82. ■■■■■■
おかしい。
おかしいおかしい。
おかしいおかしいおかしい。
何かが、おかしい。
脳が動いていない。さっきまであれほどまでに回転していた脳が、今はぴたりと動きを止めていた。
さっきの会話は俺の聞き間違いだろうか。スカビオサが何の気なしに答えた言葉。彼女にとっては意味のない言葉であっても、俺にとっては大きく意味を持つ言葉。
聞き間違いだ。
いや、きっとそうだ。
俺も疲れているんだ。頑張ったもんな。柄にもなく色んな根回しをしたり、スカビオサと死闘を繰り広げたり、らしくもない尽力を繰り返してきた。よくやったよ。
少なくとも今は、スカビオサとマーガレットと協力することができたことを喜ぶべき。一歩一歩、前に前進しているんだ。そうだろう?
「おう、リンク。今日も外で遊んできたのか? 気楽でいいよな」
声をかけられて、びくりと肩を揺らした。
自分でも気が付かない間に、学園まで戻ってきていたらしい。闇が深くなってきた夕暮れの中、寮の玄関口で、レドが吃驚した顔で目の前に立っていた。
「お、そんなにビビらなくてもいいだろ。おまえらしくもないな」
「ああ、まあ、そうだな」
「張り合いがねえな。どうした? またマーガレットのやつが変なこと言ってたのか?」
「いや、違う……んだと思う」
返答もぎこちない。
レドは事情のほとんどを知っている。相談するべきか。いや、俺だって確証がないままに話したって、混乱させるだけだ。
「なんでも、ない」
「……病気だな。アイに診て貰えよ」
ぞわりと、不明瞭な何かが胸を撫でた。
視認したくない。
何も感じたくない。
それなのに、悪寒は俺を無造作に触ってくる。
「アイビーは、部屋にいるのか?」
「ああ。って、アイビーって呼ぶなよ。俺はよくそれで説教されるんだからな」
「わかってる」
俺はレドの脇を通って、歩みを進めた。
身体が鉛のように重い。
歩きたくない、進みたくない。
目の前に訪れるであろう現実を、見たくない。
俺が、救ったんだ。
俺が、助けたんだ。
救える命があるのならと、俺が過去に戻った意味がここにあると、俺自身に価値があると、勘違いして。
偽善で。
ただ、自分が救われたかったから、救ったんだ。
目の前の散ろうとしてる命を、”俺が”手を差し伸べて、
俺が、俺が、俺が。
正しいと思ってた。
間違いないと思ってた。
でも、でも、でも。
あの笑顔は、
あの楽しさは、
あの、時間は、
何だったんだ。
扉の前に立つ。扉に手をかける。中々開かなかった。ここまで重い扉があっただろうか。
開きたくなんかない。
けれど扉は簡単に開いていって。
自分でも何を考えているのか、どういう判断を下しているのか、何もわかっていない状態で。
俺の意志とは反対に、止まることなく。
ギギギ。
そんな、誰の悲鳴かもわからないような音を立てて、扉が開いていく。
「あ、おかえり!」
いつものように、元気な声が返ってくる。
いつものように、元気な笑顔が出迎える。
でも、
しかし、
残念ながら、
これは、
きっと、
多分、
もしかしたら、
恐らく、
きっと、
絶対、
まちがいなく、
「どうしたの、リンク」
「……」
口が、開かなかった。
乾ききった喉では、例え口が開いたところで大した言葉を発することはできなかっただろうが。
「何? そんな青い顔して、肥溜めにでも落ちたの?」
「……、アイビー、おまえは……」
「――ああ、そう」
碌に言葉一つ伝えられない俺の顔を見て、アイビーは目を伏せた。そして、顔を上げた。その顔はひどく理知的で、嗜虐的だった。
答え合わせなんかしたくないのに。
その先の真実なんか見たくもないのに。
答えは俺の意志に反して、目の前に現れる。
「そうなんだ、そういうことなんだね、リンク」
「一個でいい、アイビー。答えてくれ」
俺は重い口を開いた。
勘違いなんてないことはわかっていて。
どんなに醜くてもそれは真実であって。
認めなくなくても、目の前に存在して。
それでも、俺の口は動いてしまう。ぐちゃぐちゃな感情に答えなんか出せないまま、たった一つの真実を掴もうとしてしまう。
馬鹿だな。
「おまえが、魔王なのか」
アイビーは笑った。
馬鹿にするように。
冷やかすように。
軽んじるように。
披露するように。
嬉しそうに。
楽しそうに。
無邪気に。
無暗に。
無為に。
■に。
「――『せいぜい、絶望して恐怖して悲しんで、また、この場所でその姿を私に見せておくれ』」
それは一言一句違わない、俺に当てられた魔王からの最後の呪詛だった。
俺がこの言葉を誰にも言っていない以上、何よりも雄弁な、自己紹介であった。
「そうだよ。私が魔王だよ」