32.
◆
愛、とは何か。
好きになる、とは。
愛する、とは。
何を持って定義することができるだろう。
きっとそれは個人によって異なるもの。人によって、相手へのアプローチは異なっている。
では、私は。
何をもって愛とし、何をもって愛に報いるのだろう。
シレネはゆっくりと息を吐いた。
「どうして、リンク君なんですか?」
いつだったか、レフに聞かれたことがある。
教室内、彼に愛を伝えた直後だったと思う。
「どうして、とは?」
「あ、いえ、他意はないんですけど、どうしてシレネ様はリンク君を選んだんだろうな、って。そもそも課外学習の前は喧嘩してる仲だったじゃないですか。どうして急にそんな気持ちになったのか、気になって」
レフという少女は、シレネの目には”普通の子”に見えた。
普通という言葉は嫌い。
あらゆる文言がその一言で済まされる。普通に生きる、なんて、なんの具体性もないのに、誰もが求めて誰もが酔いしれる。それは夢を追うのと同じことなのに、夢と違って市民権を得ている。夢を追うのは馬鹿にされて、普通に生きるのは尊ばれる。違いなんかないのに。
閑話休題。
シレネはこのレフという子の意見こそ、世間一般の意見だと思っている。
彼女を傍に置いている理由は、親同士の関係もあるが、そういった一面も持っている。彼女の声を聴くことで、自分と世間との溝を埋める。市民に浸透する英雄像を確かにする。
――なんて、打算的。
本人に言ったら、がっかりされるのだろう、失望されるのだろう。
人間は運命が好きだから。人が作った順当が嫌いだから。
――でも、きっと、”彼”は同じことを思う。
そう考えると、今までは存在しなかった感情が湧き上がる。暖かくて、微笑ましくて、でも同時に苦々しくて、淀んでいて。
ヒトリではないという安心感。同じことを考えている人がいるという高揚感。傍に寄り添いたいという充足感。
数多湧き上がるこの感情、これこそが、愛なのだろうか。
「私が彼に恋慕することに、思うところがありましたか?」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
「何故恋慕するか。それは私でもわかっていませんわ。言葉にするのは難しい。なので、逆に、貴方の意見を聞かせてください。私があの方に好意を持つこと、それは周りからはどう見えますか? 正直にどうぞ。貴方の話は私にとっては貴重ですわ。貴方の言葉で、私はするべきことを明確にできる」
「……それでは、その、正直に言わせてもらうと、……違和感があります」
「ふふ、違和感」
おかしい。
他人が他人の恋愛事情に違和感を持つなんて。
どうだっていいだろう、そんなこと。
もしくは、人間という種族全体で考えれば、人間としての諫言なのかもしれない。おまえのようなクズがあの人の近くにいるなんておこがましい、と。
「その、シレネ様であればどんな殿方でも振り向くと思いますし、わざわざリンク君を選ぶ意味がないというか……。勿論、リンク君も良い人ですけれどね。えっと、私の意見ではないですが、白鳥と野良犬が一緒にいるように見える、と、聞いてます」
どちらが白鳥で、どちらが野良犬か。
おそらく、世間と自分の認識は逆なのだろう。
それが自分と普通との差。
「正直に言ってくれてありがとうございます」
「……失礼な言い方をしてしまってごめんなさい」
「構いませんわ」
そう、シレネ・”アロンダイト”という英雄は、白鳥のように優雅に、周囲を魅了する。人の前に立って、美しさと洗練さでもって、民衆を導いていく。
では、シレネ、そう、ただのシレネは?
私は野良犬。欲しい者は残飯を漁ってでも手に入れる。
生きたければ宿敵の前でも首を垂れる。
彼と同じ野良犬。
同族意識。
あるいは。
「……一緒になりたい、一緒にいたいという思いこそが、愛なのかも」
月並みな表現が自分の口から出てきたことに驚いた。
人の世界に馴染めなかった野良犬たちが、寄り添いあいたいという、ただそれだけの話。
「離れるという選択肢がなければ、それは愛なのでは?」
今まで黙っていたライが口を開いた。
シレネから見たライという少女は、レフともまた違う。
彼女がどちらかというと、自分に似ている。目的がはっきりしていて、周りの意見には流されない。
自分と異なるのは、その厭世的な考え方だろうか。恐らく、彼女に明確な生きる理由はない。言われたことをやるだけの、良くも悪くも主体性のない人間。
「ライ。貴方はどう思います? リンク様について」
「そうですね」
そんな彼女は、口角を歪めた。
楽しそうな笑みだった。
「嫌いではありません。あれに眼をつけたシレネ様は素晴らしいと思います」
「随分と上から物を言いますのね」
「失礼しました」
シレネとライの間では明確な主従関係が敷かれている。
互いにこれは仕事のようなものと割り切っている。
だからこそ、ライの踏み込んできた物言いは面白かった。
「気に入ったんですの? あの人のこと」
「そうですね。面白いと思いますよ」
二人の間で何かあったのか。
確かに、二人で話しているところを何度か見かけた気がする。
彼は魅力的だ。多くの女性が周りにやってくるのもわかる。それでいいと思う自分がいる反面。
――私は、彼の役に立てる。
少しでも前に行きたいという気持ちもあった。
「これも、愛なのかしら」
誰に聞いても誰が答えても、千差万別のこの問題。
シレネはゆっくりと息を吐いた。
とりあえず。
今の自分は嫌いじゃない。
そんな風に納得したタイミングで。
「でも」
ライの呟きが聞こえた。
「リンクはシレネ様と釣り合わないとは、私も思います」
彼女はその先を言わなかった。リンクとシレネ、どっちがどう釣り合わないのか、言わなかった。
けれど、それはレフが言っている意味とは真逆に聞こえた。
◆
死は別に怖くないと思っていた。
主観として。
自分はそういう人間なのだと、ライは考えている。
シレネ・アロンダイトの従者になったのは、先祖代々から引き継がれる慣習だった。
家族の中で祖父の有していた霊装を受け継いだのは、自分だった。その瞬間、アロンダイト家に仕えることが決定した。
そのことに不満はない。
シレネ・アロンダイトは綺麗な人物であったし、物腰も柔らか。一緒に働くことになったレフという少女も温厚な性格で、心地よい場所で日々を過ごすことができている。
毎日、穏やか。毎日、楽しい。
でも同時に。
これで私の人生は終わったのだ、とも思った。
シレネ・アロンダイトに金魚の糞のようにくっついていって、彼女を崇めて、彼女の身の周りを固めて、彼女の栄光に続く道を作って。
終わり。
過去未来現在、ライ・エキザカムの名前はどこにもない。この世に残るのは、シレネ・アロンダイトの従者という表記だけ。
そう、ライ・エキザカムの人生はすでに終わっている。
だから、別に死んだって構いはしない。そう思っていた。
しかし、違っていた。
――あの時、死んでいたかもしれない。
課外活動。あの森の中で。
ずんずんと前に進んでいくシレネの背中を見て、段々と怖くなっていったのは事実だ。まだ進むのか、と不安に駆られる胸中は、今までの自分にはなかったものだった。
魔物はどんどん強くなっていく。多くなっていく。
シレネは問題ないだろう。四聖剣に数えられる強大な霊装を持っているのだから。
でも、私は? レフは?
一切背後を振り返らないこの人は、いざという時に助けてくれるのだろうか。
きっと、あの時はそうではなかったのだろう。
だから私たちは死んでいた。
『森の中で言ってたこと。あのままシレネ様についていったら死ぬって話。……その、あんたは私とレフのために、シレネ様を止めてくれたんでしょう?』
『だとしたら?』
飄々と言ってのけるその顔を、どうにかしたくなったのは間違いがない。
ただ、それが叩きたかったのか、抱きしめたかったのか、判然としない。
私は、ライ・エキザカム。
シレネ・アロンダイトの従者では終わらない。
「ねえ、レフ」
今はシレネの始めたレクリエーション中。
ライは訓練場の入り口にいた。
複数の生徒がやんごとなき雰囲気を発しながら中に入っていった。その中にはリンクもシレネもいた。
最近マリーにちょっかいをかけていたりと、色んな思惑が錯綜しているのは知っている。そこに乗っかって、何度も一緒にご飯を共にした。友達だと、仲間だと思っていた。
業腹は、”呼ばれなかった”こと。何かをしようとしている、その中に入れなかったこと。
ライは自分の中の感情の中身を知らない。
「貴方、知ってる? 今、訓練場の中では殺し合いが行われているのよ」
「え、は、殺し合い!?」
文字通りのリクリエーションだと思って周囲に気を配っていたレフは、肩を震わせて驚いていた。
「そう。マリー様を守りたい側と、マリー様を殺したい側。互いの堪忍袋の緒が切れて、今が激突の瞬間なの」
「だ、だだだ大丈夫なのかな? 訓練場、って、さっきシレネ様たちが入っていったけど。てっきり私、誰もいないところで逢瀬がしたいとかそういうことかと思って見送っちゃったけど」
「シレネ様たちは大丈夫よ」
リンクとシレネが組めば、大抵の敵は敵じゃない。
問題は、
「私たちはどうする?」
「どうする、って……」
「私はね」
レフの答えは待たない。
ライは自身の霊装をその手に握った。
それははた目にはただの掃除帚。埃を払う事しかできない武器にもならない脆弱品。
「私の存在を見せつけようと思って」
遠くから生徒が走り寄ってくる。
殺気もない、敵意もない。ただの生徒。
レクリエーション通り、ライの持つハンカチを奪おうというだけ。
「訓練場の中はブラックボックスにしないといけない。今回の戦いは、秘匿されなければならない。私はしっかりわかっている」
殺したい側は王女を殺したいという思惑を世間に広めたくなくて。
守りたい側は事の次第を王子に知られて応援を呼ばれたくなくて。
どちらも、この場で終わらせたい。
だから、邪魔者はむしろ欄外の存在。物語の外にいる子たち。
――私の様な。
自虐を挟んで、笑う。
「奔れ、”フレアボルト”」
箒の先端を相手に向けて、手放す。
箒は一直線に廊下を駆けて行って、眼を白黒とさせる生徒の腹部に激突すると、そのまま廊下の奥まで吹き飛ばして、彼を昏倒させた。
箒を手元に戻して、再度笑う。
「私は生き残った」
死ぬ運命が変わった。
つまりは、これからの生には一切のしがらみが存在しない。
自由。
生き返った自分は、自分のしたいように生きる。
「私の物語は、これから始まるの」
楽しい、楽しい。
自由に生きていいと、そう言われたのだ。
世界に自分が認められた気がした。