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93. 贖罪と












 ――私は、どうしたいんだ。


 考えのまとまらない中、隣でマーガレットが動いた。

 マーガレットはアイビーの腹部に蹴り込んだ。鈍い音がして、アイビーの口から唾液が飛んだ。


「……貴方の言いたいことはわかりました」

「おまえのやりたいこともな」


 マーガレットは結局、憎悪で動いているだけだった。魔王に良い様にされたのが気に食わなく、永遠の檻の中殺され続けることに絶望して、ただただ自分の鬱憤を晴らすだけの存在になっている。


「そうですよ、貴方はもっと苦しまないといけません。苦しんで、苦しんで、でも死ねない状況に陥ればいいんです。私たちみたいに、地獄の苦しみを受けるべきなんです」


 壊れた玩具のように、マーガレットはアイビーを蹴り続けた。


「おまえのせいだおまえせいだおまえのせいだおまえせいだおまえのせいだおまえせいだおまえのせいだおまえせいだおまえのせいだおまえせいだおまえのせいだおまえせいだ!! 

 償え! 償え! 償え! おまえのせいで――」


 そこで言葉が途切れる。

 一切反攻しないアイビーを見下ろして、


「あれ、こいつのせいで、誰が、何だったんだっけ……」


 無表情で、一言、呟いた。

 スカビオサは血の気が引くのを感じた。スカビオサよりも早く、リンクが口を開いていた。


「こいつを恨むのをやめるな。諦めるな。こいつは人類を何度も滅亡に追い込んでいる化け物だ。決して許されるわけじゃない。そういった過去の記憶を持っていて、こいつの悪行を理解している俺たちがこいつを断罪しないといけない」

「そう、そうでした。こいつは、人類の敵でした。だから償うべきなんです」

「同情なんかするんじゃないぞ」

「わかっていますよ。誰に言ってるんですか」


「だが、こんな状態のこいつでも、死んだら意味がない。次に逃げられてしまう。こいつをこのまま飼い殺すことが重要だ。意味はわかるな?」

「……そうですね。これ以上やったら死んでしまいますからね。それは、よろしくないです。死んで逃げるなんて、そんなこと赦しません」


 マーガレットは頭を押さえながら引き下がった。とりあえず彼女の激昂は収まることになったようだ。


 しかし、スカビオサはまだ引き下がれない。


「アイビーが瀕死なのはわかった。これなら確かに、理屈と感情の面でも納得はできる。でも、こんな状態でも霊装は使用できる。移動するナイフを、例えばそこの穴から外に放り投げられたら、結局逃げられる。怪我だって時間が経てばどうせ治るしね」

「俺がその辺を考慮しないわけないだろ」


 リンクの頭の上に何かが乗った。

 その場にいる全員が息を飲んだ。


 霊装――ティラクラウン。王の頭上でのみ存在を認められた、絶対の霊装だった。


「アイビー。”立ち上がって、犬の鳴きまねをしろ”」


 アイビーはよろよろと起き上がって、「わん」と鳴いた。霊装の効力が切れると、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。


「アイビー。


”俺の言う事を聞け”

 ”俺たちに協力しろ”

”霊装は決して使用するな”。

 ”俺から逃げるな”。

”自殺して逃げるな”。

 ”罪から逃げるな”。

”このトキノオリから俺たちを解放しろ”」


「……」

「”返事をしろ”」

「はい……」


 リンクは一連の流れを終えると、笑顔でこちらに振り返ってきた。


「どうだ? これで納得できたか?」


 誰も何も言葉を発しなかった。

 視線はそれぞれ、リンクの頭の上の霊装、言う通りにするアイビー、楽しそうに笑うリンクへと移り行く。


「こいつはもう、俺からは逃げられない。そういう命令を出している。だから、ここで飼い殺すんだ。アイビーという器の中で、魔王は終わりだ」

「……じゃあ、もう、これで終わりってことですか? もう魔王は何もできないから、私たちは魔物に襲われることもない。このトキノオリも終わって、私たちはこれ以上死ぬこともなく、時を進めることができるんですか?」


 マーガレットが笑顔を見せる。

 他の面々もほっと息をつく。


 のを、



「ばあああああか」



 他ならぬアイビーが声を上げて遮った。口の中も切れているのだろう、発音は覚束ないもの。満身創痍の中、顔を上げて引きつった笑みを見せる。


「私がこんな状態でも、魔物の侵攻は止まらないよ。この世の全ての魔物がこの国目掛けて押し寄せる。それは覆ることのない確定事項なんだ。ああ、楽しみだねえ。ここにいる全員、食い殺してやる。私をこんなにしたこと、後悔させてやる」

「アイビー。”魔物の侵攻を止めろ”」

「ムリダヨ。もう命令を出しちゃったもん。私が何を言おうが、もう止められません。いつもと同じタイミングで、人類を滅ぼしてやる。ははは!」


「――こ、こいつっ!」


 マーガレットが憤怒の表情でとびかかりそうになるのを、スカビオサは羽交い絞めにして止めた。


「馬鹿。これ以上やったら死ぬ」

「こ、こここ、殺してやる!」

「さっき殺さないと言ったばかりでしょう。それこそこいつの思うつぼ。こいつは殺されたいんだから」

「……ぐうう」


 唸り声を残してマーガレットは大人しくなった。

 言いたいことを言い終えると蹲ったアイビーを見つめて、リンクは舌を打った。


「くそ、魔物への命令はここにいても出せるのかよ……。魔王はここで押さえた。けれど、魔物の侵攻は止まらないってことか。詰めが甘かったな」

「あ、貴方、肝心なところで何をしてるんですか」


「悪かった。だけど、魔物の頭は押さえたんだ。統率の無い魔物なら、今から準備すればなんとかできる。マーガレット。聖女の仕事は今しばらく続けてもらうぞ。魔物の侵攻をなんとか押さえないと、せっかく魔王を止めたのに人類が滅ぼされたら敵わない」

「わかりました。まあ、魔王の脅威がなくなっただけで大分違うでしょう。褒めてあげます」

「どうも」

「では、貴方はしっかりこの魔王を押さえておいてくださいよ」


 ふん、と鼻を鳴らす。

 リンクの目はスカビオサに移る。


「スカビオサも同様だ。魔王の目的は魔物をすべて殺しきることで無力化できる。そうなれば、このトキノオリだって意味をなさないだろう。今回ですべての決着をつけるぞ」

「……わかった」


 スカビオサは首を縦に振った。

 魔王の無力化には成功した。アイビーを見ても、大人しく転がっているだけで反抗する意志は見せていないように思える。先ほどの魔物のけしかけは、最後の足掻きというわけだろうか。


「俺はこいつから絞れるだけの情報を得る。絶対に逃がしはしない。そしてマリーを王にして、魔物討伐の号令をかけてもらう。全力で魔物を狩り尽くす。そうすることで、こいつの鼻を明かしてやる」


 リンクはアイビーの首に足を押し当てた。本気で踏みつぶせば、細い首は簡単に折れるだろう。生殺与奪の権利はこちらにあった。


「魔王の思惑も、ここまでだ」


 それを聞いてもなお、魔王は笑う。

 劣勢のはずなのに、楽しそうに笑うのだ。


「うへへ。――殺せるものなら、殺してみなよ。どうせ人類は魔物に殺され尽くす」

「馬鹿にしないでください。私たちが魔物くらい、殺しきって見せます。貴方の思い通りにはなりません」


 断言するマーガレット。


「そう決まったら、こちら側の陣営をより強固にしないといけませんね」


 マーガレットは再び不遜に鼻を鳴らすと、ずかずかと足を鳴らして退出した。と思ったら廊下から顔を見せて、


「また情報の交換をしましょう。スカビオサ、リンク、貴方方二人はいつでも教会に来ていいですからね。一丸となって魔物を殺しましょう」


 腕まくりをして去っていった。彼女の後も五人の霊装使いも追っていく。

 その背中を見送って、リンクは肩を竦めた。


「嵐のような女だな」

「途中、危なかったけど」

「ああ。だけど持ち直してくれたな」


 マーガレットの目的は上手い具合にすり替えられた。あの反応を見ていても、精力的に動いてくれるだろう。

 魔王の無力化、脅威の一本化。見える未来が明瞭化された。


 だけどスカビオサは、まだ、頭が痛い。


「ねえ、リンク。一つだけ、魔王に聞かせて。嘘をつかないと約束させて」

「何を聞くつもりだ?」

「――私のことを、どう思っているか」


 自分は何を聞いているのだろう。

 聞いたってどうしようもならないのに。どうにもならないのに。過去への贖罪にも、未来への糧にもなりはしないのに。


 でも、きっと、頭痛は、この答えを聞かないとなくなってはくれないだろう。


「アイビー、答えてやれ」

「……いやだ」

「答えろ」


 アイビーは少しの逡巡の後、


「スカビオサのことは、――大嫌いだったよ」

「そう」


 スカビオサは息を吐くと、アイビーの腹部を蹴り飛ばした。


「……すっきりした」


 部屋から出る。寮の外に出る。歩いていく。

 嗚咽が漏れた。涙が溢れた。足が止まった。


 頭痛は収まった。

 けれど、喪失感は拭えなかった。

 もしかして、なんて意味のない期待をしていた。何か事情があったんじゃないか、って想ったりもした。


 嘘でも、嘘と言ってほしかったんだ。



 ◇



「いいのか?」


 スカビオサが涙目のままに退出したのを見て、俺はアイビーに尋ねた。


「いいんだよ。私と彼女の関係はとっくに終わってる。今更友達面されても困る」


 鼻血を拭って、アイビーが起き上がる。腹部は何度も蹴られたからか、真っ赤になっている。顔だってぼこぼこだ。左の頬は大きく膨れ上がり、目が半分しか開いていない。身体に力が入らないのか、起き上がるのにも時間がかかっていた。


「あいつは優しいな。優しすぎる」


 スカビオサ・エクスカリバー。無表情で不愛想で無遠慮で。

 それはきっと、彼女の仮面なのだろう。この地獄のような世界、仮面を被っていかないと中身の自分が壊れてしまうから。

 アイビーを殺そうとするマーガレットを止めていたのも、俺に協力すると言ってくれたのも、彼女なりの思いがあったのかもしれない。なんていうのは、少し踏み込み過ぎか。


「私は彼女に恨まれないといけないんだ。それが私の贖罪で、やるべきことだから」


 アイビーは瞳を伏せた。

 再度顔を上げた時、その目は死んではいなかった。むしろ、より強い輝きを得たように見えた。


「おまえも優しいよ。だからあまり背負い込むな」

「いやだ。この罪だけは私のものだから。あげないよ」

「そうかい。何にせよ、お疲れさまだな」


 俺は会話の中で一言も挟んでこなかった男に視線を移した。


「レドは何も言わなくて良かったのか? 正直、マーガレットの役回りはおまえがやると思ってた。俺に突っかかってくるのを期待してたんだけど」


 絶対こいつは怒る。そして俺はマーガレットに言ったような文言を繰り返す。客観的視点から、アイビーの処遇を諭すつもりだった。だから何も伝えずにいたのに。


「何も言わなかったのが俺の答えだ」

「大人になったな」

「だけど一つだけ、いいか」

「何だよ」


 レドは大きく拳を振りかぶると、そのまま俺の顔面に叩き込んできた。

 ぶざまに床を転がる俺。起き上がってレドを見遣ると、柳眉を逆立てていた。


「ここまでしなくても良かっただろうがよ。アイビーの傷、どれも本物じゃねえか。てめえ、やりやがったな」

「そうでもしないと欺けないだろ。あいつら二人にはアイビーに憎しみを向けたまま、アイビーを生かすという選択肢をとってもらう必要があった。無傷で平常運転のアイビーを用意したら、腕の二本や、目玉の二つは奪われていただろうよ。これが最小限の被害だ」

「もっと軽くできただろ」


「同じことを言わせるな。これが最小限の被害なんだよ。全部、そのうち治る怪我だ。これからの生活には何の支障もない。腕とか足とか、失くしたら元に戻らない他の部位を差し出すよう言われないように、問題ないところを最大限に痛めつけただけだ」

「……わかんねえよ。なんでおまえはそこまでできるんだよ。アイビーのこと、好きじゃねえのかよ」

「好きだよ。愛してる」


 だけどそれは決して、彼女を傷つけないという意味ではない。

 無傷で守る。それができたら俺だってそうする。できないのなら、最低限の消費で、最大限の利益をとるように動くべきだ。


 これが理屈と感情の折り合いの結果。打算。

 畢竟、二人はある程度の鬱憤を晴らして、標的を魔物の方に向けてくれた。求めていた結果としては満点だ。


 でもきっと、レドには理解できないんだろう。

 理解できない人はいるんだろう。


「わかんねえよ。好きなら傷一つ残させたくないんじゃないのかよ。大切に大切にしたいんじゃないのかよ……」

「好きだから、傍にいてほしいんだろ。そのためになら、俺は傷つけることも厭わない。それともおまえなら、無傷で切り抜けられる方法を考えられたのか?」


 優先順位の違い。

 そして、実現可能性の違い。


「……」


 レドは押し黙る。

 喧嘩をしたいわけじゃないんだけど、理解してもらうのは難しそうだった。


 沈黙の降りた部屋の中で、アイビーの明るい声が響いた。


「違うよ、レド。リンクはね、私のことが好きだから傷つけてくれるんだよ。私のしたいことをくみ取ってくれたから、本気で虐めてくれたんだよ」

「はあ?」


 首を捻るレドに、アイビーは満面の笑みで続ける。


「――うへへ。こんなんなんだけど、今、すっごく気分がいいの。私は罰されるべき存在なんだよ。皆を傷つけて、今も傷つけて、多くの人の死を促して。傷なく生きていくのは許されないくらいの、大罪人なんだ。だからね、蹴られるたびに、殴られるたびに、嬉しくなるんだ。痛みが濃くなるたびに私が赦されていく気がして、生きて歩いてリンクと一緒に笑っていいんだ、って思えるんだ」

「……」


 アイビーは恍惚した顔。

 レドは茫然とした顔。


「私はこれから、リンクに飼われるの。名実ともにリンクの所有物になるの。だって私、魔王だもん。一人で外なんか歩いちゃいけないよ。首輪をつけられてずっと一緒にいて、離れることもないんだよ。リンクは好きな時に蹴っても殴ってもいいからね。むしろ、私をもっと虐げて。なんでもしていいんだよ」


 アイビーは笑顔で俺に身を寄せてきた。

 正直、少し怖いんだけど。


 彼女もきっと、このトキノオリで摩耗して、ずれてしまったのだろう。

 やるべきことは決まっているのにそれはやりたいことではなくて、罪悪感の中に閉じ込められて、押しつぶされて、贖罪こそが自分の仕事だと勘違いしている。こいつの仕事は人類を破滅から救う事なのに。


 だけど正論ばかりが人を救うとも限らないのだ。


「なんで俺が好き好んでおまえを殴るんだよ。そういう性癖はない。スカビオサやマーガレットが近くにいるときは今日みたいに演じるかもしれないけど」

「じゃあ、教会に行くときは私も連れていってね。ちゃんと調教してるところ、二人に見せてあげないとね」


 楽しそう。

 嬉しそう。

 そんな顔をしてくれるのなら、やった甲斐がありましたよ。


 これでトキノオリに閉じ込められている”三人”の状況を整理し、それぞれをあるべきところに配置できたわけだ。


 ねじの外れた子たち。

 時の中で損耗していく人間たち。


 マーガレットだって危なかった。自覚があるのかわからないが、アイビーを断罪する理由を見失いそうになっていた。アイビーへの激昂のみで身を支えている彼女は、それを見失うと動かなくなる可能性が高い。


 スカビオサも。冷静そうに見えて、今日だって顔色がずっと悪かった。

 おそらく、アイビーの処遇に相当気を揉んでいたのだろう。もしかしたら俺の肩を持ってくれたのだって、アイビーに対してまだ情があったからかもしれない。万が一のアイビーが悪ではない可能性に賭けていたのかもしれない。


「……切ないな」


 誰もが満足いく人生を送れれば、それが最上だろう。


 けれど何かを成し遂げるためには、何かを失わなければならない。

 誰かを幸せにしたかったら、誰かの不幸せを享受しないといけない。


 人生は常に天秤の傾きを要求される。

 俺はこのトキノオリを乗り越えるために、二人を利用する。二人の憎悪すら、利用して見せる。アイビーの贖罪、怪我だって、目的達成に必要な材料だ。


 いまだ眉を寄せたままのレドに、俺は笑顔を向けた。

 すこしだけ、殴られたところが痛かった。


「安心しろよ。おまえの気持ちもわかる。俺はな、人の気持ちを利用してる悪だ。殴られたって文句も言えないクズ野郎だ。俺こそが、諸悪の根源なのかもしれない。だからきっと、地獄に落ちるよ」


 色んな人の思いを踏みにじって生きる怪物。

 人の感情をいじくりまわす劣悪な化け物。


 こんな男の結末は、最初から決まっている。


「最後には罰がやってくる。楽に死ぬことはないだろう。だから安心して、俺に協力してくれ」

「……馬鹿が」


 レドは嘆息したけれど、もう何も言ってはこなかった。

 

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