狂気
(3/2回目)
オーガであるトリスシアは、自身の回復を待っていた。
自己治癒に自信があったが、相手の物と比べると圧倒的に負けている。
どんなに体が壊れていようが戦い続ける自信はあった。
オーガであればそれが正しい。臆することなどあってはいけない存在なのだ。
それでも……その人形の表情のままポロポロと涙を溢し続ける様子がむしろ恐ろしい。
(アタシが気圧されているのか?)
考えると全身がゾクゾクして激しい興奮を覚える。
このつまらない世界に来て5年……ようやく巡り合えた標的だ。
元居た世界でも彼女は強者として君臨していた。
異端であったが、それでも自身の強さで他者をねじ伏せて支配していたのだ。
そんな自分をごく普通の人間にしか見えない娘が相対している。
この状況で興奮しない方がおかしい。
「どうした! ユニバンスの化け物! 来いよ……アタシと殺し合おうじゃ無いか!」
全身に力を巡らせ、一歩踏み込んだ彼女は……反射的に遠のいていた。
何故逃げた?
自問した答えには、その目に映る異様な気配が原因だとしか言えない。
赤黒い目をし涙を流す人形が……その瞳を妖しく揺らしていたのだ。
(何だ? あの目は?)
言いようの無い気配。
今にも目の中で回り出してしまいそうなほど揺れている赤黒い瞳に……トリスシアは警戒を強めた。
と、
「クスッ……あはははは」
人形が笑いだした。壊れた玩具の様にだ。
何が起きてる?
激痛に身を震わせて向ける視線の先には……ノイエの背が見える。
でも違う。今の彼女は何かが違う。
何が?
不気味に笑う声なんてどうでも良い。そんな日もあるのかもしれない。
ビクンビクンと全身を震わせているのは、慣れない笑みに体が拒絶してるだけかもしれない。
何が違う?
あ……アホ毛が無い。
感情のバロメーターである彼女のアホ毛が無くなっている。
「アルグスタ様! 隊長が変ですっ!」
茂みの中から復活して来たルッテが、僕の体を支えながら言う。
「ああ……頭の触覚みたいな毛が無くなってる」
「ってそっち? 笑ってるんですよ! 隊長が!」
焦って体を揺さぶら無いで。腕が……腕が。
「とりあえずここから離れよう。馬は?」
「呼んでますけど中々戻って来ないんです」
時折指笛を使って馬を呼んでるみたいだが、あの二人が睨み合ってると無理かな?
どうする? このまま留まった方が、
『逃げなさい。今直ぐ』
その声にルッテも反応する。って、彼女も祝福持ちだったね。
『あれはファシー。血みどろファシー。彼女が出て来たら貴方たちも対象になるわ』
どんな気まぐれだ? 僕を助けようだなんて……嫌いなんだろ?
『ええ。大っ嫌いよ。でも……今死なれると困るのよ』
「あの? アルグスタ様?」
こっちの様子を窺って来るルッテにも僕の声が届いたのか?
まあ良い。今は大して重要じゃない。
ノイエの髪は? どうして消えた?
『……あれは封印。彼女の髪を玩具にしていた者が気まぐれで刻んだ封印』
封印だって?
『そう。その封印が外れている。今の彼女なら……この国くらい簡単に滅ぼせるわ』
冗談はうちの馬鹿兄貴のずさんな計画ぐらいにしてくれよ。
必死の思いで立ち上がると、戸惑いながらやって来た馬をルッテが捕まえた。
『正気に戻しなさい。貴方が本当に彼女を愛しているのなら』
一方的に告げて声が消える。
何て言うか気配が遠ざかった感じだ。
「アルグスタ様? あの~」
「元王子の権限で、今のことは全部忘れて。もし破ったら裏から表から手を回して結婚出来なくさせてやるから」
「…………馬も戻って来ましたし逃げましょう」
晴れ晴れとした表情でそう言って来た。
この世界の女の子ってそんなに結婚することが大切なのかな?
左腕の激痛に目を回し、ルッテにお尻を押して貰ってどうにか馬に乗ると……僕はそれを見た。
笑い歩くノイエと防戦一方のオーガだ。
ノイエが近づく度にオーガの皮膚が弾けて鮮血が溢れ出す。あれは近づけない。
だがオーガは地面で足を踏ん張り、上半身を捻って拳を放つ。
硬く握られた拳の皮膚が弾けて血が舞うが……その勢いは少しも止まらずノイエを殴った。
後方に吹き飛んだ彼女は、ただただ笑う。笑い続ける。
あれは……ノイエじゃない。僕の知るノイエじゃない。
「アルグスタ様。どうしますか?」
僕の後ろに跨り手綱を握るルッテは、どうすれば良いのか判断出来ずにいる。
本来の隊長はあっちであんな状態だし、最高責任者は嫌でも僕になる。
何より僕らが傍に居ると彼女は全力を出せない。
「逃げよう」
「良いんですか?」
「ノイエなら僕が呼べば必ず来る」
「なら」
手綱を操り馬を動かそうとした瞬間、僕は横から強い衝撃を受けて馬上から転がり落ちた。
「逃がさないよ。黙ってそこで死んでな。まったく……折角楽しくなって来たんだ」
「くぅ……」
「アルグスタ様っ!」
「来るなっ! そのまま行けっ!」
手綱を操り戻ろうとする彼女にそう叫ぶ。
一瞬の躊躇を見せてルッテは馬を操り走り出した。
これで良い。王都からこっちに向かって兵士が出て無かったら各方面に文句を言ってやる。
また口の中に血の味を覚えつつ……凄い力で握られた。
「どうだ! お前の主人ごと切り刻めるのかっ!」
「……多分するよ」
「なに?」
「あれはノイエじゃ無いから」
同時に激痛が背中に走った。
「あ~っ!」
「正気か!」
オーガが腕を引っ込めてくれたから、数回刻まれただけで済んだ。
たぶん術式の類だ。それが分かったところで僕に対処する力は無い。
「あはは……みんな死ねば良い。みんな。みんな。みんな刻まれて死ねば良い」
狂ったように笑うノイエらしき者が、四方八方に見えない刃を飛ばす。
これ死んだな……と思ったが、僕に刃は届かなかった。
「とんでもない化け物だね。あれが嫁って……毎日が楽しそうだね」
「うん。結構楽しいよ。……今はちょっとあれだけどね」
「皮肉を真に受けるんじゃないよ」
僕を庇ったオーガが塊で血を吐く。
良いんです。頭上でそんな物を吐かれたら……ねぇ?
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