前へ次へ
32/113

閑話 少女たちの世界

「あ~~~なんでよ! 魔サバ魔サバ魔サバ! なんであいつは魔サバといっしょに落ちてきたのよ!? おかげで理性が吹っ飛びそうになったじゃない! あ~~~~~~、もう! 起きたあいつとちょっとは話したかったのに! 魔サバがあったせいで! 全然集中できなくて、もう!」


 海中で、海竜族の少女はのたうち回っていた。

 姿を変えられる海竜の能力で、陸に上がることも理論上は可能だ。

 ただしものすごーく集中力が必要。

 目の前に美味そうな食べ物が転がっているような状況では無理だ。


 魔魚は、いかに海竜とはいえそうそう食べられるものではない。

 というのも魔魚が魔力を身に纏っているせいで海竜からは見えづらくなるという習性があるのだ。

 一説によると長年生きた魚が海竜から逃げるために魔力を身に纏うのでは、というのもある。


「ひ、一口、せめて一口食べちゃえばよかったかしら? ――ダメ、ダメダメ。あの獲物はあいつのだから。そんなのマナー違反だわ。……ああ、お腹が空いたわ。でも、でもこれで」


 彼女は満足そうにつぶやく。


「あたしを逃がしてくれた借りは返したわ。――次はそうはいかないわよ? 人間」


 その口調はどこか、恋する乙女にも似ていた。

 ただ――彼女が身じろぎして動き出すと、敏感な魚たちは姿を隠し、静かな海中はさらに静まり返る。

 海の王者、海竜。

 彼女はありあまる魔力を惜しみなく使って、隠れている魚を探し出し、その大きな口を開く。

 食事を始めるのだ――やがて食べられるはずの人間の味を想像しながら。




 リィンは騎士団長に呼ばれて執務室へ向かった。

 この人物――先の大戦では多大な功績を挙げたレガードの前に立つのは、いつだって緊張する。

 恵まれた体格から放たれるクレイモアの斬撃は金属鎧すらたやすく切り裂く。

 知謀にも優れ、ビグサーク王国へ攻め入ろうとした敵軍は何度となくレガードの張った罠にかかり、撃破された。

 平和が訪れた今にあっても政治の世界で彼は、騎士団の地位がわずかも低下しないよう活動している。

 そんな生ける伝説は、やってきたリィンに言った。


「頼みがある」


 頼み。「任務」「命令」とは違う響き。

 レガードほどの人間が一体、一介の騎士である自分になんの頼み事か――。


「ハヤト=ウシオを、他国にやりたくない。ビグサーク王国のためになるよう働きかけてくれ」


 レガードの考えは、当然と言えば当然だ。

 大戦が終わり、平和が訪れて10年。

 戦争の代わりに、今は魚を釣ることで各国はしのぎを削っている――すべては大賢者(グランドセイジ)の提言通りに。


 釣ったヤツが偉い。


 4年に1度の世界会議は再来年。それまでに、ある程度の釣果を挙げておかねば会議での発言力が低下する。大賢者を前にした大舞台で国王に恥をかかせられない。

 潮にも恵まれ、魔魚の釣果ではビグサークは一頭地を抜いているが、王国内の釣り名人たちは自分の地位を守ることを考え、大々的に釣りに行くことを避けている――釣果が振るわなかったときに非難されたくないからだ。この1年で、他国との差は縮まってきている。


 そんな中、現れたハヤト。

 彼を王国に縛りつけたいと考えるのは自然な流れだ。

 リィンにだって、レガードの思惑はわかる。


「……お言葉ですが、騎士団長。ハヤトの性格を考えると難しいかと存じます」

「理由を詳しく述べよ」

「彼は生粋の釣り人です。隣国ノアイランにアオリイカを釣りに行きたいと言っていました。アオリイカのいる釣り場が、ノアイランであるのかビグサークであるのかは彼は意識しないのです」

「王女はお抱え釣り師にすると張り切っているぞ」

「なんとかして断ろうとするでしょう。……無理強いすると、彼は反発すると思います」

「逆効果か」

「はい」

「――ならば王女には私から言おう。ハヤト=ウシオに出国の許可を与えるように」

「えっ?」


 そんな言葉を、このレガードが口にするとは予期していなかった。

 ハヤトが隣国へ行くことの背を押すだなんて。


「ところでリィン。着替えたのか」

「え? あ、は、はい――このような略装で申し訳ありません。ですが、潮水でひどい有様でして。鎧も、入念に手入れして明日には使えるようにしておきます」

「いや、いい。手入れも他人に任せろ」

「……はい?」

「お前は鎧をもう着る必要はない」


 ますます、わからない。

 まさか自分は騎士をクビになるのだろうか――その可能性に思い当たり、血の気が引く。


「ハヤト=ウシオを、この国でもっとも理解しているのはお前だ。違うか」


 リィンはランディーのことを思い出したが、彼女は確か、すでにノアイランへと移動したとスノゥが言っていた。そうなると今の国内では自分かもしれない。

 カルアは? ずっとハヤトといっしょにいる――というよりべったりしているカルアのことを思うと、妹のように微笑ましく感じる。

 彼女はハヤトを知っているのではなくハヤトに依存しているだけのようだ。


「そう、だと思います」

「ならばよい」


 満足げにレガードはうなずく。


「ハヤト=ウシオは許可が下りるやこの国を出ていくだろう。お前もそれに同行しろ」

「は……? あの、それは」

「正騎士としての格好は不便だから止めろ。釣りに行くのに鎧を着ていく者はいない」

「騎士団長! わたくしは、その、クビということでしょうか……騎士を……」

「クビ? バカな!」


 レガードはその大きな手をひらりと振った。


「お前にしかできない重要任務だ。いいか? ハヤト=ウシオに目をつけない為政者はいないだろう。お前は彼のいちばん近くで、他国の者から彼を守るのだ。我が国の威信を賭けて、彼を守り切れ」


 そうだ。

 ハヤトは狙われる。確実に。

 味方にならないのなら殺してしまえ、と考える人間が出てきてもおかしくない。

 誰が彼を守るのか? ランディー? ランディーに武力は期待できない。

 そうなれば、騎士である自分だ。自分なら彼を守れる力がある。そのためにも、周囲を警戒させないために騎士の格好を止めたほうがいい――。


「は……はいっ!! 承知いたしました! わたくしが浅はかでした!」

「よい。お前には期待している。行け!」

「はっ!!」


 最敬礼をとると、リィンは騎士団長の執務室を辞した。

 その後ろ姿には決意があふれていた。自分がハヤトを守るのだ。釣りの常識を、ひいては世界を変えるかもしれない、可能性を持った釣り人であるハヤトを。


「…………」


 彼女がいなくなってから、レガードはうなずく。

 リィンは気づいていない。「お前にしかできない重要任務」。この言葉の裏に、もうひとつ別の意味があることを。

 調べはついている。ハヤトに、他に女の影はない。そしてリィンにも特定の親しい異性もなく、恋人も当然いない。

 そんなふたりをくっつければどうなるか――若い男女だ、収まるべきところに収まる。

 レガードの見立てでは、隼斗はリィンに好意を寄せている。これは賭けだが、分の悪い賭けではない。ましてやリスクがあるわけでもない。


「……木に肥料をやればやがて実がなる。その実が落ちてくるのを待てばよい」


 それは騎士ではなく政治家的な発想ではあった。

 だが、


「あ~あ、手の掛かる部下だぜ……まったく」


 しかし彼の目に浮かんでいたのは、年頃になっても恋人も作らず仕事に打ち込む娘を、心配する親のような感情だった。

騎士団長はいいオッサンです。

前へ次へ目次