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《8》

 あの甘美な味が忘れられず、ハチミツの瓶を部屋に持ち込んだ。残り少なくなっており、いつも見ていたような優しい煌めきは感じられない。それでも慣れないロングスプーンを使い、すっかり固くなってしまった瓶底のハチミツをすくおうとした。


 引っ掻き回された瓶の底が、傷だらけになっていく。

 私の身体と同じように――。


「ごめんね」

 私のせいで傷だらけになってしまった瓶を、私と同じように痛い思いをさせてしまった瓶を、布団代わりのタオルケットに包んだ。


 ぼろぼろと涙をこぼしながら、キッチンへ踏み込む。何かおやつはないかと見渡していると、戸棚の隅に真新しいハチミツの瓶を見つけた。私はなんと現金な子供だったのだろう。急に世界が明るくなったような気がした。


「おかあさん、ちゃんと買ってくれてたんだ」

 涙を拭うと、ハチミツの瓶を手にした。それを大切に抱えこみ、母がテレビを見ているリビングへ向かう。


「ねぇ、おかあさん」

 返事がない。

「これで、ハチミツパン作ってよ」

 彼女には、私の言葉が聞こえないのだろうか。


「おとうさんが急に、お仕事で遠くに行っちゃったのは寂しいけど。またハチミツパンを食べたら頑張れるよ。おかあさんが怒っても平気だよ」


 気付いてもらいたくて、母の腕を引く。

 その瞬間、身体が後ろに吹っ飛んだ。


 床に背中を打ちつけると同時に、酷い言葉が私の耳を貫く。優しかった母からは想像もできないような醜い声。


 身体を突き飛ばされても、ハチミツの瓶は抱え込んで放さなかった。私と母の大好きなものを手放したくない一心で、必死に抱き締めていたのだろう。


 だが彼女は、私を大切にしてくれない。

 私の言葉は届かない。

 あの幸せな時間は、もう二度と戻らないのだと思った。

 痛くて、寂しくて、苦しかった。

 テレビに向き直った母の背中が、悪魔のように見えた。


 ハチミツの瓶を両手で握り締め、大好きだった母の頭へ振り下ろす。母が私にそうしたように、何度も痛めつけた。割れた瓶から溢れ出るハチミツが、琥珀色に輝きながら、赤く赤く染まっていく。


 どうしようもなく悲しくなり、声を上げて泣いた。そこに安堵が混じっていたことなど、幼い私は気付いていなかった。


 すがるような思いで電話機に向かう。頼れる存在の心当たりは、父しかいなかった。仕事でしばらく家に帰らないと聞いていたが、今思えば、それは嘘だったのだろうと想像できる。母の失踪時と同じように、父は私を悲しませないよう嘘を吐いたのだろう。二人の間に何があったのかは分からないが、父と母の関係は上手くいっていなかった。父は家を出て行き、母は毎日のように父に電話をかけては泣いていた。


「どうして――そんなの嫌よ――」

「――私だけじゃ――もう一度――」


 私は電話に出させてもらえなかったし、聞こえてきた言葉は幼い私が理解できないものばかりで、その内容はほとんど覚えていない。ただ、電話を終えたあとの母の顔が、恐ろしくてたまらなかったというのは事実だ。


 震える手で、受話器を取った。電話機に貼り付けられたメモを見て、父の携帯電話に発信する。父はすぐに、私に会いに来てくれた。そして、大きな身体で私を抱き締めてくれた――。




 重い瞼を上げると、真っ白な天井が目に入った。無意識のうちに閉ざしていた記憶がよみがえったこと。父が自分の人生を壊してまで私を助け、私を守り、愛し続けてくれたこと。苦しみと切なさで胸が詰まり、涙が溢れて止まらなかった。


 自分の罪を誤魔化したいがゆえの幻聴なのか。

 死してなお、父が私の心を守ろうとしてくれているのか。


「お前のせいじゃないよ」

 目覚めた今も、父の声が脳内にこだましている。



(了)

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