91.
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リンクが部屋から出ていったのを確認して、アイビーは窓を閉めた。
その部屋は残された二人だけの部屋となる。
「じゃあ、私も退出しようかな。このままこの部屋に長居してもしょうがないし」
「駄目ですよ。貴方は病み上がりではないですか。少なくとも今日のところは泊まっていってくださいな。ずっといてくれてもいいんですのよ。私も長らく一人部屋で寂しいんですの」
「いいなあ、四聖剣は。色んなところで特典が得られて」
「しがらみばかりですわ。この部屋は檻の様なもの。自由と束縛はまったく同じものなんですわ」
「そうなんだ。大変だね。……それで、いつ、その剣を下ろしてくれるの?」
アイビーはゆっくりと振り返る。
黒剣の切っ先が眼前にあった。
「貴方が私といくつかお約束をしてくれれば、いつでも」
「約束? なんでもは約束できないよ。私は多くの記憶を持っているけど、本体はただの女の子だし、約束できる範囲は限られる」
「大丈夫ですわ。子供だってできる、簡単なお約束です。指切りげんまんしましょ」
シレネは楽しそうに小指を見せつけてきた。
――リンクの嘘つき。やっぱり、厄介じゃん。
アイビーはため息をつきたくなる気持ちをなんとか抑え込んだ。
シレネ・アロンダイトはいつの時代だって、曲者だった。物事の本質を見抜く目を持っていて、同時に、相手を泳がせる力量も持っている。人を手のひらで転がす才能に長けている。
「お約束は二つ。アイビーちゃんは守れるかしら」
「どうだろ、私はお子ちゃまだからね。まずは言ってみてよ。話はそれからだよ」
「そうですわね。まず一つ目ですが、そのために一つ、質問をさせてください。貴方は何を一番に考えていますか?」
「……また、嫌な質問をしてくるね」
正直、答えづらかった。
抽象的な質問ではあったが、シレネの言いたいことがわかっているから殊更に、この質問の答えを口に出したくはない。
「安心してくださいな。どう答えても、今日この剣が振り下ろされることはありません。これは貴方ではなく、私のこれからのための剣なのです。貴方の答えを聞いて、今後、私が貴方を斬れるかどうか。どれくらい迷いそうか、どれくらい簡単に動くのか、それを確認するためだけの置物ですわ」
「物騒だなあ」
「私はリンク様ほど、貴方を信用していない」
シレネの目が細められる。
向けられるのは、敵意だった。
「話を聞く限り、貴方がリンク様を利用している可能性は捨てきれないですわ。人類のためとはいえ、彼をぼろ雑巾のように使い捨てる心づもりなら私は黙っていませんよ」
自分にリンクを操る力量はないのに、シレネはそこを勘違いしている。
「参考までに、私の一番を答える必要はありますか?」
「いらない。シレネの想いはよくわかってるよ。変わらないね」
「ええ。徹頭徹尾、私は変わりません。私はずっと、シレネとして生きていく。そしてシレネは、愛する人を一番に考えている。リンク様を不幸にするのであれば、誰であろうとどんな理由であろうと、叩き斬る覚悟を持っていますわ」
アイビーは一直線に向けられて、ぴくりとも動かない剣に視線を移した。
黒い刀身に、自分の瞳が映った。
答えに迷う、揺れる瞳であった。
「貴方はどっち?」
問われ、アイビーは答えられなかった。
世界か、
彼か。
口は一切動かない。
頭は働いてくれない。
聖女の立場だけなら、簡単なのに。
アイビーだけなら、簡単なのに。
「私は――」
「……そんな顔をされては、困りますわ」
シレネはアロンダイトを消失させた。やれやれと首を横に振って、
「人類と彼、二つが天秤に乗って吊り合うくらいには想っているんですね。魔王だと白状する前に、私にリンク様を助けるよう助言をくれたくらいですものね。だったら、私はこれ以上何も言いません」
「……はは。私にはリンクしかいないんだもん。リンクだけが、私の全てを知ってなお、手助けをしてくれる。リンクがいなくなったら、すべてが終わりだよ。私にとっては、世界もリンクも変わらない」
リンクに対して、何で助けてくれるのかと問いかければ、彼はきっと人類のためだと言う。次いで、アイビーが俺の話を笑わずに聞いてくれたから、と言ってくれるだろう。
でも、逆なんだ。
リンクはきっと、私の話を聞いてくれる。そう思えたから、今まで一緒にいたんだ。だから何度も死ぬ機会があったのに、生にしがみついた。魔王を演じるのにハナズオウの能力の方が都合がいいのに、アイビーの身体に留まってしまった。彼が手を繋いでくれるのが、身体に触れてくれるのが、何よりも愛おしくて。リンクによって鎧が剥がされていくのは、気持ちがいいくらいだった。
人類を救ってくれる存在と、打算で傍にいたい。
私を愛してくれる男の子と、本心で隣でいたい。
どっちだって、嘘で、どっちだって、本当なのだ。
「私はきっと、リンクがいないと何もできない」
自分を支えているのは、たった一人の男の子だった。
だから、人類と同じくらい、彼も守りたい。
「貴方の気持ちがわかったところで、約束の一つ目をお伝えしましょう。
貴方は二つを天秤に乗せたままにしていてください。
そのまま、世界も彼も大事に扱ってください。傾けるのは貴方の仕事ではありません。無理矢理に傾ければ貴方の方が壊れてしまいそうに見えます」
「的確な助言だね。どっちが長く生きてるのかわからないや」
「生きた年数で優劣が決まるのなら、こんなことにはなっていないでしょう」
「あはは。痛いなあ」
アイビーは肩を竦めた。
少しだけ、気持ちが楽になった。リンクが言うように、シレネとリンクは似ているのかもしれない。
言葉は鋭くても、自分のことを慮ってくれていることはわかる。
「二つ目は?」
「……これは保険ですわ。だから、ここだけの秘密にしておいてくださいね。リンク様にも秘密でお願いいたします」
アイビーは訝しい顔になりながらも、頷いた。
シレネは息を吐いて、
「――今回失敗したら、私もトキノオリに招いてください」
「……」アイビーは答えに一拍置いて、「話を聞いてた? 貴方が思ってるほど単純な話じゃないよ。この能力は、人類が救済されるまで続く。ずっとずっと、時間の牢獄の中に閉じ込められるんだよ」
「わかっていますわ。しかし、今の私がいた方が物事は簡単に進むでしょう? リンク様との連携だって取りやすいですわ」
「それはそうだけど」
今のシレネであれば魔物討伐に尽力してくれる。リンクを介せばという条件付きだが、ある程度の無理も通してくれるだろう。
「今回失敗したら、人類が滅亡する前に私を探してください。私はきっと死ぬことはないでしょうから、そこで貴方の霊装を使ってください」
「後悔はしない?」
「またリンク様に救われる前の私に戻るというのなら、後悔などありもしません。檻の中でどうにもならなくなったとしても、思い人と未来永劫一緒にいられるのです。最高ではありませんか」
「……」
「ふふ。流石に冗談ですわ。有限だからこそ、一緒にいる時間に価値があるのです。それに、貴方が気に病むことはありません。私が勝手に決めたことです。貴方のためにも私のためにも、そうするのが最適解。わかってくださる?」
「シレネが望むのなら。でも当然、最後の手段だからね。今回で終わらせる。その認識だけはずれないでよ」
「わかってますわ。好機はそう何度も訪れない。現状にたどり着くのだって、次もうまくいくかはわかりません。今回に全力を注ぎましょう」
シレネが手を差し出してきたので、アイビーはそれを握り返した。
暖かい手だった。