25 フリオのプライド
フリオは市場で昼食をとり終えて、仕事場である図書館の作業室へと戻った。自分の席につき、苦い顔で息を吐く。
館長に怒られて一人部屋から移動になってしまったので、見習いたちも一緒の大部屋だ。常に人の作業の音が耳に入ってきて、落ち着かない作業室である。
仕事の気分転換に、と最近は外で昼を食べるようにしていたのだが、気分転換どころか最低な気分で帰ってくることになってしまった。
まさかあんなタイミングで元婚約者――アルメと遭遇するとは思っていなかった。
遭遇すること自体は、別になんてことない出来事だ。……ただ、まさか男遊びの様子を見せつけられるとは思わなかった。
あの控えめで大人しい女がめかし込み、堂々と男と手を繋いで街を歩くだなんて想像もしていなかったので、動揺してしまった。
年上の弟弟子はフリオをじとりと睨むと、心底面倒臭そうな声で言う。
「フリオ、お前さぁ、なんでわざわざ昔の女に絡むんだよ。放っておきゃいいだろ」
「……うるさいな。一応元婚約者という関係だし、あのまま素通りするのは……」
「あのなぁ、アルメさんにももう別の生活があるんだからな。男と歩いてようが、お前に割り込む権限なんてないんだよ。変な未練でもあるのか知らないけど、軽い挨拶くらいでよかっただろうに」
「未練だと……? そんなもの、あるわけないだろう……!」
「どうだかな。俺は面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだから、明日からは一人で飯に行くことにするよ。またあんなことがあっちゃかなわないからな」
「……勝手にするといい」
弟弟子は作業机に積まれていた本の束を持って、さっさと部屋を出ていった。食休みもとらずに、もう午後の仕事を始めるらしい。生真面目な奴だ。
この弟弟子もそうだが、最近同僚たちの態度がよそよそしくなったように感じる。――最近というか、アルメとの婚約を破棄してから、というべきか。
同僚たちがコソコソとする話は、フリオの耳にももれなく届いていた。
『浮気するような人だとは思わなかった』
『酷いわねぇ』
『アルメさん可哀想だな。良い子だったのに』
そんな言葉ばかり耳について腹立たしい。事情も知らずに勝手な話ばかりして。
(可哀想なのは僕の方だ。好みでもない女と結婚を決められた上に、その女に傷つけられたのだから……)
考えれば考えるほど、胸に満ちてくるモヤモヤとした気持ちに、もう一度深くため息を吐いた。
■
アルメとの縁談は叔父が持ち込んだものだった。
早くに父を亡くしたので、ベアトス家の当主は一応自分ということになっているのだが、実質仕切っているのは叔父である。
なので、そのうち叔父が縁談絡みの話を持って来るのだろうな、とは思っていた。
そうしてついに来た縁談の相手は、ごく普通の庶民の女だった。顔合わせの第一印象で『パッとしない地味な女だな』と思ったことをよく覚えている。
何も目を引くところのない簡素なドレスに、低い位置でくくられた黒髪。酷く緊張しているのか、会話が弾むこともなく、ポツポツと静かなやりとりが続くだけで終わった。
ただでさえ地味な家業を持った家で、一生地味な仕事をしていく身だというのに、妻まで地味な女を迎えることになろうとは……。
顔合わせの茶会で心底ガックリきたのだった。
たまに行く接客酒屋の女たちみたいに、美しく華のある妻を娶れたならば、どれほど良かっただろうと思った。
きっと周囲から、羨ましいという声を浴びるようにもらえただろうに。
叔父が同席する三人での茶会の席だったので、滅多なことは言えなかったけれど、ついポロリと口からこぼれた。
「君はそういう地味……大人しいドレスしか着ないのかい?」
「ええと、申し訳ございません。こういう服しか持っておらず……」
「じゃあもし僕が流行りのドレスを贈ったら、着てくれるだろうか」
「それはもう……! ドレスに着られないよう、精一杯努力させていただきます」
叔父にはたしなめられたけれど、婚約者となる女――アルメは照れたように微笑んでいた。
その笑顔と態度を見て、ふと考えが変わった。
接客酒屋で聞いた話が頭をよぎる。――『女は好きな男の色に染まるものよ』、と。
アルメはどちらかというと初心で大人しいタイプの女だ。そういうタイプほど染まりやすいのだと聞いた。
妻となる女を自分の色に染めて、自分好みに仕立て上げていくというのも良い気がする。そう考えると、パッとしない女でもなんだか愛着が湧いてきた。
アルメは自分のものになるのだ。自分のための女であり、自分の自由にできる女である。妻を娶るのも、なかなか悪くない気がしてきた。
帰る頃にはすっかり気持ちがのってきたので、アルメを馬車で送る役目は二つ返事で引き受けた。
二人きりの馬車の中、相変わらず会話は静かなものであったが、そのうち男との会話の盛り上げ方も教えてやろう、なんてことをのん気に考えていた。
――けれど、自分の気持ちはすぐに打ち砕かれることになったのだった。
親しみの証としてキスの一つでも贈ってやろうと思ったのに、アルメは力一杯拒んできたのだ。
今まで接客酒屋の女たちにもキスを贈ったことがあったが、拒まれたことなど一度もなかった。皆キャーキャー言いながら嬉しそうに受け入れていたというのに。
店の美しく華やかな女たちが喜ぶものを、この地味女は拒否してきた。――この女のとんでもない気位の高さが透けて見えた瞬間だ。何様のつもりなのだろう、と唖然とした。
同時に、酷く傷ついた気持ちになった。自分にも男としてのプライドがある。こんな女に拒まれるなんて、酷い恥をかかされた心地がした。
それからはすっかり気持ちが萎えて、アルメとは距離を置くようになった。
結局予定通りに婚約が結ばれてしまったが、もう女として接してやらないことに決めた。
男のキスを受け入れなかったのだから、女として愛されたくないのだろう。――じゃあ望み通り、そうしてやるさ、という気持ちで。
アルメは自分の後ろをついてまわったり、仕事に手を出してきたりしたが、今更媚びてきても応じるつもりなどない。
(そうやってずっと、報われない媚でも売っておけばいい。……まぁ、涙の一つでも見せて、縋りついてきたら考え直してやらないこともないが)
そう思いながら半年程度、自分のまわりをうろつく婚約者を観察してきた。
けれどある日、その関係を終わりに導く出会いがあった。
気晴らしに行った宮殿広場の夜会で、素晴らしく自分好みな娘と縁ができたのだ。華やかな容姿に守りたくなるような可憐さを備え、気持ち良くお喋りができる楽しい娘。
まさに夢見ていたような女だった。
その女――キャンベリナとは密やかな逢瀬を重ね、互いに燃え上がるような恋に落ちた。
そしてついに結ばれるに至ったのだった。
アルメや叔父にはなかなか話すタイミングが掴めずに、延ばし延ばしになってしまったけれど、あの日、どうにか婚約を破棄できて良かったと思う。
アルメの気落ちした様子を見た時、勝った心地がした。顔合わせの日に傷つけられたプライドが、ようやく癒えたように感じたのだった。
――そう思っていたのに。
今日、その癒えかけた傷は、またアルメにえぐられてしまったのだった……。
昼の市場で偶然遭遇した時、アルメは知らない男と親しげに手を重ねて、肩を抱かれることを許していた。
きっとそういう、男女の関係なのだろう。……どうせ男側の気まぐれな、庶民女遊びだと思うけれど。
……とはいえ、あの男とはいつからそういう関係なのだろう、と、どうにも気になった。ずいぶんと親しげだったので、もしかしてもう長いこと――自分との婚約中から関係があったのではないか。
そう考え出すと、胸がチクチクと痛んだ。
そして腹立たしさが込み上げてきた。自分ばかり浮気だなんだと白い目を向けられたが、同じことをしているじゃないか、と。
市場ではイラつきに任せて、つい突っかかってしまった。
そのあと相手の男に制されたのは予想外だったけれど……。あまりにも屈辱的で、もう思い出したくもない。
思い返せば婚約してすぐの頃、アルメは仕事場の廊下の窓から、熱心に軍の行進を眺めていたことがある。
今日一緒にいた相手も、背が高くて騎士のような体格をした男だった。……自分とは違って。
(……きっとアルメはそういう見目の男が好きな奴だったんだ。だから僕を拒んだんだ……くそっ、馬鹿にしやがって!)
あの男に比べると、自分は線の細い方である。体格で男を選り好みするなんて、なんて酷い女なのだろう。
好みであろう男と一緒にいるアルメは、自分といた時よりずいぶんと可愛らしい格好をしていた。
自分の前では地味な装いしかしたことがなかったくせに。きっとアルメは自分のことを、そういう相手になる男として見ていなかったのだろう。
今日、そのことに気が付いてしまった。自分はずっと彼女に
――そういう事情があるというのに、周囲の目は自分に冷たい。
アルメの方がよっぽど自分を傷つけているというのに、こちらが悪者のようになっていることが腑に落ちない。
婚約を破棄して別の相手と結び直したことを告げると、叔父には大袈裟なほどに怒られ、酷くあきれられた。
『もう知らん。自分の尻ぬぐいくらい自分でしろ』なんて吐き捨てられ、それ以降、叔父のベアトス家への介入が薄くなった気がする。
今まで叔父が行ってきた家の事が、途端に当主である自分へと降りかかってきた。
叔父が手を引いたことを母は喜んでいたが、自分としては複雑だ。家の切り盛りに興味が持てず、面倒に感じられたので……。
作業机に頬杖をつき、苛立ちのままにボソリと呟いてみる。
「むしろ僕の方が慰謝料を受け取りたいくらいだ……」
ふと、口に出してみて、今更ながらハッとした。
あの日アルメとの話し合いで、慰謝料として借金を帳消しにしてやったが、はたしてそんなこと必要だったのだろうか、と。
(――そうだよ、僕の方がずっと深くアルメに傷つけられているし、面倒事をこうむっている。そんな相手に対して謝る必要なんてなかったんじゃないか? なぜ借金をチャラにするなんて話、持ち出してしまったんだろう)
考え始めると、止まらなくなってきた。
あの婚約破棄をした日は気分が高揚していて、深く考えずに話を進めてしまったように思う。今思うと、被害者はむしろこっち側なのでは、という気持ちになってきた。
(あの日の話し合いで書面は交わしていない。金の話はただの口約束でしかないんだ……! ――なら、借金をチャラにする話は無しにしてやる! それが正しい処遇だろう!)
ふむ、と一人で深く頷いた。ざまぁみろ、という気持ちが心によぎる。
アルメの借金は確か七十万
その額を請求したら、アルメは自分に泣いて縋るだろうか。『お願いします、助けてください』と。
早速手帳を取り出して予定を確認した。話をしに行くのはいつがいいだろうか。
できれば母とキャンベリナを伴って行きたい。
自分は咄嗟の場面に少々弱いのだが、口のまわる母がいれば万が一の時に安心だ。
――またアルメの連れの男が出てきた時には、気の強い母に対応を任せれば大丈夫だろう。
それにキャンベリナもいれば、さらに心強い。キャンベリナは貴族令嬢の身分があるので。
アルメの男も貴人めいた態度をとっていたけれど、所詮は遊びの関係だろう。金絡みの面倒事、さらには貴族も絡んだ揉め事で、わざわざ遊びの女を庇うとは思えない。
アルメと男は遊びの関係――あっという間に切れる細い縁でしかない。対する自分とキャンベリナは、婚約者という強固な縁で結ばれている。
どちらが後ろ盾として確かな強さを持っているかなんて、言うまでもない。
手帳をめくって予定を確認していると、ページの間にはさまっていたポストカードに指が触れた。
ちょっと前に同僚が持っていたものを拝借したものだ。仕事の書類と共に机に置かれていたので、なんとなく手に取ってしまったのだった。
アルメ・ティティーのアイス屋、オープンの知らせのポストカード。
「店には興味なんてないが、借金のカタにはちょうどいいな」
ポストカードをしおり代わりに手帳にはさんでおく。
話し合いに行く日は、一番近い休みの日に決めた。