98.
◆
人生には多くのしがらみがある。
例えば眼前の人物がひどく憎たらしく、殺してやりたいと考えたとしても、拳を振り上げて襲い掛かるのは賢くない。目撃者がいれば自分の称号は殺人者となり、共犯者がいればどこかで真実が流れ出てしまう。人の輪から外れていく。
人は自分以外その他多数によって管理される。集団意識は逸脱することを許さない。
それはどの立場にいても同じこと。
国を統制する立場にいる人間であっても、客観的視点からは逃れられない。
「私は王だ。それは覆ってはならない」
この国の第一王子――ロイ・クラウンは自室で独り言ちた。
父から受け継いだ部屋は静謐そのもの。御付きの者も下げた今となっては、ただの独白である。
なぜ、どうして、王になりたいのか。そんな質問は聞き飽きた。理由など考えることもない。王になるという未来は、自分が自分であるために必要なことなのだ。
自分の存在証明。王から生まれたこの身にあっては、王を引き継ぐことが絶対条件。父の言葉を背に、父の歩いた道を前に、自分の国民の前に立つ必要がある。
義務にも等しい。そうならねばならない。
それなのに。
「最近、周囲の人間の私たちを見る目に憐憫が映るようになってきたわね」
窓枠に腰かけて物憂げに外を見る少女然とした者が口を開いた。
プリンツ・クラウン。
ロイと顔つきはよく似ている。しかし、武骨な男と繊細な女性との差異はあった。長い髪の色はロイと同じ。少しだけ幼く、穏やかな眼差しでもってロイを見つめた。
ロイは眉間に皺を寄せる。
「おまえが私の行動に制限をかけるからだ。持ちうる戦力を投じて、さっさと殺してしまえば良かったものを、後手後手に回ったからこうなってしまったんだ」
「嫌だわ、兄さん。私は汚名を後世に残したくはないわ」
「王位にふさわしくない者を殺すことを汚名などと。聖戦だよ、聖戦。このまま王座をあいつに明け渡すことこそが汚名だろう」
「彼女を取り巻く状況を再度認識してよ。どんな理由があれ、霊装ティアクラウンはあれを選んだのよ。彼女を殺せたとしても、私たちが命令した、私たちが原因、なんて思われてはいけないのよ。霊装が選んだ相手は絶対。絶対の力を持つ霊装の意志に歯向かうなんて、国民の反感を買ってしかるべきだわ。他に何が起こるかもわからないし」
「だから自殺や事故に追い込もうとしているんだろう。そして、いずれも失敗した。じゃあどうする。今更直接殺しに行くのか? 学園に火を放って事故にでも見せかけて焼死させるか?」
「ああ、兄さん。貴方はなんて単細胞なのかしら」
プリンツは口端を歪めた。
瞳は持ち上がり、喜色をまき散らす。
楽しそうに嬉しそうに哀しそうに。
「おい」
「失礼いたしました。でももう、そういう段階に入ってはいないのよ。全員が私たちの味方だとは思わないようにしてね。兄さんは横柄だから少し心配だわ。
状況を整理しましょう。私たちの優位点は、王城内の評価。前王と王妃と間に生まれた、正統な嫡子。今まで受け継がれてきた伝統のまま、私たちは生きている。貴族など世俗を慮る人間は私たちを支持するでしょう」
「あっちの優位は?」
「霊装の一択よ。王冠があちらにあるというだけ。それだけが唯一で絶対の障害だった。そう、――”だった”。しかし今、あちら側も段々と力をつけているわ。代表的な人物だと、聖女を襲名したマーガレットなんかが彼女を推して扇動している。予言だとかいう世迷い事で、あれが王女になるだなんだと嘯いている」
「あの女には首輪が足らなかったか」
「あれはあれで知性がないわけではないわ。意外と狡猾、というのが私の解釈。考えが足らないと思っているけど、目の奥はいつもぎらついていたもの。与えるのは首輪でも餌でもなく、噛みつかせるべき骨だったかもね。がぶがぶ」
「犬からは他の四聖剣もあちら側だという報告が入っているが?」
ロイは憎々し気に呟く。
学園にも王族の間諜は存在している。定期的な連絡はどうも芳しくなさそうだった。
「ああ、兄さん。そんなに不機嫌な顔をしたら、眉間のしわが取れなくなってしまうわ」
「うるさい」
「失礼。そうね。似非王女の周りには人が集まってきている、それは事実よ。四聖剣も、有象無象も含めて、多くが彼女の味方になりかけているとか。今回の四聖剣は王家の息があまりかけられていないから辛いところよね。それに、四聖剣の模倣をできる霊装を持つ男もそちら側だとか」
「……では、武力行使も難しいではないか」
「犬が敗北したことによって、学園での求心力はあちらに行ったということよ。武力行使は無理。今学園にいる霊装使いは、ほとんどが敵でしょうね」
「……」
「ああ、兄さん。そんな風に黙り込まないで。貴方の唯一の美点である克己心がなくなってしまうわ」
「おまえは私の味方なのかどうなんだ」
「絶対の味方よ」
プリンツは即答する。
窓枠から降りると、宵闇の中艶やかに笑う。
「決めたじゃない。どちらかが王になっても恨みっこなしだって。貴方は王になるのが存在証明。私は貴方を王にするのが存在証明。一蓮托生じゃない。貴方が死ぬときが、私の死ぬとき。貴方が王だからこそ、私はここにいる証明ができるのよ」
だから、私に任せて。
プリンツは嗤う。
「貴方は椅子にふんぞり返っていればいい。汚名を被るのは私の仕事」
◇
俺はただ、目の前で手紙が破られているのを見ている。
花弁のように散っていく用紙。終わり行く春の訪れ。さよなら儚き一つの想い。
「なあに哀しそうに見つめてるのよ。私がいるんだから、こんなものいらないでしょう」
マリーは嘆息して、机の上に散らばった用紙を集めるとそれをゴミ箱の中に捨ててしまった。
「いやあ、盛況だねえ」
アイビーはにこにこ。このところ傷の方も癒えてきて、全体的に快復傾向。それ自体は喜ばしいことなのだが、スカビオサの視線には注意が必要だ。快復したらしたで逃げられないように足くらいは折っておこうとか言ってくるかもしれない。
「リンクはモテるなあ。最近手紙とかもらうことが増えてきたけど、皆がリンクの魅力に気づき始めたんだよ。やっぱりカッコいいもんね」
「だったら読むくらいは許してくれよ。おまえ、一番に手紙を引き裂く癖にいい笑顔してるよな」
手紙を見ると中身を見ずにも切り裂くくせに。
どの口がモテて嬉しいみたいな態度をとってるんだ。
「ええ? そうだっけ?」
明後日の方向を向いて、すっとぼけ。
「なんでリンク様がこんなことになるのでしょうか。普段の生活では死んだ目をしていて、猫背で歩いていて、愛想も良くはないのに。やっぱり勝利した結果というのはすごいですわね。人の評価を一変させますわ」
「冷静な分析どうも」
「上辺だけを切り取る人はどうかと思いますわ。すわん」
シレネもシレネで教室の外から中を覗く下級生に牽制を送っている。
名実ともに学園最強の存在になった俺に対して、世間は優しかった。いや、元々優しかった世間が、ようやくその姿を見せてくれたのかもしれない。そう、世界はこんなにもうつくしい。俺のような陰に生きる人間にとっては、いささか眩しすぎるくらいだ。
まあそれも、三本の大木がしっかりと光を遮ってくれるわけだけど。それぞれの幹が逞しすぎて、光が見えないんだが。
レドは三人に囲まれる俺を見て口の端を挙げた。
「良かったな、リンク。人生で三度あると言われてるモテ期が一度に押し寄せてきてるぞ」
「分割はないんですか」
「ないな。ここがおまえの人生のピークだ。そして、終わりだ」
「悔しいです」
「嘘つけ。満更でもないくせに」
そりゃそうだ。モテて嬉しくないわけがない。
しかし、調子に乗ってはいるが、別に俺は不特定多数にもてたいわけじゃない。八股の大蛇と呼ばれるプレイボーイを気取りたいわけでもないんだ。
とか言ったところで、現状を見るに説得力もないか。
大人しく日々を過ごしていきましょう。
◇
久々に一人で下校となった。最近は誰かといるのが基本になっていたからこういうのも久々だ。
寮までの道を歩いていく。近づいてきた寮を見上げると、一部屋だけ、壁につぎはぎの木材が張られている部屋があった。
俺の部屋だ。せっかくの豪奢な造りが台無しなその部屋は、隙間風が入り込んできて部屋の中なのに布団が手放せない。
そこに帰るのも、少しばかり憂鬱だ。俺がやったことなんだけどね。
そんな部屋を茫然と眺めている女子生徒がいた。
振り返る。俺と目が合う。
「あれはなんですか?」
指さす先は、俺の部屋。つぎはぎだらけの壁。
この道を通ったら誰でも目につくし、そりゃ気になるよな。
「なんか喧嘩があったみたいだぞ。霊装の暴発が起きたとかなんとか。最近ようやく壁が張られて安心したって部屋の主が言ってた」
俺の部屋なんだけどね。
「ああ、可哀想。それではあそこの部屋の人は毎晩、隙間風に吹かれてしまっているのですね。大変そうです」
ほう、と息をつく少女。
絵になる仕草だった。本人が美人なのもあって、絵画のように映る。
俺がこの学園内で初めて見る少女。つまりは、同級生ではない。下級生だろうか。あとでハナズオウに聞いてみよう。
「失礼ながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか。貴方はリンクさんですか? 最近、プリムラ様に勝ったという」
「おいおいなんだ、俺を知ってるのか。有名人は辛いぜ」
「この場の全員が知っていますよ。ふふ。噂に違わない雰囲気を有していますね」
花が咲くように笑う少女。
彼女は恭しく首を垂れた。
「私はスイレン。以後お見知りおきを、リンクさん」
見目麗しい少女。
俺もここまで来てしまった。見ず知らずの美人に熱っぽい視線を向けられるくらいには、栄光の階段を上り詰めてしまった。
やっかまれないように気を付けよう。
「ふふ。シレネ様やマリー様に見つかると大変でしょうし、ここでお暇させていただきます。またお会いしましょう」
スイレンは背を向けて去っていく。
姿勢の良い、綺麗な歩き方だった。