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「それでは話が違う!」
カシムの大声がテントの幕を揺らした。
ここは船を借りる予定だった商人のテント。
僕達の目の前にはターバンを巻いた中年の商人がパイプをふかしていて、その両脇には屈強な護衛が立っている。
「何も違わないさ、カシム。その金額では船は貸せない」
「では、これはどうするのです!」
カシムは、商人の前にあるテーブルに一枚の紙を叩きつけた。
紙には借りる時期とレンタル料が記されていて、署名が二つ入っている。船を借りる契約書のようだ。
「あなたほど商人が契約を反故にするおつもりか!」
「人聞きの悪いことをいうな、カシム。ここをよく読め」
商人が指差したのは契約書の端っこ。
そこには小さな小さな文字で、《砂海の状況が大きく変わった場合、契約は破棄できるものとする》とあった。
しかし、そんなものを見落とすカシムではない。
「……それがどうかしましたか?」
「
わざとらしく驚いてみせる商人。
対してカシムは本気で驚き、目を丸くした。
「こっ、この契約を結んだときには既に満ちていたでしょう!だからこそ、私は船を契約したのですよ!?」
「それはお前の認識だ。あれから儂は人を使って調べ、三十年ぶりに砂海が満ちていることを確認した。それが十日前だ」
「なっ……十日前!?ひと月以上前には満ちていたのに!?」
「だからそれはお前の認識だよ、カシム。儂が確認したのは十日前。それは動かない」
「……では、幾ら出せば貸して頂けますか?」
商人は首を横に振った。
「貸せない。だが、お前とも長い付き合いだ。買い取りなら認めよう」
「幾らです?」
「一千万シェル」
「うぐっ」
カシムは呻き声を上げ、押し黙った。
おそらく有り金をはたいて買い取るつもりだったのだろう。それほどカシムの、この旅に対する意気込みは強い。
だが、買える金額ではなかった。
それはそうだ。いくらカシムでもポンと出せる金額ではない。一千万シェルもあれば、レイロアの一等地に豪邸が建つ。
「カシムほどの商人が、そのくらいの蓄えもないのか?」
意地の悪い聞き方をする商人。
「そんな金額……有っても持ち歩くわけがない」
「借金でもいいぞ?無論、利子は貰うが」
「……行きましょう、ノエル」
カシムは踵を返し、テントの出入り口へ向かった。
「もういいのか、カシム?諦めのいい商人は大成しないぞ?」
カシムは首だけ回して商人をひと睨みし、テントを出た。僕達も続いてテントを出ると、カシムは街の通りをずんずん先へと歩いていた。
僕はカシムに駆け寄り、尋ねる。
「カシム、値下げ交渉とかしなくてよかったの?」
「彼は私と商談をする気なんて全くありませんよ。だから乱暴な値をふっかけたり、嘲るような態度を取る」
苛立ちを隠さずに早足で歩くカシムだったが、僕達の顔を見回し、ふうっと息を吐いた。
「すいません、私の落ち度です。あの商人とは顔馴染みだったので、油断してしまいました」
「何故アノ商人ハコンナコトヲ?」
ジェロームの質問に、カシムの瞳が忙しく揺れる。
「……おそらく、最近になって砂海の状況を確認したというのは事実なのでしょう。その上で、船の価値が上がると確信した。私のように定期船の開通など待ってられない人間は他にもいるでしょうから。船を売るどころか、買い集めて独占する気なのかもしれません。そうして値を極限まで吊り上げてから売りさばく、と」
「フム、ソウイウコトデスカ」
今度はマリウスが、僕達だけに聞こえるように言った。
「……ドウスル?奴ヲ殺シテ奪ウカ?」
「ソレガイイゼ!兄貴!!」
マリウスの忍んだ声を台無しにする大声で、ドミニクが賛同する。
「殺シハトモカク、船ヲ盗ムノハ悪クナイデスナ。最モ現実的ナ手段カモシレマセン」
山賊兄弟の悪巧みにジェロームまで乗っかってきたので、僕は三人を慌てて止める。
「ダメだよ、カシムはイシュキーヴに行ければいいわけじゃない。その後も商いを続けるんだよ?殺して奪ったなんて知れたら商売上がったり」
「ありがとう、ノエル。……皆さん。私も正直、あの商人には痛い目を見てほしい。けれど、それはあくまで商人のやり方で、です。ご理解いただけますか?」
マリウスはこくりと頷いた。
「コレハオ前ノ旅ダ。舵取リガソウ言ウナラ従オウ」
ドミニクはマリウスがあっさり折れたのを見て、「ハン!ツマンネエ!」と吐き捨ててそっぽを向いた。
ジェロームは返事の代わりにカシムに尋ねた。
「デ、アレバ他に船ハナイノデスカ?アルナラバココデ借リル必要モナイノデスガ」
「っ、それはそうです、ジェロームさん。……そうだ、ここに固執する必要はないんだ……ボートサイズじゃだめだ……ある程度大きい、砂海を渡れるサイズの……そうだ!」
カシムは手を打って目を輝かせた。
僕達はすぐさま宿を引き払い、ソアの街を出た。もちろん来たときとは逆側、街の南側の門からだ。
ソアの街の南には東西に砂丘が伸びていて、砂海はまだ見えない。
これを徒歩で登るとなれば一苦労だろう。
だが僕とカシムが乗るラスカーは、いつもと変わらずジャッ、ジャッと軽やかに傾斜を進む。
「かしむサン、砂海ハマダデスカ?」
ジャックがラスカーの上のカシムに尋ねる。
カシムは困り顔で「もうすぐですよ」と答えた。
ラスカーが砂を蹴る音がしばらく続く。
そしてジャックは再びカシムを見上げた。
「かしむサン、砂海ハマダデスカ?」
「もう、ジャック!何度目だよ!楽しみなのは皆同じなんだから、もうちょっと我慢しなって」
「楽シミ……?」
ジャックはポカンと口を開け、それからガタガタと震えだした。
「逆デスヨッ!怖インデスヨ!」
「あっ、そうなの?」
「砂漠デ砂ノ海!ドコカラ砂海カ見分ケツカナイジャナイデスカ!言ッタデショウ!?ウッカリ落チタラ私、おだぶつナンデスカラネ!」
「そういうことか」
するとカシムがぷりぷり怒るジャックをなだめるのように言った。
「大丈夫ですよ、ジャック君。はっきり見分けられますから」
「……ホントデスカ?」
「ええ、本当ですとも。……おっ、見えてきましたよ!」
砂丘の頂上にさしかかり、その向こう側が段々と見えてきた。
「んっ?……おお!」
「わあ~!」
ラスカーに乗る僕とルーシーの目に、初めて見る光景が飛び込んできた。