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65.













 この宿には天然の温泉が備え付けられているということで、食事の前にとりあえず潮風でべたついた身体を洗い流そうという話になった。


 こちらは流石に男女別。レドとザクロと三人で宿から外に出る扉を開けると、岩に囲まれ湯気を出す露天の温泉が待っていた。俺たち以外に客はいない様子。陽の光を受けている水面を見るだけで名湯な予感がする。


「っしゃ! 一番乗り!」


 レドが駆けだして、温泉に飛び込んだ。


「うわ、レド君……」

「あいつ、子供っぽいところあるよな」


 ため息をつきながら、俺もレドに続いた。思いっきり湯の中に飛び込むと、俺の身体に押し出されて湯が撥ねる。近くにいたレドの顔面にお湯がかかった。


「あち!」

「はっは! 勝手に先に入るからだ」

「こういうのは早い者勝ちなんだよ」

「だからこそ、早い者は狙われるんだ」


 不服そうな顔のレドに再度湯をかける。かけられ返された。熱湯というほどでもないが、熱いのは熱い。


「二人とも、子供だよねえ」


 俺とレドのやり取りの間、端っこの方で静かに湯に入っていたザクロは、「ふいい」と感嘆のため息を吐いた。


「いい湯だねえ。この前に命がけの戦いをしたのが嘘みたい。身体中に染みわたるう」


 レドがその平和な顔に湯をかけた。


「あっつ!」

「大人ぶんなよ。おまえだってまだまだがきんちょの癖に」

「別にぶってるわけじゃ……」

「レドの言う通りだ。裸の付き合いにおいて、裸の言葉以外は意味を持たない。衣服も着ない立場で嘘を並べて何になる。等身大の自分でいろ。レドはそう言ってるんだ」

「そんな重々しい話なの?」

「ここにはおまえを縛るものはない。自分を開放するんだ」


 俺が真面目な顔で訴え変えると、ザクロは息を飲んだ。


「……本当はちょっと、こういうところで泳いでみたかったり」

「素晴らしい夢じゃないか。ここにいる誰が止めるって言うんだ。なあ、レド」

「ああ。俺だって泳いでみてえ。どうせなら競争するか。最初にあの岩までたどり着いた方が勝ちな」


 行くぜ、と声をかけて、三人とも構える。

 抜け出したのはザクロだった。魚もびっくりするほど豪快に泳ぎ進め、岩に手を触れさせる。


「あっつう……。でも、やった! 僕が一番!」


 そして振り返って、残りの二人がスタート地点から動いていないことを知る。


「ザクロは子供だなあ」

「まったく、何をはしゃいでいるんだか」


 ザクロは顔を真っ赤に染めた。


「なんなんだよもう!」


「はっは! 澄ました顔してるからお仕置きだ」

「こういうときばっかり息があってるよね、二人とも」


 頬を膨らませて近づいてくると、脚で思いっきり俺たちにお湯をぶっかけてきた。


「僕は子供だからね。なんでもするよ」


 開き直りやがった。


「やったな!」


 喧嘩っ早いレドが手のひらに溜めた湯を勢いよくぶつける。ザクロは同様に応戦。泥仕合ならぬお湯試合になってきた時に、他の客が扉を開けて入ってきた。


「楽しそうですね」


 誰かと思えば、アステラだった。

 その顔を見た途端、レドの眉間が寄る。心底嫌そうな顔のまま、ザクロからの攻撃を顔面で受け止めていた。


「どうしたんだ?」

「一応、私の依頼で貴方たちを呼んだことにはなっていますからね。放っておくわけにもいかないでしょう。変なことをしていないか、お目付け役です」


 やれやれ、と肩を竦める。その割には口角は笑んでいる。


「俺たちのおかげで温泉旅行に参加できてるんだから、むしろ感謝してほしいな」

「良く言いますよ。うちの隊長が許可しなかったら面倒ごとになっていましたよ」

「エクセルはなんて?」

「正当な報酬だ、だそうです。先日の一件で勝利を勝ち取ったリンク君たちには、勝利の美酒に酔う権利があると言っていました。今回のこの旅行について、旅費、責任は持ってくれるということです」


 持つべきは後ろ盾。権力を持つ協力者だ。気に入られておいて良かった。

 それなら遠慮なく楽しませてもらおう。


「ホット、ヒート、そして、マーベラス! 中々に良い温泉宿ではないか」


 お目付け役はアステラだけではなかったらしい。次に顔を見せたのは、ハクガンだった。

 俺に斬られてまだそう日は経っていない。その筋肉質な裸体には、傷がしっかりと残っていた。シレネよりも生々しい。


「はは。貴方がそんな顔をするなんて珍しいですね」

「そうだ。アステラに言いたいことがあったんだ。俺たちのために護衛を用意してくれてありがとう。俺たちは絶対に不利な方に振り分けされるとわかってたから、ハクガンに話をしてくれたんだな」

「ええ。私が直接守っても良かったのですが、関係性を匂わせるのはあまりしたくなかったので。それに、ハクガンは上手くキーリさんたちの隊に潜り込んでくれていたのでね。何とか上手くいったみたいで良かったです」


「……重ねて、本当に重ねて、御礼を言っておくよ。ハクガンを選んでくれてありがとう。おかげで余計な一工程が増えたよ」

「おや。嫌味のような含みを感じますね」

「ハクガンの性格を良く考えてくれ」

「腕はありますから」


 腕は。含みを持たせるなよ。むしろ腕があったせいで苦戦したのだけど。

 ハクガンが良い結果を持ってくることはアステラも信頼しているのだろう。ただ、過程は俺と同じで全く信用していないようだ。


「やあやあ、久しぶりだね、我が主君」


 そんなハクガンは満面の笑みで近寄ってくる。顔をそちらに向けると、ウインクが返ってきた。


「どうも」

「どうしたんだい? やけにしおらしいじゃないか。あの時の胆力はどこに行ったというんだい」

「俺は元からこんなんですので」

「はっは。謙遜はよしてくれたまえ」


 俺の隣に腰を下ろす。

 豪快に背中を叩かれた。痛い。


「主君? 何の話ですか?」

「ああ、アステラ。僕はこの男についていこうと決めたのさ。退屈な僕の人生を豊かなものにしてくれると確信を得た」

「それはそれは……、ご愁傷様です」


 アステラのやつ、楽しんでやがる。

 まあ別に、邪魔をするつもりがないのなら、別にいいんだけど。

 なんだかんだ賑やかになってしまった男湯だった。



 ◆



 遠くの方で少年たちのはしゃぐ声がする。聞き覚えのある声は、鼓膜と共に心の琴線を揺らしてくる。

 レフは温泉の暖かさが自身に移っていくのを感じながら、うっすらと笑った。


「子供ね」


 隣で同じくその声を聴いていたマリーが口角を上げた。その顔は、レフと同じくどこか楽しそうでもあった。


「大変だったとか言ってたけど、あいつだって楽しんでるじゃない。誰かがごねてくれたおかげね」

「ふっふっふ。マリー様にはごね得という言葉を教えておきましょう。わがままは時に武器にもなるのです。面倒な人間だと思われれば、大抵の無理は通せます」

「面倒な人間だと思われていいの?」

「人を選びますけどね。私と一緒にいてくれる人は、きっと赦してくれる人たちです」


 レフが胸を張ると、マリーから呆れたような目が返ってくる。けれど、それは忌避したようなものではない。嫌うようでも、苦手なようでもなく、しょうがないこと言ってるわ、という、赦しを含んだ暖かい視線。

 レフはそれが嬉しかった。


「みんながいるから、阿呆みたいなわがままも言えるんです」


 今、心の底から笑えているのが、何よりも嬉しかった。

 傷ついていたというのも、嘘ではない。


『そいつに人質の価値はない。何も知らないのがその証拠だ』


 あの時、あの言葉をかけられた時、自分の存在価値を見失った。事実、自分は何もできなかった。”何もできない存在”になることが、唯一の正解だった。ただ黙って座り込んでいるべき、それがわからないほど馬鹿じゃない。

 でも、それがわかってしまったのも嫌で。いるだけで足を引っ張ってしまうのも怖くて。私はなんでここにいるんだろう、という考えが止まらなくて。

 そんなやつにこれから何ができるというのだろう。


 霊装使いになんか、本当はなりたくなかった。祖父が持っていた霊装は、継承する候補が他にもたくさんいた。父母も健在だし、兄弟も優秀だし、自分が受け取るはずがないと思っていた。むしろ彼らに引き継がれてくれと願ってもいた。


 現実は残酷で、選ばれたのはレフだった。


 霊装が継承者を選ぶ理屈はいまだ判然としていないが、嫌がらせのように感じた。何も一番欲しくない自分のところに来なくても良かったのに。家族全員が喜んでくれて、レフと険悪な関係にならなかったのが唯一の救いだろうか。

 霊装を継承したとしても、戦いたくなんかない。できるのなら、戦闘から離れて、静かに過ごしたい。普通の一市民として生きていたい。


 でもきっと、霊装使いという運命はそれを許さない。

 ショックを受けたのは、そういった運命に導かれている自分を知ったから。逃れられない流れの中に組み込まれてしまっていて、どうあがこうが戦いからは避けられないとわかったから。


 自分が霊装を持っている以上、また、同じようなことになる。

 戦いの渦に巻き込まれる。

 それが怖くて怖くて。逃げたくて、帰りたくて。

 本気で逃げようかとも思った。学園を退学しようと本気で思った。


 思いとどまったのは、いたから。暗い雰囲気をまき散らしても話しかけてくれる友達が。何度も気遣いの言葉をかけてくれる友人が。そういった”みんな”が自分にはいる。いてくれる。何よりもそれが嬉しくて。


 ――逃げた先にはきっといない、かけがえのない存在だということも、わかってる。


「マリー様は怖くありませんか?」


 マリーは首を傾げてから、何の話か理解して、「ああ」と頷いた。


「怖いわよ」

「……そうですよね。当事者ですもんね」

「そうよ。私を狙ってみんながやってくるの。人気者なのよ」


 楽しそうに言う様は、とても先日十五人の精鋭に襲われたとは思えない。今だって襲われないとも限らないのに。


「マリー様は、強いですね」

「あんただって強いわ」

「そんなことないですよ」

「あんたは私にはない強さを持ってる。シレネも、ライも、全員が強さを持ってるわ」

「そうですかね」


 戦いたくはない。

 でも、戦っている仲間たちと一緒にはいたい。

 この思いは、わがままの範疇に収まるのだろうか。

 自分は、周囲は、これをわがままだと赦してくれるのだろうか。

 マリーとレフに遅れて、シレネとライも温泉に入ってくる。


「元気になりましたか、レフさん」

「ええ、ありがとうございます」


 シレネの裸体は同性でも見惚れてしまうほどに美しい。出るところは出ていて、しまるところはしまっている。美術品のような綺麗な身体。

 しかし、一年ほど前から彼女の身体には一つの傷が刻まれてしまっている。


「その怪我……」

「もうその話はいいの」


 何故かマリーに止められる。

 シレネは「素敵でしょう?」と微笑んだ。


「私の誇りですわ」

「誇り」

「ええ。私の生きる意味と言いますか。いえ、逆ですね。シレネ・アロンダイトの生きる意味を”失わせてくれた”、大切な傷なのです。これを見るたびに、私は私の矮小さを思い出せる。たかがシレネであり、それでもシレネであることを思い出すのですわ」


 レフから見ても、シレネを取り巻く雰囲気が変わった。森での一件以来、柔らかい雰囲気が彼女を包んでいる。

 傷がついたことで、シレネ・アロンダイトという美女はむしろさらに完成に近づいた気もするのだ。

 神々しい、自分の主。


「私は――」


 貴方の傍にいていいのでしょうか。

 その言葉が喉につかえて、レフは息をするのも忘れてしまう。

 長い付き合い。シレネはレフの感情を理解したようだった。


「本心と、嘘と。どちらが聞きたいですか?」


 シレネは真面目な顔になって、レフを見つめた。


「前に進むための真実と、その場に留まるための嘘と。好きな方を貴方に」


 息を飲む。


 シレネの目がいつになく真剣だったから。

 初めてこんなにまじまじと見つめられたかもしれない。

 初めて、見つめてもらえたのかもしれない。


「私は――」


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