の範疇を超えていた。
◇◇
つまるところ、人生というものは悪しき冗談の連続だ。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
俺は軽く頭を掻いて、小さく溜め息を吐き出した。
ディートハルト・ベッカー。
俺と言う名の少年。