30.
◆
赤色は嫌い。
自分の髪の色。
一日の終わり、夕焼けの色。
激情の色。
鮮血の色。
真っ赤な部屋は、眼を閉じるとやってくる。
人は口や臀部以外からでも物を吐けるのだとその時初めて知った。腹部から腸と一緒に全身の血を吐き出した、母の姿。
家路についた自分を出迎えたのは笑顔ではなく、真っ白な顔だった。
「これか」
びちゃ、という音は部屋に滴った血を踏みしめた音。
今朝まで母を動かしていた動力源を踏みにじった音。
宵闇に慣れた視界の中で、真っ黒な服を着た人間が数人、母の亡骸の横で立っていた。無感情に血のついた剣を構えると、こちらを見据える。
「赤髪です。身長、体格ともに情報と一致。母親とも、あの方とも似ています。間違いないでしょう」「そうか。ではさっさと済ませるとしよう」
剣の切っ先がこちらに向いた。
剣よりも先に、むせ返るような鉄血の匂いが鼻を突く。
死臭が、自分ににじり寄っていた。
何もわからなかった。
今日も普通の一日だったのに。
朝起きて、学校に行って、友達と遊んで、日銭を稼ぎに仕事に行って。
何の例外でもない、一日だったのに。
どこで足を踏み外したのだろう。何が間違っていたのだろう。
わからない。
わからないわからない。
でも、そうも言っていられない。
母を殺した刃は自分にも迫っていて。
足はぶるぶると震えて動いてくれそうになくて。
がくがくと揺れる体は自分のものだと信じられなくって。
すべてが指し示す未来は、死。
自分は死ぬ。
殺される。
母と同じようになる、される。
そう確信した瞬間、湧き上がった感情は形容しがたいものだった。
青色で、黒色で、緑色で、――視界を覆い尽くすような赤色で。
体は勝手に動き出した。
「……ティア、クラウン」
発現した自分の霊装。
これが自分に宿ったとき、身体が勝手にそれを理解していた。頭はこれの使い方と能力を理解していて、手足のように感覚的に扱うことができた。
霊装。
私の、霊装。
嬉しくなって母に見せた時、真っ青になった母からは他の人には絶対見せるなと言われた。
でも、すでに近所の子供たちに見せた後だった。それは、国王が崩御した日だった。
煌びやかな装飾の王冠。
マリーはその能力を知っていた。
黒ずくめもその力を知っていた。
黒ずくめの反応が変わる。眼を血走らせて走り寄ってきて――
「”寄るな”!」
ぴたりと止まる。
足が地面に縫い付けられたかのように、彼らは動かなくなる。
「”武器を捨てろ”」
からん、と金属音。
彼らは所持していた武器をすべて床に放り落とした。
いずれにも赤色が塗り付けられている。先ほどまで母を動かしていたものだ。
今度ははっきりと、脳内が真っ赤に染まる。
これは。
激情。
よく、わかった。
「……馬鹿なことはよせ」
数人の内、低い声がマリーを諫める。
「どっちが先に馬鹿なことをしたと思うの」
母は斬殺されていた。
いや、撲殺なのかもしれない。いえ、絞殺にも見える。
何回、殺されたのだろう。
まるで自分自身が切り取られていくように。薄皮を一枚ずつ剥がされていくように、今までがなくなっていく。
自分がむき出しになっていく。
裸の、真っ赤な、自分。
「こんなもの、いらないのに」
王冠を思いっきり放り投げる。壁に当たって転がっていく。
しかし、念じれば、それは頭の上に戻っているのだ。
「いつの間にか、勝手に私のところに来ただけなのに」
「そうだ。それは貴様のものではない。これは事故だ。ゆえに、それはあるべき場所に帰らないとならないのだ」
「どうすればいいの?」
「おまえが死ねばいい」
無感情に、無感動に。
彼らは慣れていた。
人から命を奪う事に慣れ切っていた。
そういう人たちなのだ。
再度、母の姿を見る。
そんな人に殺された母は、どうやって死んだのだろうか。啼きながら懇願したのだろうか、淡々と受け入れたのだろうか、堂々と立ち向かったのだろうか。
母を殺したこいつらは、感情を揺らすことなく日常に戻っていくのだろう。だってそれが、彼らの普通なのだから。
どうでもいい。
どれでもいい。
自分がどうして生まれたのか。二人がどうして出会ったのか。どうして過ちを犯してしまったのか。私という存在を産んでしまったのか。霊装は私を選んだのか。
どうでもいい。
ただただ。
激情。
「そこのあんた」
「……」
「”武器を拾って使って、そいつの腸を抉り出せ”」
そいつ、を指さす。
その通りになった。
一人の黒ずくめは仲間の腹に刃物を差し入れて、ぐるりと回していく。「ああああ」絶叫が起きようとするが、マリーは「”黙れ”」とだけ命令した。口からものを発せなくなった男は、代わりに腹からたくさんのものを吐き出して、絶命した。
「”次はそいつの首を刎ねろ”」
刃物は閃き、また別の人間の頭部と体を分離させる。
足元に転がってきた首。黒いフードの下は、少女のものだった。
「”全員”」
残った二人の黒ずくめ。
「”自分が考える一番酷い死に方で、自害しろ”」
一人は自分の腹部を突き刺した。何度も何度も、命ある限り何度も突き刺して、動かなくなった。
一人は自分の服に火をつけた。ごうごうと燃えて、のたうち回って、動かなくなった。
何も、なくなった。
真っ赤になった部屋だけが残った。
死臭の部屋の中、自分だけが残された。
どうやってその部屋から出たのか、どこでご飯を食べたのか、それから先、どう生きたのかはよく覚えていない。
それから、何回かマリーの下には命を狙う暗殺者がやってきた。
全員、返り討ちにした。
そのうち、話が広がっていった。
庶民が王の権利を引き継いだ、と。
話が王都を一周したとき、マリーは狙われなくなった。
霊装が選んだ相手は、絶対なのだ。
王子たちよりも、マリーの方が王の資質がある、そう判断された。
マリー王女候補を殺すという事は、霊装に楯突くも一緒。そうなった場合、どうなるかわからない。最悪の場合、霊装は消えてしまうかもしれない。
マリーは殺せなくなった。
しかし、正式に王となって王城に入ることは誰もが嫌がった。当の本人も。
妥協案として、学園が選ばれる。霊装使いとしての自覚を得た段階で、王女として登城することとなった。
その間に、死んでほしい。学園の中で勝手に死んでほしい。
マリーを憎む誰もが思った。
マリーはそんなやつらを見返してやりたいと思った。
絶対に死んでやるもんか。
絶対に生きて、鼻で笑ってやる。
だから、食事に毒が入っていても、部屋が荒らされていても、周りが遠巻きに見つめるだけの孤独でも、耐えてやる。
半年までは、頑張れた。
でも、思ったのだ。
この先に何があるのだろうか、と。
自分が歯を食いしばって頑張った先に、何が待っている?
自分は笑う、嘲笑う。
でも、他の人は誰も喜ばない。誰も嬉しくない。
マリー一人諦めれば、全員幸せなのだ。
ただ、それだけの話。
何よりも早く、お母さんに、会いたい。
頑張ったね、辛かったね、って抱きしめてほしい。
そう、想って。
――
―――
――――
◇
「どうしてあんたは私のことを気に掛けるの?」
とある日。
ふと、そんなことを聞かれた。
食堂に向かう道すがら。他のメンツは先を歩いていて、ほとんど二人きり。
これがいつも通りだと言えるのは、俺の努力の成果であり、マリーにも寂しさはあったという証左だろう。
「どうしてって?」
「はぐらかさないで。何が目的なの? 言っておくけど、私はお金も地位も持ってないからね。私を担ぎ上げても、貴方にメリットはないわ。もしかして私が王になるかもと思ってごまを擦ってるんだったら、無駄よ。私は王なんかにも興味はない」
真摯な瞳は、ようやく引き出せた彼女自身。
だから俺は真剣に答える。
「おまえのことが好きだから」
最低で最高な言葉を吐く。
言葉は良い。
どうとでも操れる。
そこに中身が入っていようが入っていまいが、同じ見た目をしている。
「……は?」
「俺はおまえのことを知ってる。おまえが頑張ってこの半年を生きてきたことも知ってる。少し前まで、心が折れかけていたことも知ってる。どこかで終わってもいいかなんて思ってただろ?」
無言は肯定。
「でも、負けたくないと思ってるんだろ。自分のことを簡単に殺せると思ってるやつらに、一泡吹かせたいと思ってるんだろ。それなのに、諦めるのか?」
「……簡単に言わないで。何がわかるのよ」
「わかるよ。ずっと見てきたから」
頑張って頑張って。
たった一人で踏ん張って。
崩れる一歩手前のおまえを見てきたから。
「心が震えるほどに勇ましく、素敵な姿だよ。そんなおまえを一人放ってはおけない」
「あんた、恋人がいるんだから誤解のある言い方はやめなさいよ」
「誤解してくれてもいい。その気持ちだって嘘じゃない」
真実でもないかもしれないけど。
嘘であるという証拠もありはしない。
目的だけははっきりしていて、彼女に生きていてほしい。
「……馬鹿じゃない」
「俺は馬鹿だよ」
知ってる、知ってる。
馬鹿じゃなきゃ、こんなことできないしな。
「おまえは一人きりじゃない。俺はもちろん、レドもシレネも、ライもザクロもレフもいる。確かに何人かは最初は嫌がってたけど、今は当然のように飯に行くだろ。誰もあんたを嫌っちゃいない。あんた自身を嫌う相手はいないんだ」
「でも、私を取り巻く厄介事は嫌いでしょ」
「だからそれを拭き飛ばしてやろうっていうんだ」
目に見えるようになった対立。
シレネを筆頭とするマリー派閥と、プリムラを筆頭とする王子派閥。
現実で見れば王子派閥が圧倒的だ。数も質も、俺たちに敵う要素は一つもない。
でも、ここは学園。生徒だけの世界。
となれば、話はもっと純粋。どっちに誰がいるか。
シレネの求心力はとてつもない。客観的に見れば圧殺される俺たちの派閥が、イーブンになるくらいまで持ち込めている。
俺以外の全員もなんだかんだで社交的だ。目的のない子たちは俺たちを支持してくれている。
「安心しろ。おまえを殺そうとするやつらは全員追い払ってやる。おまえが安心して笑える世界にしてやる」
「……でも、私一人死ねば、皆満足するのよ」
「俺は満足しない。俺だけじゃない。もう、遅いんだよ。俺たちはもう、他人ではなくなってしまった。おまえが死んだら、少なくともここにいるやつらは哀しむ。後悔する。人生の大きな傷になる。俺たちを虐めたいのか?」
「そんなつもりはないけれど。……皆、いい人だもん」
「だからおまえは命令すればいい。”私を勝たせろ”ってな。俺たちがそれを実現しよう」
「……」
押し黙ってしまう。
色んな感情が渦巻いていることはわかる。
だから俺は、その手を取った。
人の暖かさは、意外と迷いをなくさせる。
「俺はあんたの騎士だ。あんたが望むのなら、神だって相手にしよう」
「……ずっと私の隣にいてくれるってこと? 私は、たくさん殺したわよ。この髪は血の色。多くの血を吸った悪魔の色。そんな悪魔を騎士が守ってくれるというの?」
くしゃりと掴む髪は、真紅。
血の色夕日の色激情の色。
愛の色。
「こんな可愛い悪魔がいるものか。俺は魔王を殺す男。あんたが自身を悪魔だというのなら、それすら愛そう」
引き寄せて、抱きしめる。
マリーは俺の胸に顔をうずめて、
「死にたくない」
とだけ言った。
それが答えだった。
「承知しました。我が主」
きざったらしい言葉を吐いて、俺は頷いた。