2 白紙の未来と人助け
図書館の外に出た途端、眩しい日差しが降り注いだ。
ここは『副都ルオーリオ』という、王都に次ぐ大都市だ。一年中暖かで過ごしやすく、花と緑にあふれた観光客にも人気の街である。
街の賑わいが風に乗って耳に届く。威勢の良い商人の声に、馬車の音。子供の笑い声に多くの人々の話し声。
賑やかな音に吸い寄せられるかのように、アルメはフラフラと大通りへ向かって歩き出した。
人混みの中をぼんやりと進んでいく。
(なんだか現実感がないわ……。さっきまでの修羅場、幻覚だったんじゃないかしら……)
街はいつも通り明るく活気にあふれていて、先ほどの昼ドラのようなベタベタな浮気劇なんて、嘘だったんじゃないかと思えてくる。
――『昼ドラ』というのは、前世にあったテレビ番組のことである。
アルメは前世では、この世界の人間ではなかった。
日本という国で会社員をする女性だったのだが、夏場の通勤途中に意識が朦朧としだして、そのまま命を落としてしまった――ような記憶がある。このあたりは酷く曖昧だ。
恐らく暑さにやられてしまったのだろう、と思う。朦朧として倒れた後、光に包まれて女神のような人に会った覚えがある。
そこで女神に向かって、『暑い……氷を……氷をください……何か冷たいものを……』と呻いていたように思う。
その願いが聞き届けられたのか、今世において『氷の魔法』の才能を授かった。
魔法を使える人間は、この世界でもそう多くはない。魔物と戦えるような大きな魔法を使える人間となると、ほんの一握りほどである。
ほとんどの人は、ちょっと指先が光ったり、毛先をそよがせる程度の風を起こしたり、と微々たる魔力だ。
アルメの氷の魔法はそこそこだ。中の下、くらいの魔力を持っている。バケツ一杯の水くらいなら、集中すればすぐに凍らせることができる、という程度。
大した才能ではないけれど、それでも、今後の生活で魔法の才能は大きな武器になるはずだ。もちろん、仕事をして収入を得るという部分において。
通りをゆっくりと歩きながら、今後のことを頭の中で整理する。
(フリオの仕事を手伝っていく予定だったけど……こんなことになってしまったから、まずは仕事を探さないとね。氷の魔法は希少だし、私程度の微妙な魔力でも、最悪王都まで行けば何かしら仕事は見つかるはず。ひとまず食いっぱぐれることはない……と、思いたいわ)
この世界で就活をしたことがないので、実際のところどうなのかは定かではないけれど……前向きに考えておこう。
(仕事の他には、引っ越し関係をキャンセルして、結婚準備のあれこれも白紙に戻して――……)
諸々の確認をしようと、鞄から手帳を取り出そうとして、ふと手を止める。鞄の中には、今日の荷物の主役――綺麗な平たい箱が収まっていた。
その箱を取り出して開けてみる。中身を見つめながら、自嘲の笑みを浮かべてしまった。
「……すっかり忘れていたわ。婚約から半年の節目だから、今日フリオにプレゼントを贈るつもりだったのよね……」
箱の中には水色のスカーフが入っていた。
この世界の恋人たちはよく贈り物をし合うので、アルメも婚約半年というこの日を狙って、プレゼントを用意してみたのだ。
贈るどころか、婚約自体消し飛んでしまったが……。せっかくちょっと良い品を選んだというのに。
「うん……忘れましょう……ごめんね、スカーフさん」
そっと箱を閉じる。行くあてのなくなった哀れなスカーフを、鞄の一番深くへと押し込んでおいた。
あれこれ考えながら、ひたすら通りを歩いていく。
前世で例えると初夏くらいの日和だけれど、日差しの下を長時間歩いていると、さすがに結構暑くなってくる。
手のひらにわずかに氷魔法を発動させて、パタパタと首元を仰ぎながら歩く。こういうことができるので、氷魔法は素晴らしい。光の女神に感謝したい。
大通りから脇道に入って、さらに路地に入っていく。
いくらか歩いたところで、いくつもの路地が繋がる小広場へと出た。この小広場に面した家の一つが、アルメの家だ。
そこそこ洒落た外観の、二階建ての家。居住部分は二階で、一階は物置として使っている。
昔祖母が元気だった頃は、一階を店舗として使っていた。観光客や地元の人々に愛される、フルーツジュースの店だった。
アルメもよく魔法を使って、ジュースを冷やす手伝いをしていた。祖母との思い出がたくさん詰まった、大好きな家だ。
……結婚に伴って手放す予定だったのだけれど、また長くお世話になりそうだ。
そんな我が家の正面――小広場の真ん中には、一本の大きな木と花壇がある。その花壇の手前に、周辺の地図と案内板が設置されている。この看板は迷い人用だ。
副都ルオーリオは路地が入り組んでいて、迷路のようになっている。その散策が観光客に人気らしいけれど、迷ってしまう人も多い。
このあたりの路地で迷った観光客は、大体この小広場に流れ着いてくる。この街は大昔、戦争の多かった時代に作られたので、なにやら戦術が関係しているそう。
平和な今の時代には、もっぱら店や商人たちが集客に上手く利用している。祖母のジュース屋も、路地奥の店ながら結構繁盛していたのだった。
複数人の観光客が案内板の地図を見て、あれこれ喋りながら散っていく。
小広場では今日もいつも通りの光景が繰り広げられていた。
――が、一人だけ、いつもとは違う雰囲気の人がいた。
背の高い男性が、じっと地図を見つめたままいつまでも動かずに立ち尽くしていた。
(あら? あの人、観光客じゃないのかしら?)
なんとなくだが、観光客のような浮ついた雰囲気を感じない。日常的にこの小広場に来る人々を見ているので、勘が働いた。
散策の観光客でなければ、単純に迷って困っている人なのかもしれない。
歩み寄って、男性に声をかけてみた。
「あの、何かお困りですか。道をお教えしましょうか?」
背の高い男性は見下ろすように顔を向けた。
その男性の容姿に、一瞬面食らってしまった。あまりにも整っていたので。
髪と瞳の色は、ありふれた濃い茶色。特に目立つ色でもない。――はずなのに、全体的に美しく整った容貌によって、なんだかすごく華やかに見える。
……けれど、そんな容姿の美しさが台無しになるくらい、滝のような汗をかいているのだった。この土地の気候に慣れていないのだろうか。
男は苦い顔をして、掠れた声を返してきた。
「地元の方ですか? 教えていただけるとありがたいです……。路地にうとくて、迷ってしまって……この場所に行きたいのですが」
男は手元の手帳を見せて、目的地を指さした。彼の目指す場所は、知る人ぞ知る老舗の薬屋だ。この薬屋は地上ではなく地下にあるので、ものすごく難易度の高い場所にある。
ふむと唸って、説明する。
「この薬屋さんは地下街にあるので、地上の地図だけを見ているとたどり着けないんです」
「なんと……この街は地下街まであるのですね」
「えぇ、地下の方が涼しく移動できますが、地下は移動の難易度が高いです。なので、地上の道で案内すると、この路地をこうたどっていって、ここで曲がってこちらの広場からこっちの路地に入って――……」
案内板の地図を指でたどりながら、道を教えていく。――が、説明し終えたところで、ハッとして謝った。
「あっ、すみません。道順を描いて差し上げるべきでしたね。気がまわらず……」
察するに、彼はこの街に来て間もないようだ。地元民を相手にするようにペラペラ喋っただけでは、結局また迷ってしまうだろう。
そう思って地図を描いて渡そうと思ったのだけれど、男はあっさりと返事を寄越した。
「いえ、覚えました。ありがとうございます」
「ええと、でも、道中また迷ってしまったら大変なので」
「大丈夫です。地図も大体頭に入りましたし」
そう言うと、男はアルメが喋った迷路のような道順を、正確に指でたどってみせた。記憶力の良さに思わず目を丸くする。
「地元民でも、一度でたどれる人はそういないのに。すごいです」
「あなたの説明がわかりやすかったからです。心から感謝いたします。――では、道をたどってみます。ありがとうございました」
「どうぞ、お気をつけて」
会釈をすると、男は路地の奥へと歩いて行った。
彼は最後に少しだけ笑みを見せてくれた。控えめで、ぎこちない笑い方。
あんなに綺麗な顔をしているのに、笑顔の作り方が妙に不器用で、なんだか可笑しくなってしまった。
上手な笑顔を作れたならば、婦女子たちが倒れるくらいに綺麗な顔をしているのに。実にもったいない。
(あの人が無事に目的地にたどり着けますように)
迷い人の健闘を祈りつつ、自宅へと歩を進めた。
家に入って、一階の元店舗のカウンター席に座る。
テーブルに頬杖をついて、ふぅ、と、深く息を吐いた。
一息ついたところで改めて、今さっき自分の身に起きたことを振り返ってみる。状況を整理するため、ぶつぶつと独り言を呟きながら。
「……婚約半年のプレゼントを持って、フリオの職場に行ったら浮気をしていた。そして話し合いの末、婚約破棄。慰謝料として借金が帳消しになって、解散。この先の予定は未定……」
鞄からおもむろに手帳を取り出し、パラパラと開く。手帳には予定がびっしりと書かれている。
フリオの仕事の予定や、自分が手伝う日。彼の家に引っ越しする日。この家を売る予定。結婚式の日。そして未来の予定まで。
「結婚して彼の仕事を手伝いながら、二十代のうちに子供を産んで――……って、もう全部、何もかも白紙ね」
手帳の予定表を豪快に破って、ポイと丸めて捨ててやった。もう未来の予定はぽっかりと、空白になってしまったから。
カウンターに突っ伏して、天にいる祖母に向かって泣き言を言う。
「はぁ……おばあちゃん、私の未来がどうなるか、空の上から教えてよ……」
子供の頃からアルメは、この席に座って仕事中の祖母とお喋りをしてきた。今みたいに泣き言を言ったり、愚痴ったり、はたまた笑い話をしたり。
祖母はアルメを相手にしながらもテキパキと働いて、他にも色んなお客に声をかけてまわっていた。人との交流が好きな人だったのだろう。
店の客だけでなく、外で迷い人らしき人を見かけると、すぐに助けに行っていた。ちょうど今さっき、アルメが男性に道案内をしたように。
ぐったりと脱力したまま、ぼんやりと祖母のことを想う。
――しばらくそうしていたら、ふと思いついた。
「お店屋さん、私もやってみようかなぁ」
祖母はジュースを飲んだ客が笑顔になるところを見るのが好きだったらしい。その気持ちは、自分にもよくわかる。
さっきの男性が最後にチラッと見せた笑顔を思い出す。人の笑顔を見ると、なんだかほっこりするものだ。
浮気に婚約破棄というショックな出来事も、あの男性が見せてくれた笑顔で少しばかり癒された気がする。
立ち上がって、物置と化している部屋の一角から、木の板を引っ張り出した。椅子の座面ほどの大きさのこの板は、祖母の店の看板だ。
適当な布で埃を拭うと、ペンキで書かれた『ティティーの店』という文字が綺麗に見えた。
「うん、綺麗だし、このまま使えそう。『人生は気楽に』よね、おばあちゃん。私やってみるわ!」
『人生は気楽に、愛は真心のままに』。これは祖母が生前好きだった歌だ。よく口ずさみながら仕事をしていた。この地方の古い歌らしい。
自分もこの歌にならって、そして祖母をならって、ひとまず気楽にやってみようと思う。
未来の予定がないということは、自由に何でもできるということなのだから。