白雪深緑 ~はくせつしんりょく~

作者: 丸虫52

短編にしては長めの話です。冬の童話祭に出すつもりでしたが、間に合わなかった作品です(泣)

 風が吹いたのか、気温が上昇したのか……。どこかで枝から雪が落ちる湿った音がした。

 どうしてこんな事になってしまったのだろうか――雪の中に半ば埋もれて、俺は考えていた。

 確かに冬山を侮っていたのは事実だが、毎年来ているスキー場で、いきなり前が見えなくなるほどの地吹雪に遭遇するなんて――ましてや危険など無いはずのゲレンデからいつの間にか外れて遭難するなんて――誰に想像できただろう。それも真昼間、大勢のスキーヤーがいるところで。


 友人達と来た有名なスキー場。友人の中には当然女性も含まれている。8人が車2台に分乗した。

 早朝に家を出て、昼前に着いた。車の中では遠足の小学生もかくや、と言うほどはしゃいで、荷物を置くのもそこそこにゲレンデへ出た。

 夏の海水浴場と冬のスキー場は、その季節で一番人口密度の高い所だと実感できる込み具合だ。子供から大人まで、滑れるヤツから雪遊びに来ているヤツ、ナンパに来ているヤツまで、多種多様の人間が集まっている。

 山の下ほど人が多く、その辺りにいるのは滑られないほど下手なヤツか、それをモノともせず滑られる上級者。

 俺達のようにそこそこ滑れる者は、さっさと上級コースへ逃げる。

 滑る時間よりも長いリフト待ちをクリアして、比較的空いている山頂へ。冗談を言いながら、次々と滑り下りていく。俺は最後から3番目だった。

「んじゃ、お先ぃ」

 後に残る友人に軽く挨拶して、俺は板を浮かせた。

 すぐにスピードに乗る。

 耳元で唸る風、頬を刺す冷気、雪を削るエッジの音。自分が風になったような錯覚を覚える爽快感!

 俺より先に滑っていた者達を次々捉え、追い越した。

 ゴーグル越しの視野に、麓の色とりどりの豆粒が入ってきた。

 その時――――!

 いきなり横殴りの風が、左手にある林の中から俺を襲った。風は林の中に積もったパウダースノーを巻き上げ、その風圧ごと俺を右手に押しやった。

 何かを考えているヒマはなかった。呼吸すらできなかった。バランスを崩し、そのまま反対側の雑木林に突っ込んだ。木立にぶち当たり、痛みに呻く間もなく、唐突に圧力から解放されたと思ったら、俺の体は空中に投げ出されていた。

 次の瞬間、落下とそれに伴う-Gを感じた。

「う、うわああぁぁー!」

 恐怖心が口をついて、俺は叫び声を上げていた。

 先の見えない恐怖が心の中に巨大な化け物を生み出し、無駄だとわかっていても抵抗しようとする心から、俺はジタバタと空気を掻いた。

 ザ……! ザザザザ――――――

 無様に足掻いていた俺の視界が瞬間、白から緑に変わり、剥き出しの顔に鋭い痛みを感じた。何かに触れて、ゴーグルが飛んでいくのが見えた。と、思う間もなく、凄まじい衝撃を体に感じた。

 ――ああ、地上へぶつかったのか……。

 このまま、俺はここで死ぬのか……ぼんやりと納得した。かろうじて雪から出ている左目の視界に映った空は、ついさっきの地吹雪が信じられないほど青く澄み渡っていた。


 どのくらいそうしていたのか、急に光が陰った。太陽が雲にでも隠れたのかと思った俺の耳が、信じられないような音を拾った。

「もうし、生き人でしょうか? それとも、死に人でしょうか?」

 若い女の声だった。なんでこんなところに若い女がいるのか、疑問がちらりと頭を過った。それよりもせっかくの助けに俺は応えようとしたが、凍えた体は思うように動いてくれなかった。なんとか雪から出ている指を微かに動かしたが、相手が気付いてくれたのかどうかわかる前に俺の意識は途切れてしまった。


 雪が木の枝を振るわせて落ちる音がした。

 あの世でも雪が積もるのか、スキーができるな……オレは能天気にそんな事を考えた。

 体の感覚が徐々に戻って来ていた。落ちた時にやっぱり骨が折れたのだろう、呼吸をすると胸の辺りが痛いし、足や肩もずきずきする。体は動かせないけれど柔らかな布団の上にいるみたいで、気持ちが良い。清々しい香りがする。

 親のいう事に反抗ばかりしていた俺でも、天国へ来れたのだろうか? だとすると、天国行きの基準は意外に甘いのかもしれない。

「お加減はいかがですか」

 いきなり側で女の声がして、俺は驚いて目を開けた。

 最初はぼやけて目の焦点が合わず、俺は何度も瞬きをした。それが徐々に合ってくると、まず板張りの天井が目に入ってきた。時代劇なんかでよく見る、年輪が模様を作っているあんな天井だ。

 視線から先にゆっくりと顔を動かして声のした方を向くと、女が座って俺を見ていた。

 卵より少し長めの顔に細い眉、切れ長な目と真っ直ぐな鼻、顔の割に小さな口と艶を含んだ真っ赤な唇の色が肌の白さを際立たせている。妙に存在感というか、どっしりとした印象がある。女は少し暗めの緑色にくすんだ赤の花が描いてある着物をきちんと着て、畳の上には真っ直ぐな髪が1メートルほど伸びていた。その先には障子戸とその向こうが明るい事が見て取れた。何だかこの空間は、まるでこのまま時代劇に出ても何の違和感も無い佇まいだ。

 女は黙って俺を見下ろしていた。

「……あんた、……あなた、は?」

 俺の返事を待っているのだと気付いて、俺は何とか掠れた声を出した。そして記憶が途切れる前の事から、この女が俺を助けてくれたのだろうと思った。女はそんな俺の心を読んだみたいに、

「あなたをここへ連れてきたのは、わたくしではありません。わたくしの妹です」

 まるで人形のように表情を変えずに、口だけ動かしてそう言った。能面のようとはこういうことをいうのだなと、俺は思った。

「……いもうと?」

 その時部屋の外に滑るような足音がして、障子に人影が映った。人影はそのまま跪づくと声をかけてきた。

姉様あねさま、よろしいですか?」

 それは俺が気を失う直前に聞いた声だった。部屋の中にいた女は、視線を少しだけ後方へ流して応えてた。

「お入りなさい、笹雪ささゆき

「はい、失礼いたします」

 声と同時に障子が音も無く滑り、女よりも明るい緑色の着物を着た女が外に座っていた。状況からすると、俺を助けてくれた妹娘だろう。姉娘と同じような恰好をしていたが、顔立ちは姉妹とは思えないほど違っていた。小さめの顔にハッキリとした目鼻立ち、きらきら輝いている瞳や引き締められた淡い色合いの唇は行動的な性格を表しているようだ。

 その女性は、時代掛かった仕草で座って障子閉めて入ってきた。

「お目が覚められましたか?」

 俺の寝ている横、姉娘の横に座ると妹の方は訊ねた。並んで座ると、姉との違いが際立った。全体的に細身で小柄だがしなやかな感じがする体つきで、活発そうに見えた。緑一色に見えた着物には、細かい竹の葉っぱのような模様があった。

「あなたが、俺を、助けて、くれた、んですか? ありがとう、ございます」

 喋る度に肋骨の辺りが痛んで、切れ切れに俺は礼を言った。

「いいえ、大したことではありません。それよりお痛みになられるのでしょう? どうかゆっくりお休みください」

「すみま、せん」

 話す事に思いの他体力を使った俺は、それだけ言うと気絶するように眠りに落ちていった。


 彼女達がどんな薬を使ったのかは知らないが、体中の痛みは翌日には嘘のように引いていた。それでも足や肩の骨折は固定されていて動かせなかったし、手足の擦り傷は内出血して黒くなっていた。

「あんなところに生き人がいるとは思いませなんだので、大層驚きました」

 俺の傷の手当てをしながら、妹娘――笹雪は言った。今日は明るめの緑色に、やっぱり竹の葉のような模様の着物を着ている。因みに姉娘は椿雪つばきゆきというらしい。姉妹揃って変わった名前だなと思ったが、命の恩人にそんな失礼なことを言うほど俺は非常識ではないので黙っていた。

「スキーをしていたんですが、急に吹いてきた風に流されて崖から落ちたんです」

「スキー?」

 笹雪は首を傾げた。

「滑った事、ありませんか? 風を切る感覚が爽快なんですよ。そう言えば、俺――僕の近くに板が落ちてませんでしたか? 失くすとかなり痛手なんですよ、買ったばかりなので」

「板? どのような大きさの?」

「ええと、長さは俺の身長より長くて、幅はこのくらい……5cm、もっと大きいか?」

 俺のうまくない説明を聴いて考え込んだいた彼女は、

「山吹色に紅色の筋の入った細長い板でしょうか?」

「山吹? たぶんそれです。黄色っぽい色でしたから」

「でしたら側に二本ありました。あまりに大きいので中には入れられませんでしたが、お帰りの際にお持ち下さって結構ですから」

「助かった! ありがとうございます」

 俺は首だけ曲げて礼を言った。

 外で、葉っぱの上から雪が落ちる音がして、障子戸越しに雪の影が落ちていった。

 この家に来て何日が過ぎたのかわからないが、俺が顔を見たのは二人の姉妹だけだ。他にも何人か人がいるのは足音や廊下を通る影でわかるのだが、顔を見たことは無い。それは俺が寝たきりということもあるのだが、誰ひとりこの部屋へ入って来ないからだ。

 俺の世話はもっぱら妹の方がしてくれる。痒い所に手が届くというのはこういう事かと思うほど、細かい事に気が付く世話をしてくれる。時々姉の方も顔を出すが、相も変わらず表情が無く言葉数が少ない。それでも二人に共通しているのは、立ち居振る舞いや話し言葉が妙に古風な感じがするということだ。よく時代劇で見るような、あんな感じを想像してくれればいい。今時こんな生活をしているなんて驚きだ。

 外の様子は姉妹が出入りする時に少しだけ見えるが、雪が積もっているのか真っ白だ。この部屋は特別暖房器具は見当たらないが、寒さは感じないから、きっとどこかにヒーターがあるのか、畳の下が床暖房になっているのだろうと俺は思った。

 俺の体は相も変わらず、首以外まるで何かに固められているように自分で動かすことができない。ボディビルダーほどじゃないけれど筋肉は結構付いているはずの俺の体を、それでも笹雪はあの細い体でどうやってと驚くほど易々と動かす。

「俺の世話、大変じゃないですか? もう少し自分で動かせるといいんですが……」

 ある日着替えをしてくれている笹雪に恐縮しながら言うと、彼女は手を止めるとにっこり笑って、

「お気になさいますな。私、意外と力がございますのよ。どんなに雪がたくさん積もっていても、それを全て掃ってしまう事ができますの」

「雪を、掃う――ですか?」

 おかしな言い方だなと思ったが、これも彼女独特の言い回しだろうと大して気にもとめなかった。


 異変は突然起こった。

 その日は朝から、何となく落ち着かないざわざわした雰囲気あがあった。それは俺の寝ている部屋まで届いて来ていた。身動きのできない俺は、理由が知りたくて笹雪がやってくるのを待っていたが、彼女は一向にやって来ない。時計があるわけではないから時間はわからないが、いつもなら俺が目覚めるのをどこかで見ていたかのようなタイミングで笹雪が朝食を持って現れるのに、起きてずいぶんたってもやって来る気配すらない。

「すみませーん! どなたかいらっしゃいませんか? 笹雪さーん?」

 大声で呼びかけてみても、気配はするのに誰もやって来ない。何度か呼びかけてみて、俺は呼ぶことを諦めた。別に腹が減ってるわけではないし、もう少し待ってみようと思ったのだ。

 することが無いから、天井を見て年輪を数えているうちにどうやらうとうとしてしまったらしい。何かの気配を感じて目を開けた俺は思わず息をのんだ。

 俺が寝ている布団の横に、椿雪が立っていた。血のような赤黒い色に白い花がぽつぽつと書いてある着物の裾を長く後ろに引き摺って、ザンバラ髪から血の気の無い白い顔が見えた。いつもは能面のような表情が無い顔は、血走って吊り上がった目やかみしめた唇、異様に長く伸びた爪は鬼ようだった。俺はもう少しで叫び出すところだった。

「……お前の所為じゃ」

 地鳴りのような音が椿雪からの口から出た声だと、気付くのに時間がかかった。正に地獄から響いてくるような声だった。

「お前なんぞを引き入れたが故、あのはこんな目におうたのじゃ……! この疫病神め!」

「笹雪さんがどうかしたんですかっ?」

 何が何だかわからなかったが、笹雪に何かあった事はわかった。勢い込んで訊いた俺の声なぞ耳に入っていないらしい椿雪は、今にも俺を食い殺しそうな形相で睨んだ。

「早よう出て行きや! いいや、ただ出ていくだけでは到底許せぬ! あの娘が救った命、ここに置いて行きや!」

 袖から見える腕が、まるで木の枝のように茶色く硬く先端が尖っていくのが見えた。そして言いながら振り上げたそれを、身動きとれない俺の顔めがけて振り下ろした!

 ダメだ――避けられないとわかった俺は思わず目をつぶった。

 ふと、人は自分が避けられない状況になった時目を閉じるのは、自分の最後を見たくないからだろうか――と場違いな事を考えた。


 遠く人の声がする。それが徐々に近づいて来て、明確な言葉になった。

「いたぞー!」

「こっちだ! ほとんど埋まっている」

「……生きているのか?」

 うっすらと目を開けると、覗きこむ人の顔と、息をのむ気配がした。

「……い、生きてるぞー!!」

 慌てて後ろに声をかける人が見えた。ガサガサと大きな葉が揺れる音と、ザクザクと何かを切っている音がする。どうやら俺は熊笹の繫みの下で、首まで雪に埋まっているようだった。視界の隅に、スキー仲間が走って来るのがちらりと映った。今、周りにいるのは救助に来てくれた人達らしい。入れ替わり立ち替わりやってきて、俺の頭の上に茂っている笹を掻き分けたり、切開いたりしているらしい。俺はぼんやりとそれを見ていた。

 その時人声に混じって、メキメキと木が折れるような小さな音が聞こえた。音のする方へ顔を向けると、すぐ側に雪を被り血のように赤い花を付けた大きな椿の木があった。その俺に一番近い枝が、雪の重みに耐えかねたようにたわんでいた。

 俺の視線に気付いた救助の人達が、視線の先を見て悲鳴を上げた。

「でかい枝が、折れる!」

「危ない! 潰されたら骨が折れるぞ、離れろ!」

 枝の裂ける音は誰にもはっきりと聞こえるほど大きくなり、人々が慌てて俺の周りから散っていった。やがてその枝は付け根の辺りから裂けて、折れた先端が俺目掛けて落ちてきた。

 枝がゆっくりと、スローモーションのように落ちてくるのが見えた。その枝が椿雪の鬼のような顔と重なった。周りの音が消えたように思えた。

 ――ああ、姉様そうだよな。大切な妹が、俺の所為で踏み荒らされたんだ、怒って当然だ。

 俺は素直にそう思った。

 俺は椿雪の怒りと悲しみを受けようと思った。ゆっくりと目を閉じ、その時を待った。

(おやめ下さい、姉様)

(笹雪! 何を……!)

 不意に笹雪の声が聞こえた気がして目を開けると、前が見えなくなるほど雪をかぶった笹の葉が覆いかぶさっていた。重いものが落ちる音と、椿雪の悲鳴が聞こえた。椿の枝は、笹の分厚い幕に阻まれて俺の目の前3センチほどで止まっていた。

「びっくりしたー」

「あんな事があるんだな」

「誰か怪我してないか?」

「大丈夫か?」

「おおーい、担架持って来い!」

 人の声が近付いて来て、口々に恐怖を語っている。俺の目の前から椿の枝と笹の葉が取り払われ、明るさが戻ってくる。枝の折れた椿の木が見える。真新しい傷口が、血を流しているように見える。

 やがて雪の中から掘り出された俺は、担架に乗せられ山を下って行った。埋まっていた場所を見ると、倒れ伏して泣いているように見える椿の枝と、踏み躙られて目茶苦茶になった笹の繫みがあった。


 俺はしばらく入院した。足と肋骨の骨折、それと軽い凍傷のためだった。

 退院後、見舞いに来てくれていたスキー仲間の一人と俺が発見された場所へ行った。地元民はめったに足を踏み入れない『禁則地』に近い場所で、昔ここを治めていた領主の館があったところだという。領民思いで仲の良い二人の娘は他国に攻められたとき、領民を逃がすための時間稼ぎに敵の武将を館に招待し、酔いつぶして火を放った。領民たちは娘達の名前にちなんだ椿と笹と館跡に植え、彼女達に感謝した――という話が地元の民話として伝えられていると、一緒に歩いている仲間が教えてくれた。

「今までも行方不明なった地元民がいると、最後にあの辺りを探すと見つかるらしいんだが、余所者は前例がないらしい。大体、お前が流されたはずの場所とは、スキー場をはさんだ真逆なんだ」

 そいつは首を捻りながら、言った。

 俺が埋まっていた場所は、掘り起こされたままになっていた。踏み荒らされ、刈り取られ、蹂躪された跡そのままの笹の繫みと、裂けて痛々しい傷口を晒す椿の木。

「……ひでーな」

 思わず呟くと、隣の奴も同意した。

「でも、おれらどうする事も出来ないしな」

 笹雪が助けてくれた命。守ってくれた命――俺は笹の繫みの側にしゃがむと、感謝と謝罪を込めて手を合わせた。残った笹の葉を揺らして風が吹いた。風に混じって笹雪の声が聞こえた気がした。

(大丈夫です。根は痛んでおりません故、春になればまた芽吹きます)

 どんな重い雪すら跳ね除けると言った、彼女の明るく強かな声だった。

 どこかで冬の太陽に照らされた雪が、葉の上から滑り落ちる音がした。