71 行こう、海の底へ
「ほ、ほんとに大丈夫なのか!?」
「うん」
「だ、大丈夫なんだよな!?」
「うん。早くして」
早くしろと言われてもすぐには信じられない。
おれの前には手を差し出したクロェイラがいて、その手を握れというのだ。あーいや、手を握るくらいなら簡単なんだが、そのまま海に入るんだと。手を握れば——というか身体の一部が触れていれば海竜の加護を発揮できるのだとか。
ほんとかなぁ……。
でも一度救ってもらったという経験もあるしなぁ……。
「ハヤトさん、行くと決めたなら覚悟を決めましょう」
すでに覚悟完了らしき男前なリィンがいる。
「ご主人様。やっぱりカルアは地上で待ってますぅ——」
「よし、行こう」
クロェイラの手を握り、反対の手でカルアの首根っこをつかんだ。逃がさんぞ。
おれがクロェイラの手をつかめば、そのおれに触れることでカルアにも加護を与えられるという。
リィンはクロェイラの左手を握っていた。
「じゃ、行く」
おれたちは先ほどの入り江に舞い戻っていた。小さな砂浜のある入り江だ。
クロェイラがずんずんと波打ち際に進んでいく。その躊躇のなさっぷりに驚きつつ恐怖がまたも首をもたげてくるおれ。
足が、波に触れる——お?
「なんだ……これ」
ばしゃばしゃと足下で水音が鳴っているのに、身体が濡れる感じがない。薄皮一枚隔てて海水の進入を防いでいる感じだ。
構わずクロェイラはざぶざぶ進んでいく。やがて胸元まで海に入り、首、口、鼻と順に浸かっていく。
「あうっ、あぶぶっ、あぅあぅ——」
いちばん背の低いカルアが真っ先に海に沈んだ。ごぼごぼとあぶくが上がってくるが、彼女の身体が浮いてくることはなかった。
「お、おお、おおおお……」
せり上がってくる水が怖い。やがておれも口が水に浸かりそうになり——思い切って顔を海に突っ込んだ。
「!」
ひんやりとした感触。だけれども海水が肌に触れているという感じはまったくない。髪の毛も地上にいるときと同じだ。
ただ、吐いた息はごぼごぼと上がっていく。
息は——できる。吸って、吐いて、なんの問題もない。不思議だ……。
「すごいな」
おれは今、海底を歩いている。水深はすでに3メートルほど。
海面から差し込む光によって海底の地形が浮かび上がる。砂地に混じって岩がちょいちょいとある。海藻がところどころ生えて、茂みのようになっていた。
魚だ——。
メジナの群れが泳いでいる。表層を名も知らぬ小魚がゆく。海底に留まるシロギスがこちらを油断なく見ている。
「気をつけろ、カルア。そこにエイがいる」
「え、エイっ!?」
おれの声は聞こえているらしい。
エイは砂に紛れてるんだよな。で、尻尾に毒針があって、これが刺さるととんでもなく痛い。腫れ上がる。
気づかないまま踏んだら大変だから、おれはカルアを引き寄せてひょっと抱き上げた。
「あぅ……」
「エイは見えにくいから、危ないんだよ。ダイバーも気づかずに踏んで大ケガすることもある——あ、ダイバーってのは泳いで楽しむ人たちな」
「…………」
って説明しているのに、カルアはなんだかおれをうっとりと見上げている。ん? ああ——そうか、海面にゆらめく太陽がきれいだからなあ。
「カルア、下ろすぞ」
「い、いいえっ! もう少しこのままっ」
「エイは通り過ぎたし」
「いるかもしれませんっ!」
「まあ……それはそうだが。水の中なのに重力はそのままっぽいから、ちょっと重たいんだ」
「がーん!」
おれの言葉に、見るからにショックを受けてカルアが降りた。う、女の子に体重の話をしたのはまずかった。
「…………」
リィンが冷たいまなざしをこちらに向けているっ……!
「ハヤト。抱いたままのほうがいい」
「え? 急になんだよ、クロェイラ」
「ここからは竜の姿に戻る。歩いてなどいたら日が暮れるから」
「ああ、なるほ——」
言い終わるよりも前にクロェイラの身体に変化が訪れた。身体に鱗がびっしりと生え、むくむくと身体が大きくなっていく。手を握っていたはずがそれはひれとなり、竜となったクロェイラに服をくわえられて背中に移された。
「つかまってて——泳ぐよ」
「あ、ああ。——って、うおあ!?」
急発進で唐突に身体に重力がかかる。振り落とされそうになったので生えている背中の毛——黄金色の毛をつかむ。案の定カルアが飛ばされそうになり、おれはカルアをつかんで引き寄せた。
リィン? つかまりもせずに余裕です。この人、こういうアクシデントには全然動揺しないな! さすが騎士!
「カルア、しっかりおれに捕まってろ!」
「はいぃ! ずっとつかまってますぅ!」
ずっと? 向こうに着くまで「ずっと」ってことか? まあ、いいか。
クロェイラが泳ぎ出すととんでもない速度で景色が流れていく。海底の砂が舞い上がり、紛れていたヒラメがあわてて逃げ出していく。
唐突に、崖のように、水深が下がるところがある。クロェイラは海底へ向けて降りていく——太陽の光が届かなくなり、周囲が暗くなっていった。
するとクロェイラの身体がほのかに光った。燐光が散って、周囲の景色がわかるようになる。
砂がちの海底には風紋のごとき紋様がついている。
おお……あれはオニカサゴ。真っ赤だ。深海魚は赤いのが多いんだけど、光のほとんど届かない深海だと赤のほうが目立たない保護色になるらしい。
「あそこだ」
クロェイラが言った。向かう先には、深海の海底に、さらに大穴が開いていた——。
「お、おおお……」
なんか今日のおれは「おお」ばっかり言ってる気がするが、しょうがないよな。海の底なんてきたことないもの。
深海の大穴をくぐった先は、ぽっかりとした巨大な空洞に続いていた。
そこには空気があった。なんでも、さっきの海竜の「加護」もそうなんだけど、海竜は海水をせき止め、そこから空気を出し入れすることができるみたいなんだ。
ざぶんと海から上がったクロェイラが小さくなると、おれたちもその場に立った。
巨大なホールは、ほんのりと明るい。どこから光が来ているのかわからない。壁自体が発光しているみたいだ。
この、朱色をベースにした石材でできているホールは、床がびしょびしょだった。まあ、海竜立ちがここを出入りしているというのだからそりゃそうだ。
とか、のんびり思ってたんだ。
「人間だぁあああああああああ!!!!!」
ホール全体が揺れるほどのデカイ音が聞こえ、おれは思わず耳を塞いだ。
ずん、ずん、ずんと足を鳴らしてこちらへ走ってくる——赤ら顔の巨人。
巨人、でいいと思う。だって身長3メートル以上あるぜ。
そいつが同じくらいかそれ以上デカイヤツらを率いていた。全員、馬くらいなら一太刀で首を切り落とせそうなほどデカイ剣を腰に吊っている。つーかなにからなにまでデカイ。
「むっ……クロェイラ!!!!」
彼らはホールの入口で立ち止まった。
クロェイラにしては礼儀正しく一礼すると、
「長に用があります。お通しを」
「なにを……なにをバカなことを!!! この聖域に人間を連れ込んだ上で、なにを言っている!!!???」
男は狼狽して、叫ぶ。
「全員抜刀!!!! 人間を殺せ!!!!」
大会まで時間がない中、海竜の問題に首を突っ込むハヤト。
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