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35 白鷹の診療と愚か者

 対面した白鷹――ファルクは、口を開くと同時に思い切り顔を歪めた。


「……アルメさん、一体何があったんです……?」


 そう問われたけれど、呆然として硬直してしまった体と頭では、上手く返事を返せなかった。


「……あ、の……えっ……と」


 言葉にならない声しか、喉から出てこない。


 自分のことより、あなたのことを聞きたいのだけれど。――そう思うが、言葉が出てこない。驚きと衝撃が大きすぎて、脳の処理限界を超えてしまった。


 どもるアルメに代わって、さっさと気持ちを切り替えたらしいジェイラが、いつもの調子で喋り出した。


「いや、まじ、知り合いとかすげーな。――ま、でも、そんなら話が早いか。白鷹様、アルメちゃんが店やってるの知ってますー? さっき売上金を狙った強盗とひと悶着あってさ。そんでこの怪我ってわけよ」

「強盗……?」


 ファルクがさらに顔を歪め、険しい表情を見せた。


 初めて見る顔だ。今の彼の容姿だと、まるで男神に凄まれているような怖さを感じる。まさに白鷹――猛禽類のようなきつい表情だ。


 ざっくりと説明を終えると、ジェイラは思い出したように言う。


「あ、そうだ、受付書類書くんだったっけ! アタシ取ってくるから、待ってて」

「そ……そうでした……! すみません、ありがとうございます……!」


 ジェイラに肩をポンと叩かれて、その拍子に体のこわばりがいくらか解けた。弾かれたように返事をしたら、彼女は笑顔で頷いてカウンターへと歩いて行った。


 少し調子が戻ったところで、アルメはゆっくりと深呼吸をする。動揺しつつも、ようやくまともな言葉を紡いでファルクに話しかけた。


「あの……とても驚きました。本当にファルクさん、なんですよね……?」

「……はい。黙っていて申し訳ございませんでした。今までは変姿の魔法を使っていました。……この件はまた後ほど」


 ファルクも深く息を吐いた。

 気を取り直すように姿勢を正すと、変わらず険しい表情のままアルメを見据えた。


「――それで、強盗とは? 治療にも関係することなので、事情をお話しください。もし話しにくいことがあれば女性の神官に代わりますから、どうぞ遠慮なくおっしゃってください」

「ええと……特にそういった被害はなく……。お祭りから帰って、家に入るところを襲われまして……売上金の入った鞄を盗られそうになったので、鞄にしがみついていたら、引きずられました。そしてこのざまです……」


 苦い顔で言い切って、特に怪我の酷い膝と肘、そして真っ赤に染まった爪を見せる。

 鋭い金色の瞳で傷を睨まれ、体がすくんでしまった。


 ファルクの表情からは怒りを感じる。もしかして……いや、確実に、ものすごく怒っている。


「……傷に砂が入ると予後が悪いので、先に軽く洗います。ひとまずこの場では肌の見える部分のみ治療しますから、服の下の怪我は別室にて、女性神官の治療を受けてください」


 そう言うと、ファルクは後ろに控えていた女性の看護師に指示を出した。


 四十代くらいの女性看護師は慣れた様子でテキパキと桶と布、そして水魔石を持ってきて、アルメの手足の傷を洗い始める。


 傷に触れられる痛みを覚悟して体を固くしていたのだけれど、思っていた痛みは訪れなかった。


 ファルクがアルメに手のひらを向けて、魔法を使っていた。


「痛みをやわらげておきます。完全に取り除いてしまうと怪我をしている箇所を見逃してしまうことがあるので、少しの痛みが残るのはご了承ください」

「はい……ありがとうございます」

「擦りむいた傷と打ち身と爪の他に、どこか痛むところや具合の悪いところはありますか?」

「ええと……手先が痺れています……肘を打ってしまって、まだジンジンと……」

「指は動かせますか?」


 問いかけながら、ファルクはアルメの手を取ろうと、腕を伸ばしてきた。

 

 ――けれど、アルメは思わず反射的に手を引っ込めてしまった。


 普段の、あの見慣れたファルクとは、手を重ねて街を歩いたことだってあるのに。この目の前にいるファルクに対しては、無意識に警戒の動作をとってしまった。


 見慣れない容姿な上に、ピリピリとした空気をまとっていたので……本能的に体が拒んでしまったみたいだ。


 ファルクはわずかに目を見開いた後、心なしか険しい表情を深めたように見えた。


 その表情に見合った厳しい声音で、まっすぐにアルメを見据えて言う。


「アルメさん、今のような警戒の動作は、身を守るために必要な良い反応だと思います。ですがどうして、強盗相手には逃げるという行動をとれなかったのですか? 金などさっさと渡して、逃げ出してしまえばよかったものを……なぜしがみつくなんて危険なことを」

「咄嗟に、体が動いてしまったんです……。今日は一番売上がよかったから……たぶん、盗られたくないと思ってしまったんでしょうね、私……」

「愚かな……そんなものより、アルメさんの命のほうが大事でしょう。魔法を使えるからといって、思いあがってはいけませんよ」

「……」


 売上金をそんなもの、と言われて、思わずぐっと奥歯を噛んでしまった。


 今日一日、朝から夜まで一生懸命に働いて稼いだ金なのだ。上位神官にとっては小銭くらいの稼ぎかもしれないが、アルメにとっては大金だ。


 それも、借金のカタに家をとられるかもしれない、という窮地にいるアルメにとっては、頼みの綱となる大事な金なのだ。


 ……他人にそんなもの呼ばわりされたくはない。


 わずかに胸に湧いた黒いモヤのような感情に任せて、言葉を返す。


「……別に思いあがっているわけではありません。魔法なんて使えませんでしたし。大金をみすみす目の前で奪われたくはない、と考えてしまうのは、庶民としては普通の感情でしょう? 確かに、馬鹿なことをしたな、とは思いますが……でも、結果としてお金は守れましたし」

「たまたま助かったからよかったものの、取り返しのつかないことになっていたらどうするのです。金はいずれ戻りますが、命は戻らないのですよ。魔法で対処できないならなおさらです。戦えもしないのに目先の金なんかを選ぶなんて……こんな怪我まで負って。こういう時は欲など捨てて、身の安全を選びなさい」


 看護師に洗われて、膝や肘から赤く流れる水を睨みながら、ファルクはきつい声音で言う。


 ファルクはまったくもって正しいことを言っている。命を失ったら結局終わりなのだから、金より命を選ぶべきだ、というのが正解なのだろう。


 けれど、そうわかってはいても、事情によっては上手く正しさを選べないことだってあるのだ。……きっとお金持ちにはわからないことだろうけれど。


 金を手放したら、一緒に家と大事な店を――生活を手放すことになる……そういうちっぽけな庶民の焦りなど、知らないくせに。

 

 当たり前に正しいことを説かれることが、無性に悔しい……。


「……金なんか、ですか。ファルクさんはお金に困ったことなどないのでしょうね。何も知らぬ人には、何も説かれたくはありません」

「何も知らぬとは言ってくれますね。金の大切さくらい、俺でも知っています。その上で俺は――」

「お言葉ですが、これっぽっちも知っているようには見えません」

「……アルメさんこそ、俺の何を知っているというのです。思い込みで人を判断して、言葉に耳を傾けないというのは愚か者のすることですよ」


 ピシャリと、低い声で言い放たれた。

 

 ファルクの言葉に殴られた心地がして、咄嗟に視線を外してうつむく。歪みそうになった顔を見られたくなかったので。


「……そう、ですね。確かに……ファルクさんのこと、私は何も知りませんね。あなたの本当の姿も、名前も……これっぽっちも知らなかったのは、私のほうですね」


 ファルクが身じろぐ気配を感じたが、口からこぼれ始めた言葉は止まってくれない。


「何も知らないくせに、良い友達ができたなんて一人で舞い上がって……本当に私は、おっしゃる通りの愚か者ですね。……今まで、知らずに空まわっている私を見て、面白かったですか?」


 ふと、フリオに言われた言葉を思い出した。『遊ばれているだけだ』という忠告を。今思えば、案外的を射ていたのかもしれない。


 白鷹ちゃんアイスやら、行進の話やら……本人相手にのん気に披露してみせる庶民娘を見て、この人は何を思っていたのだろう。

 滑稽だなと思って、面白がっていたのだろうか。


 高い身分の人が庶民にちょっかいを出して遊ぶというのは、よくある話だ。大金をチラつかせたり愛を囁いたりして、反応を面白がるという上流階級の卑しい遊び。


「……庶民を玩具にして遊ぶような、酷い人だったのですね。白鷹様という神官様は」


 止まらない言葉に任せて、最後にポツリと呟いてしまった。最後の言葉を言い切ると、胸のモヤはようやく落ち着いてくれた。



 口をつぐんだファルクを見ないまま、アルメはすぐに頭を下げた。


「…………申し訳ございません。大変失礼いたしました。愚かな庶民の戯言として、どうかお聞き流しくださいませ」


 口早に謝罪の言葉を述べた。深く頭を下げ、うつむいたまま……顔は上げられなかった。


 黒い感情が散ると、入れ替わるようにして酷い後悔が襲ってきた。

 本当はファルクにこんなこと、言いたくはなかったのに……。


 一日の疲れ。強盗に遭った動揺。ファルクの正体を知った衝撃。カチンときた気持ち。悔しさと腹立たしさ。友達だと思っていたのに、裏切られたような悲しさ――色々なことが合わさって、今の自分は感情のコントロールが下手くそになっているらしい……。

 

 仕舞いには、とんでもなく失礼な嫌みを言ってしまうなんて……なんて幼く未熟なのだろう。

 

 ファルクの諭しに対して、素直に『次からは身を守る行動を取るようにします』と答えていればよかっただけなのに。


 祖母がいたら、きっとファルクと同じことを言い、同じ顔をして怒っただろう。

 『お金なんかより、あなたのほうが大事に決まっているでしょう!』と、いつもは優しげな表情を厳しくして。


 押し寄せる後悔が涙に代わって、目にじわりとたまってきた。


 強盗に襲われてから、本日三度目の涙目だ。今までこらえてきたけれど、今度こそこぼれてしまいそう……。


 唇を噛んで耐えていると、ファルクが大きく身じろぎ、椅子から腰を浮かせるような動作をとった。


「あのっ、アルメさん、こちらこそすみませ――」

「アルメちゃん、お待たせさーん」


 ファルクが口を開きかけたところで、ジェイラが戻ってきた。


 ジェイラは革のバインダーにはさまれた受付書類とペンを持っていた。


「なんか支払い後日でもいいってよー。額デカかったら分割もできるってさ。アタシ今手持ちガッツリあるし、立て替えとこっか?」

「……ありがとうございます、でも、大丈夫です。後日払いにきますから」

「わ、アルメちゃん泣きそうじゃん。おーよしよし、痛いの痛いの飛んでけ~」


 ジェイラはくしゃくしゃとアルメの頭を撫でてきた。まるで犬を撫でるような豪快な手つきだ。

 

 傷の痛みはファルクの魔法でやわらいでいるのだけれど、この目にたまっている涙は怪我のせいだということにしておこう。 


 看護師による傷の洗いが終わり、水に濡れた手足を布で拭われる。


 処置を受けるアルメの隣にしゃがみ込んで、ジェイラが受付書類にペンを走らせ始めた。


「アタシ書いたげるー。え~っと、名前がアルメ・ティティーで、住所は?」

「すみません……。東地区、三番の三百五です」

「後日支払いだと身元保証人必要だって。家族の名前と住所はー?」

「フリオ・ベアト――……あ……」


 問われるがまま、無意識に名前を口にしかけたところでハッとした。そういえば、フリオの名前を出すことはもう、できないのだった、と。


 婚約を結んでからは、あらゆる手続きの場でフリオの名前を書いてきた。ベアトス家の一員として、夫となる人の名前を記すことが当たり前だったので。


 けれどもう、関係は断たれたのだ。フリオは家族となる人ではなく、ただの他人だ。当然、彼の名前を書くことはできない。


 彼どころか、アルメはもう誰の名前も記すことができなくなってしまった身だ。


 ……祖母が最後の贈り物として、縁談をプレゼントしてくれた理由が今ようやくわかった気がする。

 何かトラブルが起きた時、こういう場面で困ってしまうから、ということもあったのだろう。


 アルメの守りとして、祖母はフリオと縁を結んでくれたのだ――……。


 心の内で苦さを噛み締めながら、訂正しておく。 


「……すみません、保証人はいません……家族がいなくて」

「え、親戚とかは?」

「いません……」

「なんだよ一人ぼっちかよ~! そういうの早く言ってよー。知ってたらうちに引っ張り込んで、打ち上げ強制参加にしてやったのに。――そんじゃ、やっぱ今日はアタシが立て替えとくよ」

「……本当に何から何まで、ありがとうございます……すみません」


 けろりとした顔で笑うジェイラを見て、また目にたまる涙の量が増してしまった。

 

 受付書類の記入を終えると同時に、ファルクが話しかけてきた。厳しかった声音は、どこか揺れたものに変わっていた。


「え、っと、では、治療を始めましょうか。出来る限り眩しくないようにしますが、光が苦手でしたら目を閉じて――」

「あの……白鷹様、」


 ファルクの言葉を遮るようにして、言ってしまった。


「……女性の神官様をお願いしたいです……ごめんなさい」

「承知しました。――ちょうど隣の列も区切りがいいので、隣の患者と場所を交換しましょう。では、移動をお願いします」


 ファルクはすぐに応じて、隣の女性神官に話を通した。流れるような事務的な対応は一瞬で終わった。


 アルメは看護師の補助を受けながら席を立って、隣の女性神官の椅子へと移動する。入れ替わりで、隣の若い女性患者がファルクの前に座ることになった。


 若い女性患者は信じられないというような顔をして、ものすごく嬉しそうな様子でアルメにお礼をしてきた。どうやら白鷹のファンだったようだ。



 席を移り、アルメは隣の女性神官の前に腰を下ろす。神官は優しげな顔をした老婆だった。


 受付書類を老神官に渡しながら、ジェイラがまた説明してくれた。


「この子強盗に襲われて怪我したんだ。しっかり治してあげてほしいっす」

「えぇ、えぇ。お隣でちょっとだけ、聞こえていました。怖い思いをしましたね。よく頑張ったわね」


 そう言いながら、老神官は両手で包み込むように、やんわりとアルメの手を握った。

 シワシワとした手の感触とあたたかさに、祖母を思い出してしまった。胸の奥がきゅっとして、たまらない苦しさが込み上げてくる。


 こらえていた涙が、まばたきと同時にポロリと落ちてしまった。

 

 祖母の面影を感じる老神官を相手に、つい気持ちがこぼれてしまう。


「……私……何も、頑張れていません……ただただ、愚かなことをしただけです。お金を……守ろうとして……どうしようもない馬鹿者です。……でも、このお金がないと……駄目で……っ」


 喋り出すと声が震えた。こぼれ出した涙はもう止めることもできずに、次から次へとあふれてきてしまう。


 本当に、自分はしょうもないことしかしていない。……今に限らず、もうずっと、愚かなことを重ねているように思う。

 

 強盗と揉み合い、金に縋りついて怪我をしたこと。そうせざるを得ないほど、金に焦るような契約を交わしてしまったこと。そもそも婚約破棄のあの時あの場で、上手く動けていたら何事もなかったというのに……。


 いや、それよりさらに前……縁談の顔合わせの時の、拒んでしまった口づけ。あの一件を人に相談して適切に処理していれば、何もかもが上手くいっていたのだろう――……。


 あらゆる選択を間違えて、今どうしようもなく泣いている……本当に、大馬鹿者でしかない。


 深くうつむいて、濡れてくしゃくしゃになってきた顔を隠した。


 老神官はアルメの両手をしっかりと握りしめたまま、穏やかな声音で言う。


「馬鹿者なんかじゃないわ。若い女の子が一人で生活しているだけで偉いじゃないの。失敗は次に生かして、シャンとしていればいいの。頑張っているあなたはとても立派よ。私があなたのおばあちゃんだったら、きっとそう思うわ」


 おばあちゃん、という言葉に、思わず顔を上げた。老神官はまっすぐに目を見つめて、やわらかく微笑む。


「あなたのおばあちゃん、神殿のホスピスに入っていたでしょう? あなた毎日のようにお見舞いにきていたから、よく覚えているわ。お空にいるおばあちゃんが安心できるように、まずはしっかり怪我を治しましょう。そしてまた、おばあちゃんに元気な笑顔を見せてあげましょうね」


 老神官の笑顔に祖母の笑顔が重なって、喉が大きく震える。


 抑えきれずに涙声をもらして、子供のようにボロボロと泣いてしまった。


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