36 時を戻す魔法を…
隣から泣きじゃくる声が聞こえてくる……。
ファルクは隣に移ったアルメをそっとうかがい見て、強く奥歯を噛んだ。
席を移った途端に、彼女は泣いてしまった。
歳若いのにしっかりとしていて、時折自分より年上なんじゃないかと勘違いしそうになるほど、アルメはできた大人の女性だ。――と、ついさっきまではそう、思い込んでいた。
高齢の女性神官に縋りついて泣く姿は、どう見ても弱く頼りない、普通の娘でしかなかった。
漏れ聞こえてくる涙声に、胸が締め付けられるような心地がする。
彼女を泣かせるまで追い詰めてしまったのは自分だ……。今すぐ側に寄って、その手を取って深く深く謝罪したい……。
今まで彼女の前で姿を変えていた理由を説明して、身分を隠していたことを謝って、そして今さっきの棘のある説教をなかったことにして……もう一度、話をし直したい。
そう思うけれど、ままならない。仕事を中断するわけにはいかないし、この場で私的な話をするわけにもいかない。
診療の動作の合間にチラチラと様子を見るのが、今この場での精一杯だ。
それでもせめて謝罪だけでもと、タイミングをうかがっていたのだけれど。結局上手く間が合わずに、アルメは別室へと移動してしまった。
そうしてようやく患者の列がはけた頃には、もうとっくに彼女は神殿から去っていたのだった……。
時刻はもう、深夜に近い。
やっと静けさを取り戻した神殿内で、隣の女性神官――アルメを担当した老神官に声をかけられた。
「お疲れ様でした、ラルトーゼ様。今日はここ数年でも一番の混み具合だったわ」
「お疲れ様です。……あの、途中交代していただいた彼女、大丈夫そうでしたか? 別室に移動した時も、まだ泣いていましたか?」
「えぇ、泣いていたけれど、お友達もついていたし、きっと大丈夫でしょう。ちょっと話が聞こえてしまったのですが、お知り合いだったのですね?」
「はい、友人です……酷いことを言って泣かせてしまったので、もう友人ではなくなっているかもしれませんが……」
頭を抱えて項垂れると、老神官がなだめるように肩を叩いてきた。
「ラルトーゼ様は、怪我をしてしまったご友人のことがとても心配だったのでしょう? 傍から聞いていただけですが、私にはよくわかりましたよ。けれどもう少しだけ、彼女に対して良い言い方があったのかもしれませんね」
「返す言葉もありません……」
本当にまったくもってその通りだ。自分は事情も知らずに、アルメを叱ってしまったのだ。
彼女に偉そうに、『愚か者』なんて酷い言葉を放ってしまったけれど、愚かなのは自分である。叶うのならば、今すぐ誰かに殴り飛ばしてもらいたい気分だ……。
アルメに身寄りがないなんてこと、これっぽっちも考えていなかった。一人ぼっちで生活していたなんて知らなかったのだ。
いつも優しげな笑顔で、穏やかな様子だったから……身を危険に晒してまで金に縋らなければならない事情があるなんて、考えてもいなかった。
身元保証人を問われて、彼女はいないと答えた。――けれどその前に、口に出しかけた名前を、この耳はしっかりと覚えている。
『フリオ・ベアトス』――と、彼女は言いかけていた。
以前、街の市場で会ったあの男の名だ。忘れもしない。まさかこういう場面で出てくる名前だったとは……。
彼女はフリオとやらのことを、仲の良くない知人だと言っていたが、こういう時に一番に名前が出てくる間柄だったなんて。
それなのに頼ることができないとは、一体何があったというのか。
咄嗟に頼れない男の名を出してしまったアルメのことを考えると、胸が苦しくて、たまらない気持ちになる。
言いようのない歯がゆさを感じて、唸り声を上げたい心地だ。
……――自分だって、彼女のことを何一つ知らなかった。
怖い思いをして必死に守った金は、一人で生活していくために必要な金だったのだろう。『そんなもの』と一蹴してはいけない、大切なものだった……。
子供の頃、大いに金で苦しんだ自分にはよくわかっていたことなのに……どうしてきつい言葉しか出てこなかったのだろう。悔しくてたまらない。
自分はボロボロになって現れた彼女の姿を見て、柄にもなく動揺していたのだ。
普段もっと酷い軍人たちの様を見ているというのに、どういうわけか彼女の怪我にはものすごく驚いてしまった。
その結果、感情が揺れるままに厳しいことを言い放ってしまった。相手は戦地の屈強な軍人でもない、ただの娘だというのに。それも、事件に遭って傷ついたばかりの……。
「…………時を戻す魔法を……使いたいです……」
「残念ながら、そういう魔法はありませんね」
呻き声を上げたら、老神官は困ったように苦笑していた。
■
手早く必要最低限の仕事を片付けて、神殿を出た。
神官服の羽織を脱いだだけの格好で、夜馬車へと飛び乗る。変姿の首飾りは寮の自室に置き去りだ。部屋に戻って支度を整える時間も惜しかった。
もう深夜をまわっているので、闇に紛れてしまえば白鷹の姿に気付く者もいないだろう。
しばらく馬車は通りを進んで、いくつもある路地街への入り口の一つに横づけて停まる。
この街に来てから何度も通い、すっかり歩き慣れてしまった路地を抜けて、小広場にたどり着いた。
広場を歩き、アイス屋へと歩を進める。
玄関扉の前まできて、重い息を吐いた。
今日数刻前に、アルメはここで襲われてしまったのか……。考えるほどに、胸の奥でグツリとした怒りが湧くのを感じる。
犯人はどうなったのだろう。もう捕まったのだろうか。もしまだ逃走中であれば、捜査に動いているであろう警吏たちを全力で応援したいところだ。
――なんて、色々考えてしまったけれど、ふと思う。
今この状況、自分も犯罪者になりかけているのでは、と。
深夜に女性の家の前に立ってオロオロしている男……どう考えても不審者である。
どうにか早く謝りたい、という気持ちだけが急いてしまって、ここまで来てしまったのだけれど。
当然と言えば当然だが、もうアルメの家に明かりは灯っていなかった。
こんな真夜中に訪れるなんて、非常識もいいところだ。どうやら自分はまだ、冷静さを欠いているらしい。
深く息を吐いて、引き返す足を出した。
トボトボと、また広場を横切っていく。
中央の案内板の近くで一度足を止めた。
アルメと初めて会ったのは、この場所だったな、となんだか懐かしさにひかれてしまって。
思えば彼女は初対面の瞬間から、優しい人だった。迷っている自分に声をかけて、丁寧に道を教えてくれたのだった。
「酷い人、か……」
診察の時に彼女が呟いた言葉がポツリと口に出てくる。
出会った瞬間から、今までずっと変わらずに優しくしてくれた彼女を、自分は裏切ってしまった。
貴族の庶民遊びだと思われても仕方がないことをしてしまったのだ。
前に街歩きで地下宮殿を案内してもらった時のことを思い出す。
彼女は『もし白鷹が酷い人だったら、嫌いになってしまうかもしれない』と、そう言っていた。
……もうアルメにとって自分は、害のある男でしかないのかもしれない。
現に、神殿で彼女に診療を拒まれてしまった。もう手に触れることも、視線すらも合わせてもらえなかった……。
「俺は……嫌われてしまったんだな……」
その考えに至る頃には、引き返す歩みが早足になっていた。
神殿にとんぼ返りしたら、寮の暗い玄関ロビーに人影があった。
ロビーのソファーで出迎えてくれたのは、師のルーグだ。神官服を着たままなので、もしかしたらずっとここで待っていてくれたのかもしれない。
歩み寄るファルクに気が付くと、ルーグはやれやれ、とあきれた様子で声をかけてきた。
「お帰り、ファルク。まったく、こんな夜中に街に飛び出していくなんて……。聞いたぞ、お嬢さんを泣かせたとかなんとか。お前さんを想って勝手に泣くお嬢さん方は多いが、お前さんが直接手を下して泣かせるなんてのは珍しいのう。そういう風に指導してきたつもりはなかったはずじゃが」
「そういう言い方をされると語弊が……いや、言い訳は見苦しいだけですね……」
言葉を返そうとしたが、やめてしまった。もはや事情を説明する元気もない……。
こうして待っていてくれたということは、もう大方何があったのか把握しているのだろう。ルーグは昔から、そういう先回りが得意な人だった。
ファルクはルーグの隣に腰をかけて、ガックリと項垂れた。
「……友人を泣かせてしまいました」
「その友人とやらは、お前さんが気に入っているアイス屋の氷魔法士のお嬢さんかい?」
「はい……」
「それじゃあ、早めに仲直りせんといかんな」
ルーグは何てことないように言い放った。
すぐに言葉を返せなくて、会話に間が空く。
ファルクが次の言葉を喋るまで、彼は急かすことなく待っていてくれた。
「……仲直りなど、できるのでしょうか……? 俺は人との関係を壊してばかりです……家族にも嫌われ、昔の縁談のお相手にも嫌われて。仲を修復しようと頑張っても、逆に鬱陶しいと怒られ、溝が深まって……。……仲直りなど、今までできたためしがありません」
「では、今回が初めての成功になるといいな」
じめじめとした泣き言をこぼすファルクに向かって、ルーグはすっぱりと言う。
「事は早い方がいい。明日にでも話をしに行ったらどうだい。どうせ連勤明けの休みじゃろう? もし仲直りが失敗して、お前さんが泣きべそをかいて戻ってきたら、ワシが心に治癒魔法でもかけてやろう」
「……よろしくお願いします」
心の傷に治癒魔法は使えないはずだけれど、ルーグは不思議と心にまで魔法をかけてくれる人だ。
地の底を這いつくばっている心地だったが、彼の言葉でいくらか気持ちがやわらいだ。
――明日、アルメに謝罪をしてこようと思う。
もうどうしようもないくらいに嫌われ切っていたとしても……せめて今までのお礼と、関係を終わらせる最後の挨拶くらいは交わすことができたら、と思う。
うつむいていた顔を上げると、ルーグがポソリと言う。
「昔ラルトーゼ家で揉めた時、お前さんはお兄さんに頭を踏みつけられたのだったか」
「……俺にかかった医療費の謝罪をした時ですね」
「お姉さんに謝った時には花瓶で殴られて、血だるまになっておったな」
「……それは傾いた家のために、姉様の政略結婚が決まった時」
「ポットの湯をかけてきたのは、元婚約者のお嬢さんだったか」
「……仕事で不在にしている間の不埒な遊びを咎めたら、逆に激昂されまして」
今までの仲直り失敗歴をつらつらと並べられて、遠い目になってくる。
ルーグは一つ間を置くと、悪戯な顔をして、最後に言う。
「お前さん、次はどうなるのじゃろうな」
「……氷漬け、でしょうかね。それで許してもらえるのならば、喜んで凍ってきます……」
「ふむ。じゃあワシは、あたたかさに満ちた和解に、一万
応援しているぞと、ポンと肩を叩かれた。
笑い返そうとしたのに上手く表情筋が動かない。自分は今、きっと酷く不格好な顔をしていることだろう……。