43 海竜から見える世界 4 & 帝国子爵のいる世界
クロェイラは荒れていた。
それは少女の姿になってハヤトに再会する1日前のことだ。
イカを食う。
老いた海竜に宣言してからクロェイラは海を移動した。移動した先はノアイラン帝国領海であるが、海竜からすれば海に国境などない。それに人間が移動するよりもはるかに速く泳いで行くことができる。
クロェイラは荒れていた。
なぜならイカを食うためにアオリイカに襲いかかったのだが——。
『あんの魔イカめっ……!』
アオリイカを守るように現れた魔イカ。
大きさで言えば海竜よりずぅっと小さい。だがその身に纏うオレンジ色の光——魔力は、クロェイラの嫌いな魔力波動を持っていた。
魔魚は魔力を貯め込んだ魚だ。
人間が魔力を魔法として行使できるように魔魚もまたできる。
魔イカが放った魔法は、予想通りクロェイラが苦手とする魔法だった。頭を揺さぶって吐き気を催させる。ただ、それだけと言えばただそれだけだ。魔イカがクロェイラを食うわけでもない。サイズ的にも無理だしイカの歯が立つようなヤワな鱗ではない。
だが、クロェイラの食欲を失わせ、クロェイラが見失う場所へ逃げる時間を稼ぐには十分だった。
襲いかかること3度。そのすべてにおいて魔イカの邪魔が入った。
『あーイカ食べたいイカ食べたいイカ食べたいぃぃぃいいいいいい!』
海竜は大きい。
身に纏う魔力もまた大きい。
ゆえに目立つ。
ゆえに魔イカもクロェイラをマークする——同族を守るために。
むしゃくしゃしたクロェイラは海藻を食った。そして吐いた。胸焼けを治すために——空腹で胸焼けなんて冗談じゃないとは思いながら。
『……あの人間なら、魔イカを釣れるのかな?』
ふとそんなことを、思ったときだった。
クロェイラが吐き出したフワフラが、海面をすごい勢いで滑っていく。やがて陸地へ引き上げられる——そのとき、ゆれる海面の向こうに、クロェイラは見た。
あの、釣り人を。
フワフラを中心に海竜との出会いがある1日前の夜——元ビグサーク王国男爵、ランディーは宿にひとりいた。
テーブルには食べ終わった夕食が散らばっている。竹串、薄く剥いだ木の皮はテイクアウトした食べ物の入れ物だったが、茶色のタレがべったりとついている。ワインの入ったボトルを口から離すと、ごとんとテーブルに置いた。
「ふぅ……ハヤトたちは今ごろなにをしているかな」
わずかに酔いの回った目で表通りを眺めるランディー。
彼女がふだんかぶっている帽子はベッドの上に転がっている。帽子のせいでくせのついた長い髪を指でかき上げる。
今日までの大会記録は、
1位(11杯)
ディルアナ:ノアイラン帝国帝都釣り人ギルド所属
2位(10杯)
ランディー:ビグサーク王国王都釣り人ギルド所属
となっていた。
昨日一昨日でディルアナは2杯を追加して単独1位に躍り出たのだ。
これにラズーシの街は湧いた。地元の釣り師が勝っているのだから当然と言える。
もちろんランディーだってがんばっているし、大会に勝敗はつきものだからディルアナが1位を獲るのも仕方がないと思っている。
しかし——勝負の雲行きは少々おかしくなっていた。
「ん……?」
コン、コン、と部屋をノックされる。
誰だろう。まさかハヤトが——と思うものの、それはないと否定する。ハヤトなら「おーい」とか声をかけてくるはずだ。
警戒を抱きながらもランディーは部屋のドアを開けた。
「——!?」
「ひとり? ひとりね」
フードを目深にかぶった「彼女」はランディーがなにかを言う前に部屋に入り込んだ。
「まあ、狭い部屋。こんなところでよくも我慢ができるわね」
ばさりと下ろしたフードから、ぴょこんと飛びだしたのはネコミミだ。
そう、訪問客はランディーと1位争いを繰り広げているディルアナだった。
「……なにをしに来た」
「あなたひとりでワインを飲んでいたの? ふぅん、いい身分ね」
「ディルアナ……大会で争っている私とお前がいっしょにいるのはまずいことくらいわかるだろう」
「私も飲もうかしら。知ってる? 私、今大会で絶対に優勝しなければならないから、翌日の体調に影響がありそうなお酒は絶対飲んではいけないの。つまり1カ月もの間、お酒を断てと言われているのよ」
「想像はつく」
「——ふうっ」
ランディーが止める間もない。
ディルアナはランディーが座っていた向かいのイスに勝手に腰を下ろすと、ワインをラッパ飲みした。
「あぁ……やっぱりお酒はいいわね。お魚もあればなおのこといいのだけど」
「残念ながら食べ物はもうないよ。……ディルアナ、まさかと思うが、魚も」
「そうよ。同じものを食べ過ぎるのはよくないからって釣ったアオリイカも持って行かれるの。私が食べたのはいちばん最初に釣った1杯だけ」
「お前に命令しているのは誰だ? 皇帝か」
「まさか!!」
キッ、とディルアナがランディーをにらむ。
「陛下は『正々堂々』とした大会をお望みよ。公明正大な方で、私の獲物を勝手に持っていったりするワケがないじゃない」
「では……上位貴族か」
小さく、ディルアナはうなずいた。
さもありなん。
ビグサーク王国と同じようにノアイラン帝国でも貴族が権力を握っている。貴族内でも下位貴族であるディルアナは、上位貴族の意向に逆らえない。
「私はもう貴族じゃない。知っているだろう? そんな話を持ってこられても困る」
「……逃げたのね」
「ディルアナ」
「釣りをする女貴族は他にもいるけど、私と戦える相手はあなただけだと思っていた。それなのにあなたは爵位を捨てて逃げた」
「…………」
ランディーにもディルアナの気持ちがわかる。
女で貴族、しかも釣りが上手い。
そんな彼女が釣り大会で優勝すれば帝国民からの人気は上がる。彼女をサポートしている皇帝もまたそうだ。
とどのつまりがイメージキャラクターだ。ディルアナが失敗してもサクッと処分して他の女貴族をまた立てればよい。
その証拠にディルアナの貴族位「子爵」は、帝国内において領地を所有させないぎりぎりの高い身分だった。
「ランディー、あなたもわかっているんでしょう? 今日、昨日の釣り大会のこと……陛下がご覧になっていないからといって、あいつらはやりたい放題だわ」
ディルアナが言っていることはランディーにもわかっていた。
実は、ランディーが単独1位になってからすぐ、「嫌がらせ」が始まったのだ。
ランディーがいつも入る釣り座の左右に見慣れぬ男たちが入ってきた。彼らは釣りをするのだが、ササミなどのエサをどんどん海中に放り込むのだ。適当に釣ってるフリをしながら。
エサをまくことでアオリイカに食わせ、空腹感をなくしているのだ。
文句を言う釣り人もいたが彼らは止めないし、係員も黙認していた——ルール違反ではないから、と。
タチの悪いことにはランディーの周囲でしかやらないので大会全体の釣果に影響がほとんどないことだった。
観客から見ればランディーの調子だけが悪いように見える。
「……お前の仕掛けが変わったのも、そうなのか?」
「よく見ているわね」
自嘲気味にディルアナは笑う。
彼女の仕掛けも、これまで釣っていた大きなものから小さなものへと変わっていた。
こうすることで、より小さいアオリイカも食ってくる。「リリース」の概念があまり定着していないこの世界でも、あまりに小さな魚を獲ることはあまり推奨されていない。
ディルアナが釣果を伸ばしたのはそのおかげだ——それもまたひとつのテクニックではあるのだが、「小物ばかり釣る」とあざけられたランディーよりもさらに小さいアオリイカを釣っているのだからディルアナの気も滅入るのだろう。
「私とあなた、初めて会ったときには……仲間だと思った。同じ貴族で、釣りが好きで……」
「……そうだな。私も同じように思っていたよ。だからこそ負けられないと思ったんだ」
「大賢者様が主催する大会だもの。私だって、仲間だからこそあなたにだけは負けられないって思ったのよ」
「結果は同着だったな」
ふたりの出会いは釣り大会だった。
その「結果」にいちゃもんをつけたのはディルアナだった。
「おかしいわよ。絶対『ランディーのほうが大きかった』のに」
「それは私のセリフだ。ディルアナの釣ったサワラのほうが大きかった。お前は計測後に突っかかってきてな」
「それはそうでしょう。計測していたのは帝国から派遣された係員だったんだから」
「お前のサワラを計測していたのは王国から派遣された係員だったんだぞ」
「え、そうだったの?」
「そうさ。私たちは同じことで怒っていたのだ——」
ランディーが言うと、こらえきれないとばかりにディルアナは笑い出した。
もといた席に、ランディーも座る。
「……それがなぜ、こんなふうになってしまったんだろうな」
「周りの人間が……そうしてしまったのよ。私とランディーはライバルであるべし。敵対していなければならないって。私があの大会で突っかかったのだってランディーが上だと思ったのに、周囲は私が勝ちたくてそう言っていると受け取ったわ」
「そうだな……」
ふたりはお互いに、因縁はあれど、わだかまりはなかった。
ランディーはディルアナが、「帝国から求められているディルアナ像」を演じているだけだと知っていたし、ディルアナもまたランディーが、自分をきちんと理解してくれていることに感謝していた。
主役同士がすでに仲直りしているケンカを、周囲が勝手にはやし立てているだけだ。
「……私、どんどんイヤな女になっていく」
「帝国民からすれば憧れの星だろう。卑下するものじゃない」
「あなたがうらやましい。簡単に男爵位を捨ててしまって」
「釣りは楽しくやるべきだ……そんな簡単なことを、私は教えてもらったんだ。ハヤトに」
「あの冴えない感じの男? ランディーってああいう男が好みだったの?」
「ば、バカもの、好みとかそういうものじゃない、ハヤトは友だち……そう、釣り友だ」
「へー?」
「へーではない。釣り友なのだ」
「……私も、貴族を辞めたら釣り友になれるかな」
ランディーはディルアナが、貴族を辞められるワケもないことを知っていた。
彼女は、帝国皇帝に忠誠を誓っている。困窮していた彼女の家を救ってくれたのが皇帝だからだ。
もちろんディルアナが魔魚を釣ったから引き立てた、というのはあるが、それを差し引いても目を掛けてくれているらしい。
「……ディルアナ、お前、なにを言っている?」
「わ、わかってるわよ。私とあなたはライバル、敵、友だちなんていう生ぬるい関係じゃないってことでしょ!? そんなふうに否定しなくたって——」
「もうとっくに釣り友だ」
「——え?」
「と……私は思っていたのだが、違ったのか?」
寄ることに慣れた眉間のしわが、ほぐれていく。
「違わないわ」
うれしそうで、くったくのない笑顔を、彼女は見せた。
よかった、とランディーは思う。
貴族を辞めたことをランディーは後悔していない。だけれど、ディルアナがどう思っていたかは心配だったのだ。
こうして話すことができて、よかった——。
「じゃあ今度、ランディーの彼氏のことも紹介しなさいよね。ハヤトって言ったっけ?」
「か、彼氏ではないと言っただろうに。あれは釣り友だ」
「すごいんでしょう?」
「ハヤトはすごいぞ」
「そう……すごいテクニックを持っているのね」
「ああ、テクニックだけじゃなく、道具の扱い方も上手い」
「竿は長いの?」
「長いだけじゃなくて硬くてしなやかだな。触らせてもらったが真っ黒で、使い込まれている」
「な、なるほど……そんなに夜もすごいのね」
「そのとおり、夜の——ってなにを言っている!? 夜釣りだぞ、夜釣り!」
また、ディルアナは大笑いした。
「あー、おかし。もっとここにいたいけどそろそろ帰らないとね」
「……ああ」
「また、会えるかしら?」
「明日会場で会うだろう。それに釣りを続けていれば海のそばでまたきっと出会う」
「それもそうね」
そうしてディルアナは去って行った。
「……帝国、か」
残されたワインを飲もうとして、ランディーは気づいた。
カラッポだ。
そこそこ残っていたはずなのに、一気に飲んだのだろうか。
「勝てるものなら勝ってやりたい……さもないとディルアナがプレッシャーにつぶされてしまう」
アオリイカ例大祭でディルアナが1位を獲れば、このやり方に味を占めるだろう。モラルに反していようとルール内なら無茶をしてもいいと考えるのが上位貴族だ。
それを乗り越えてランディーが勝てば、また違った見方が生まれる。いや、単純に優勝者は帝国皇帝との謁見の機会が与えられる。ディルアナの代わりに意見を言うことができる。皇帝が知れば何らかのアクションを起こすだろう。ディルアナが文句を言えばディルアナが貴族に恨まれるが、自分ならば帝国貴族に恨まれようと知ったことではない。
「……だが、勝てるのか……」
せめてハヤトのタックルがあれば、と思うが、自分が破損してしまったことを思い出し気持ちが憂鬱になる。大会が終わったらハヤトに謝らなければ。
「むう」
せめて酒でも飲もう、とボトルを持って、カラッポだということにまたも気づかされランディーはため息をついた。