35
アナベルさんは山の向こうへと消えていった。
ワナカーンを覆っていた霧は吹き下ろしてくる山風によって次第に麓の方へと流れて行く。視界が開けるのは久しぶりだ。
「た、助かったのか!?」
「……どういうこと」
「死んでなかった!ガバッ」
「…………」
腰を抜かしていた4人がそれぞれに驚きを漏らす。いや、ジャックだけは珍しく無言か。
「……ノエル、ドラゴンと見つめ合ってた。何があったの?」
「うん、それがね」
僕はアナベルさんとのやりとりを説明し始めた。話が鱗を貰ったことに至った時、ジャックが吼えた。
「ソコマデデス!のえるサンノ偽者!」
第二指骨で僕をビシッと指差すジャック。
「どらごん相手ニオ礼ヲネダッタ?へたれノのえるサンガ?馬鹿ヲ言ウンジャナイ!」
「どうした、ジャック」
「オヤァ?疑ワレテルノニ随分ト落チ着イテマスネエ」
ジャックの眼窩が怪しく光る。
「ダイタイどらごんト相対シテ、へたれノのえるサンダケ腰ヲ抜カサナイトカ、アリエナイノデスヨ!」
僕は黙って最後まで言い分を聞き、思いっきりジャックの腰骨を蹴った。
「オオウ!コノ蹴リハ正真正銘のえるサン!」
何なんだ、まったく。
霧から解放されたワナカーンはその情緒溢れる全貌を明らかにしていた。
レイロアでは見ない造りの建物の数々。ひときわ大きい木造の建物が唯一の旅館、小白屋だろう。あちらこちらから湯煙が立ち上ぼり、そこに温泉があることを知らせる。ワナカーンの入口の前には何人もの湯治客が集まっていた。
「おい、誰か来たぞ」
「お前達、冒険者か?」
「一体何があったの?」
口々に質問してくるが、まずはお偉いさんに報告する必要がある。
「すいません、まず責任者に話したいのですが」
「ああ、すまない。ワナカーンの責任者はあそこだ」
いかにも冒険者といった筋肉質な湯治客が小白屋を指し示した。
ワナカーンの中に入ると硫黄の臭いがむわっと鼻をついた。嫌な臭いではあるはずなのだが僕は嫌いではなかった。
小白屋は近くで見るとまるで異国の建物といった雰囲気だった。その玄関らしきところから入ろうとするが押しても引いても扉が開かない。見かねたキリルとトリーネも参加して3人で思い切り押そうとした時、さきほどの湯治客が割って入った。
「待て待て!これは、こうするんだ」
言いながら扉を横へ滑らせた。なるほど、こういう造りなのか。少々気恥ずかしい気持ちになりながら建物に入ると、髪をお団子にした作業着の女性が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。5名様でよろしいですか?」
「いや違うんだナンデモットさん。こいつらは外の霧の事でソットジットさんに話があるそうだ」
「そうでしたか。では呼んで参りますので少々お待ち下さい」
パタパタと足音をたてながら奥へと走っていった。
「すいません、何から何まで」
僕は件の湯治客にお礼を言った。
「いいさいいさ。霧には俺達も困ってたんだ。何せ逗留してる客のほとんどが後遺症持ちだからな。あの霧じゃ下山出来ねえ」
そうか、湯治客が来れないだけじゃなく帰れない状態だったんだな。
「小白屋はツケが利くつっても限度があるしな。20人くらいの大規模パーティ組んで下山を強行しようかなんて話してたところさ」
その後も霧の中の露天風呂も乙だったとか、霧と勘違いして高熱の蒸気に突っ込んだ馬鹿がいたとか、のべつまくなしに雑談が続く。相当な話好きに捕まってしまったようだ。
僕達は目的の人物の訪れで解放されるまでひたすら相槌を打ち続けた。
「お待たせした。儂が小白屋の主、ソットジットですじゃ。ワナカーン湯治場の長でもありますじゃ」
「初めまして。俺達は霧の調査を依頼されたパーティです」
代表してキリルが事の顛末を話す。ミストドラゴンとの会話の部分だけ僕が引き継いだ。
「ミストドラゴン……にわかには信じられぬが」
「いや、湯治客には飛んでいく白いドラゴンを見た奴も多いぜ。何せ霧が晴れていくんでみんな久々に空を見上げてたからな」
「ふんむ」
ソットジットさんはその霧のように真っ白なヒゲをさすりさすり考え込む。
「……ミストドラゴンも訪れる温泉地!これじゃな」
どうやらキャッチコピーを考えてたようだ。
「主らには世話になったのう。霧騒動で部屋も空いておるで一泊していきなされ。せめてもの礼じゃ」
僕達はソットジットさんの申し出をありがたく受けることにした。ほぼ徹夜状態で疲れていた。
「うおぉー」
「スゴイデスネ」
通された部屋はその名もドラゴンの間。
かなり豪華な部屋だが、ミストドラゴンを退けた僕らにふさわしいと用意してくれた。退けたと言うのはちょっと違う気がするが。
部屋は軽く20人はくつろげそうな広さで、部屋付きの露天風呂まで備えていた。そして僕は今、キリルとジャックと並んでその露天風呂の前にいた。
「もはや池だな!」
キリルが真っ先に飛び込んだ。
「体クライ洗ッテ入リマショウヨ……」
ジャックは石鹸を泡立てて頭蓋骨を洗い始めている。
「お風呂なんて何時ぶりかなあ」
よほどのお金持ちか貴族階級でもない限り、家に風呂など無い。僕の家にも当然無いし、入った事あるのは公衆浴場だ。
僕は軽く体を流し、湯に浸かった。
「ああああぁぁ……」
「声でちゃうよな」
キリルが僕を見ておかしそうに笑った。
竜を象った造形物の口からお湯がドバドバと流れ出て湯船を満たしている。お湯を出しっぱなしというのは贅沢この上ない。
「ヨッコイショ」
ジャックが恥骨を押さえながら湯に入ってきた。
「フアァァ……コレハ骨身ニ染ミマスネエ」
「出汁が出るぞ出汁が」
「やめろよなー、骨で出汁をとるとき思い出すだろ」
キリルは困り顔で笑みを浮かべている。
「極楽極楽」
「午前中ハホントニ極楽ヘ行クカト思イマシタガネ」
「確かになー」
「ちょっとー、まだー?ハヤクハヤク」
「……代わって」
脱衣所のほうからトリーネとブリューエットの声が聞こえた。
「今、浸カッタトコナンデスガ」
「仕方ない、出ますか」
「あー、早く夕食来ないかなー」
キリルはドラゴンの間限定の竜王会席コースを心待ちにしているようだ。料理人魂をくすぐるのだろう。
脱衣所から出ると準備万端の2人が今か今かと待ちわびていた。
「……覗いちゃダメ」
「ダメー!ビシッ」
「わかったわかった」
「覗かねーよ!」
僕とジャックは窓辺のイスに腰掛け風に当たる。
心地良い風だ。
キリルは料理はまだかと廊下を覗いている。
ふいに露天風呂の方から声が響いてきた。
「……ふうぅぅぅぅ」
「ふあぁぁぁぁ~」
僕らは顔を見合わせた。
「声でちゃうよな」
キリルは先程よりもおかしそうに笑った。
「でちゃうね」
「デチャイマスネ」
僕とジャックもおかしくて笑ってしまった。
窓辺から湯治客の行き交う景色を眺める。
夕焼け迫るワナカーンはその湯けむりさえも赤く染まっていった。