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「ママっ!」
リックがベッドに駆け寄った。
「ああ、リック……良かった……」
ベッドに横たわる女性がリックの顔に手を伸ばす。
ずいぶんとやつれている様子。
体を起こせないほど弱っているようだ。
すぐに鑑定してみたが、病ではない。
過労、心労ってところだろう。
「僕は司祭のノエルと申します。……ちょっと失礼します」
僕はベッドの横に膝をつき、リックママに『ヒール』を唱えた。
「回復魔法です。怪我用の魔法ですが、多少は疲労にも効果があると思いますので」
「まあ。……何だかいい心地です。ありがとうございます」
リックは僕の手から放たれる光を見て、ずいぶん驚いていた。
「ノエル兄ちゃん、僧侶だったのか!」
「司祭。まあ、似たようなものだけど」
『ヒール』が効き、リックママの頬に赤みが差す。リックママはベッドに手をつき、ゆっくりと体を起こした。
「お陰様で少し楽になりました」
「良かった。でも、ご無理はなさらずに」
リックママはふるふると頭を振り、僕に体を向けた。
「いえ、お礼を言わせてくださいませ。リックを送り届けてくださり、その上私の治療までしてくださり。本当にありがとうございました」
そう言って、深々と頭を下げる。
「いえ、たいしたことはしてません。……リックから家のこと聞きました。彼はそのためにイシュキーヴでお金を稼ごうとしていました」
「……そうでしたか」
複雑な表情を浮かべるリックママに、リックが目を剥いて叫ぶ。
「ママは騙されてるんだよ!あの男は詐欺師だ!パパが借金なんてするわけない!」
するとリックママはあっさりと言い放った。
「……何を言ってるの。わかってるわよ、そんなこと」
「へっ?……そうなの?」
唖然とするリックをそのままに、リックママは僕に向かって語り始めた。
「あの男……ヒズは、あの土地を夫の持ち物だと思いこんでいるようでした。でも実際は、私が両親から受け継いだ土地なのです。その私さえ知らない土地の権利書なるものを、夫が持っているわけがありません」
リックは先祖代々の土地と言っていたが、母方のほうの
リック自身も初耳だったようで、目を丸くしている。
「……旦那さんが勝手に土地の権利書を作って、借金の担保にした可能性は?」
「ありえません。だって、あの人は――」
リックママは言葉を詰まらせ、そして困ったように笑った。
「――あの人は、ややこしいこととか、細かいことがまったくできないんですもの。役所で手続きするなんて、絶対無理ですわ」
「……なるほど」
船乗りでややこしいことが苦手。
日焼けした顔で豪快に笑うリックパパの姿が眼に浮かんだ。
「では、詐欺だとわかってて家を買い戻すおつもりなのですか?」
「もちろん、そうしたくはないのですが。……ヒズと話したあと、私は大急ぎで役所へ向かいました。そもそもこの土地の権利はどうなっているのか、不安に駆られたからです。その結果、あの土地は確かにヒズの名で登録されていました」
リックがまたも目を剥いて叫ぶ。
「ええっ!?じゃあ、あの権利書は本物だっていうの!?先祖代々の土地なんでしょ!?」
「偽物だけど本物、なのかしらね」
リックママは困り顔で笑った。
「役所の方が言うには、麓のベルシップ市街地は土地の権利もきっちり管理されているそうです。でも、ここのような山肌を切り開いた土地は権利が曖昧な状態なのだと」
「はあ……よくそれで今まで問題が起きませんでしたね」
「ここは移動の便が悪く、それこそ先祖代々住む者にしか価値がない土地ですから。好き好んで手に入れようとする人はいないのです」
「ソノ思イ込ミニツケコマレタワケデスナ」
「じぇろーむサン、ソンナ言イ方ハ――」
「いえ、その方のおっしゃる通りです。加えてうちの家族は母子二人ですから。与しやすいと考えたのでしょう」
ふと、ジャックが首を傾げた。
「デモ、ソレッテひずガ書類ヲ偽造シテルノデスヨネ?ダッタラソレヲ明ラカニスレバ――」
「私も役所の方へそう訴えたのです。でも、権利はヒズの手に移る前に何人もの人の間を転々としていて、追うことができないと」
「ソンナ……」
リックが我慢できずベッドを叩く。
「でも……でも!あそこはオイラ達家族の土地だ!権利書だって偽物だ!」
ルーシーもリックに倣ってベッドをバンバン叩く。
「そうだ!ルーシーのとちだ!」
「ルーシー、それはちょっと違う……」
「ダイブ違イマスヨ、のえるサン」
「そう?」
「ゴ主人様」
ジェロームが僕にだけ聞こえるように言った。
「助ケテヤルオツモリデスカ?」
「そうしてあげたいと思っているけど……ジェロームは反対?」
「ゴ主人様ノオ決メニナルコト。反対ハ致シマセン。致シマセンガ、ドウセナラバ――」
「――なるほど、悪くないね。でも今その話を持ち出すのは嫌だな」
「解決シタ後デヨロシイカト」
「わかった、そうする」
僕はジェロームとの密談を終えるとリックに近づき、彼の肩に手を置いた。
「手伝うよ、リック」
「ノエルさん、そこまでご迷惑はかけられませんわ」
リックママは眉を寄せて首を振るが、リックが彼女の服を掴んで抗議した。
「ママ、諦めたの!?あそこは先祖代々の土地だって。とても大事な場所なんだって、いつも言ってたじゃないか!それを騙し取られて悔しくないの!?」
「悔しいに決まっているでしょう!!」
ことあるごとに叫ぶリックにも静かに対応していたリックママが、初めて大声を上げた。
「……皆で守ってきた土地をこんな風に失うなんてご先祖様に申し訳が立たないわ。父様や母様がどんなに悲しむか。あの人だって……ううっ」
そして、顔を両手で覆って泣き崩れた。
リックは母親の様子にショックを受けたのか、固まって動かない。
僕はリックママに顔を寄せ、耳元で囁いた。
「お役に立てるかわかりませんが、全力を尽くしますので」
するとリックママは僕のローブの袖を掴み、僕の耳に口を寄せた。
「……お願いします。でも、リックを……土地のことよりも、リックのことを守ってやってください」
「お約束します。彼に危ないことはさせません」
リックママは顔を伏せたまま、何度も頭を下げた。
リックはベッドに上り、彼女の背中を必死に擦っている。
「あ、つかぬことを伺いますが……」
リックママとリックの視線が僕へ向く。
「……この町で安くて良い宿ってありませんか?」