カンガルーとボクシング!!
たまには長編ではなく短編を書いてみました。
よかったら、見て下さい。
よう、あんた。ちょっと聞いてくれ。
俺は桜坂卓也、22才、職業はボクサーだ。
それなりに戦歴もあってフェザー級で9回戦っている。8勝1敗、現在日本ランキング8位だ。なかなかのものだろ?
攻撃力に定評があって、いずれは日本チャンピオンも夢じゃない、そう言われている。
そんな俺が今なにしているかというと、カンガルーと真剣勝負の真っ最中だ。
そうカンガルーだ。ピョンピョン跳ねるカンガルー。
言い間違えた訳でも聞き間違えた訳でもない。本当に俺は現在進行形でカンガルーと戦っている。
何? 動物虐待? 馬鹿を言うなよ。あんた、思いっきり誤解しているよ。
だって、やられているのは俺の方なんだ。ハッキリ言って失神寸前だ。ぶん殴られた頭がくらくらして、こうやって、架空の誰かに愚痴るぐらいにはふらふらなんだ。
いいか、よく聞いてくれ。カンガルーってのは野生動物なんだ。あの広大なオーストラリアの大地を生き抜くタフガイなんだ。
いや、理解しづらいのは分かるよ? 俺だって、ついさっきまでカンガルーが強靭な生き物だとは思っていなかった。ハッキリ言ってコアラとかウサギみたいな愛玩枠の生き物だと思っていたんだ。つい10分前までは、ほんとにそう思っていたんだ。
そんな認識は今現在、跡形も無くなり、俺はカンガルーと死闘を繰り広げている。
強い。でも逃げる訳にもいかない。
そんな俺のやるせない気持ちを、ちょっと愚痴らせてくれよ、走馬灯さんよ。
……。
……。
事の始まりは、たまたま、コンビニに向かう途中でカンガルーに出くわした事だ。
「あん? カンガルー……?」
いや、素でびっくりしたよ。オーストラリアでもないのにカンガルーに出くわすとか普通ありえないよな。
なんで道端にカンガルーがいるのか? 心底不思議だった。
ただ、まあ、普通に考えるなら近くの動物園から逃げだしたんだろう。
このカンガルーが、実はサイキックカンガルーでオーストラリアからテレポートしてきたとか、IQと冒険心が高くて貨物船で密入国してきた……とはさすがに思えなかったんだ。
まあ、なんにせよカンガルーはそこにいた。
それに俺は、珍しいこともあるなーと、嬉しくなった。
その時の俺の心境を表すなら好奇心という言葉が近いと思う。
例えば、ひと昔まえに、多摩川だったかにアザラシが現れた時、ゴマちゃんだかアザちゃんだったかそんな風に呼ばれて、見物客なんかも湧いただろ? あんな感じ。
そして、そう思ったのは俺だけじゃ無かった。
周囲の奴らも似たようなリアクションだった。
「ああ! カンガルーだ!」「えっ、嘘! なんでいんの?」「お母さん! 見て見て! カンガルーだよ!」「写メ撮ろ! 写メ!」
結構、人がいたんだけど、突然のカンガルー登場に湧いていたんだ。
ハッキリ言って、危機感なんてものは一欠片も無かった。カンガルーは突如、日常に現れた人気者として声援を浴びていた。
それが変わったのは一人の女子高生の行いだった。
彼女はアグレッシブにもカンガルーに近づいていった。右手にはスマホが握りしめられていて、たぶん一緒に自撮りでもしようと考えたんじゃないかな?
そんな彼女を眺めながら、俺が何を考えていたかといえば、自分もスマホで写真を撮るかどうかを迷っていた。
結構、人もいるから、はしゃぎすぎるのは気が引けた。
だから、素直にはしゃげる彼女に、ちょっと羨ましいとすら思っていた。
しかしだ……。
女子高生がカンガルーの領域に進入した時に事件は起こった。
「こっち向いて〜〜」
と、彼女がスマホを構えたその時にカンガルーは動いた。
女子高生の額にもの凄いパンチをかましたんだ。
プロボクサーの俺が凄え。そう思うような右ストレートだった。
そんなパンチを女子高生が躱せるはずもなく、ガスっとまともにくらって吹っ飛んだ。
彼女はごろごろと転がり、そしてピクリとも動かなくなった。
そして、カンガルーの方は興奮してピョンピョン飛び跳ねていた。
その時の俺を含めた周囲の空気を、どう表現すればいいかな。
理解不能な事態に空気が凍りついた。そんな感じだった。
だって、皆が皆……たぶん誰一人としてカンガルーが凶暴だなんて思っていなかったんだ。例えるなら、ライオンや熊が人に襲いかかるのは分かるだろ? でもヒーローショーのヒーローが突然、観客に襲いかかったら、訳ワカンネェだろ? カンガルーが人をぶん殴るってのは、それくらい理解不能の事態だったんだ。
そして、皆が凍りついたなかで真っ先に正気を取り戻したのは俺だった。
正気に返るなり、俺は走り出した。
まず、女子高生を抱き上げた。頭を揺らさない様に注意しながらもカンガルーから十分離れたところに寝かせた。
そして、近くにいる男性に、
「救急車、頭打ってるって伝えてくれ!」
そう頼むと、カンガルーの所まで戻った。
自画自賛かもしれないけど、自分にできるベストの行動をしたと思う。
少なくとも、皆が思考停止に陥っている中、いち早く冷静に行動できた。日頃のイメージトレーニングが役に立った形だ。
俺を含めたボクサーって人種は結構な割合で、いざ目の前にナイフを持った暴漢が現れた時の為に、あらかじめ対処法をイメージしてあるんだ。
ボクサーってのは他のスポーツ、野球やサッカーに比べて金銭的に良くない。日本チャンプがバイトしているなんてザラにある。
じゃあ、なんでボクサーやっているかというなら、強くなりたい事と、強い事を称賛されたいからだ。
だから、武器を持った暴漢なんぞに逃げ出すなんて、ボクサーのプライドにかけて出来ない。ニュースやネットで、ボクサーの癖に桜坂卓也は逃げやがったとか嘲笑されるなんて冗談じゃない。
プライドは大事。じゃなけりゃボクサーなんてやってられない。
ただ、そうはいっても武器は怖い。プロボクサーだって本気で怖い。
よく、鍛えられた腹筋は鋼の腹筋とか言われるけど、実際のところはナイフをはじき返すなんてないし、トンカチで頭を叩かれたらボクサーだって死ぬ。普通に死ぬ。
だから、いざという時の為に、恐怖で逃げださない様に、あらかじめどう動くかイメトレしておくんだ。それが役に立った。
流石にカンガルーを相手にするなんて、想像すらしていなかったけどな!
とにかく、倒れた女子高生に、俺は出来る限りのことをした。
後はカンガルーだ。なんとか取り押さえて、他に犠牲が出ない様にしなけりゃならないと思い、俺は興奮するカンガルーと向き合った。
「グオッ!」
カンガルーの鳴き声は低く全然可愛らしくなく、意外だった。
そして、それ以上にその体格にびっくりした。
──でっか!
尻尾を支えに二本足で立ち上がっているカンガルーは、身長は170センチの俺よりなお高かった。
そして見事な胸筋、見事な腕の筋肉、見事な首まわり。ボディービルダーも真っ青のムキムキさだ。
これに、さっきまで何の危機感も抱かなかったことが、逆にびっくりだった。
──あの娘、なんで恐がらなかったんだ? 警戒心なさすぎだろう。
俺は無意識の内に両手を上げてファイティングポーズをとっていた。
そして、困った。
──えーと……どうすりゃいいんだこれ?
取り押さえればいいのだろうか? だが、自分の身長より高いカンガルーを取り押さえられるものなのだろうか? 取り押さようとする行為そのものがカンガルーを刺激してしまうかもしれない。
そんな風に何をすべきか迷っているとカンガルーは動き出した。
ピョンピョンと少しずつこちらに向かって来る。
俺は思わず言った。
「待て」
言ってから、
──カンガルーに言葉が通じるわけねーだろ!
そう自分で自分に突っ込みを入れたが、直ぐに思い直した。
──イヤ、そんなこともねーのか……。
犬や馬は人間の言うことを良く聞く。サーカスなんかでは虎やライオンすら人の指示を聞くのだ。ならカンガルーだって、人の言葉を理解できるかもしれない。
俺はカンガルーに向けて話しはじめた。
「待て! いいか? 待てだ! この先は小学校もあるから行くな。むしろ、まわれ右をしろ。向こうの空き地で動物園の人が来るのを待つんだ」
内心で無理だろうな──と、思いながらも真面目にお願いしたが、カンガルーはやっぱり俺の言葉には反応しなかった。
駄目かと思ったが、次の瞬間閃いた。
英語なら行けるんじゃねーか? と。
カンガルーといえばオーストラリア、つまり英語圏だ。こいつは今、日本にいるが、元はオーストラリアの生まれかもしれない。
名案を思いついた様な気分になりながら、俺は英語で制止しようとした。
「ストップ! ……えーと……その……ストップ!」
それが、高校の英語のテストで赤点を取り続けた俺の精一杯の語学力だった。残念ながら俺の脳みそは筋肉で出来ていた。
そして、そんな拙い英語でカンガルーを止めることは出来る筈もない。
更に近づいてくるカンガルー。
俺は自分の馬鹿さかげんを嘆きつつも、説得を諦め武力行使を決意した。
──手のひらで空き地まで押し込む。
俺はカンガルーの鼻っ面に左ジャブをかました。まあ、手のひらをカンガルーに向けているので掌底と言った方が正確だ。殴るというより押さえつける気で撃ったジャブは、全力でこそないが、それでもプロのボクサーとして恥ずかしくはない代物だった。
だが、カンガルーは首を振ってあっさりと避けた。
──は?
そのまま、2度3度と繰り返したが、いずれもひょいひょいっと避けられた。
反応が尋常じゃなかった。明らかに人間の限界を超えていた。いや、カンガルーなのだが……。
そしてカンガルーは、ピョンと軽やかな動作で俺の懐に進入した。
ボクサーである俺が、本当にあっさりと懐に入られた。
とっさにバックステップするのと、カンガルーの右手が突き出される動作が同時だった。
パァン! と、頬が震えた。
クリーンヒットした訳じゃない。それなのにとんでもない衝撃が来た。
更に二歩、三歩下がりながらも呆然とした。
──こいつ、強え……。
まともに殴られたら、耐えられないかもしれない。
そんな危機感を抱き、更に警戒を強めた。
しかし、カンガルーの方はあまり俺に興味がないらしい。
「グォ! グオ!」
低い声で威嚇しながらも、俺を回り込むかのように、俺の背後の道へと進んでいく。
だが、俺もまたカンガルーの前進を防ぐ為に回り込んだ。
こいつを一般人に近づける訳にはいかない。殴り倒してでもだ。
とはいえ、左の突きはあっさりと避けられた。
──どうする?
これまでの経験を振り返りながら、方針を練った。
最適解はボディブローだ。
今まで、左の刺し合いで不利だった時は、避けられずらいボディーを狙った。そうして動きを鈍らせ、フィニッシュまで繋げるのが俺のボクシング。
このカンガルーも、腹が痛いなら動かずジッとしているかもしれない。
有効な策だろうと思う。ベストな策だとも思う。だが、とある理由から、その策は却下しなければならなかった。
俺は、その、とある理由であるカンガルーのお腹に目を向けた。
そこには、ヒョコ、ヒョコとお腹の袋から、時折、顔を出す赤ちゃんがいた。
こんな場合でなかったら、愛らしく、癒されただろう。
──お前……母親なのか……。
うん。これは無理だ。俺は自分を優しい人間なんて思っちゃいないけど、さすがにこの状況でボディブローを打つ事は不可能だ。そこまで、人間止めてない。
「はぁ……仕方ねえな」
ボディを打てない以上、顔面を殴るしかない。
覚悟を決めた俺は拳を握った。この相手は掌底で抑えるとか言っていられる相手じゃない。
まるでリングに立っているかのように集中した俺は、速射砲のように左を連打しながら、カンガルーとの距離を詰めた。
そうやって左手を意識させておきながら、彼我の距離、85センチ、俺の最も得意とする距離までたどり着いた瞬間、体を駒のように回転させながら右フックを放った。
両腕、更にはフットワークやコンビネーションまでも併用した俺の一撃は、カンガルーの顔面を捉えた。
決まった……と思った。攻撃力に定評があると言われる俺の、最も得意とする一撃を叩き込んだんだ。
これまで何人もの対戦者をリングに沈めた必殺の一撃は、カンガルーを確実にダウンさせる筈だった。
だが、カンガルーの顔面を捉えた右腕から、今まで感じたことのない感触が伝わってきた。
人よりも強靭なカンガルー。そのしなやかで力強い首回りの筋肉が、俺の拳に込められた力を受け流していく。
──嘘だろう?
信じられないが、更に信じられないことに、殴られながらも俺を睨みつけるカンガルーと目が合い、奴の考えが伝わってきた。
『その程度か小僧? なら、次は私の番だ』
気のせいなのかもしれない。けれど、少なくともその瞳に宿る戦意は本物だった。
そして、お返しとばかりにパンチを繰り出してくる。
俺の十八番の右フックを出せる距離は、相手の攻撃も当たる、そういう間合いだ。
だから俺は、カンガルーのパンチを避けようとは考えずに耐えるつもりで歯を食いしばった。
たが……。
ズシ!
カンガルーの前足が頬に当たった瞬間、自分の判断が間違っていることに気がついた。
とてもじゃないが、耐えられる代物じゃない。
気がつけば、地面に倒れ伏していた。
「ぅ……あ……」
どうやら脳も揺らされたらしく、地面が歪んで見える。一瞬、これまでの人生が走馬灯のように思い浮かんでは消えていく。
──洒落になってねえな。
ふらつく頭でそう思った。俺は攻撃力に定評があるが、タフネスにも自信がある。これまでの試合でテンカウントを聞いた事は一度もない。だというのに、たった一発のパンチで失神寸前だった。
──だけど、まだだ!
──3……4……5……6。
俺はボクサーの本能で、カウントを数えながら立ち上がった。
──大丈夫、テンカウントの前に立って構えられる。
そう思っていたのだが、膝立ちになったところで、追撃のドロップキックが飛んできた。
尻尾を支えに繰り出されたドロップキックは、パワーもスピードも意表のつき具合も完璧だった。
咄嗟に身体を捻るが避けきれずにボディをえぐられ、俺はボウリングで跳ね飛ばされるピンのように、勢いよく転がった。
視界がぐるぐると360度回るなか、俺は敵であるカンガルーよりも、むしろ自分を罵倒した。
──馬鹿か俺は! ここは路上で、相手はカンガルーだぞ⁉︎ 立って構えるまで待つわけねーだろうが⁉︎
あまりにもいいパンチを食らったので、ついリングの上の様な気分になっていた。我ながら心底呆れる。
にしても、あの細い尻尾で軽々と自分の体重を支えてドロップキックを繰り出すのだから、カンガルーという生き物は、つくづく俺の想像を超える。草しか食わない草食動物のくせに呆れるパワーだ。
ただ、ドロップキックを食らった場所が腹だったのが、まだ幸いした。これがもっと上、頭にきていたら首の骨が折れてもおかしくなかった。
コンクリートを転がって擦り傷だらけになりながらも、最初のパンチによる脳へのダメージは抜けつつあったので、俺は素早く立ち上がって、拳を構えた。
見るとカンガルーとの距離は4メートルほど広がっていて、改めてドロップキックの威力を思い知らされた。
「強え……どころじゃねえな」
一撃の強さだけなら、間違いなく、これまで自分が戦ってきた相手の中で最強だ。
あんまりにも強すぎて俺は笑った。
堪えられずに苦笑まで漏れた。
殴られて、蹴られて、ケガしまくりなのに、なんで笑うのかって? まあ理由はいくつかある。
まだ、自分は行けるって自分で自分で鼓舞する意味もあるし、ここまで相手が強いと開き直って笑うしかないという気持ちもある。
でもまあ、根本的な理由は俺がボクサーだからだろう。
強い敵にこそ全力で立ち向かう。それが俺の、桜坂卓也の選んだ道なんだ。
「負けるもんかよ」
威勢良く言って、再度カンガルーと向き合った。
──とはいえ、どうすっかな……。
戦意は衰えていないものの、次、どう動くべきかは決めかねた。
なんせ、俺の最高のパンチを最高のタイミングでくらわせたのにピンピンしているんだ。
仮に、もう何発かくらわせたとして沈められる気がしない。
逆に俺は次をくらえば危ない。いや、ダウンとかそういうレベルじゃなくて、もう命が危ないレベルだ。
──ジャブは効かない。ボディは打てない。得意の右フックでも駄目となると……。
その選択肢の無さが一つの案を捻り出させた。
──カウンター狙い……か?
相手の力を利用して放つカウンターパンチは、いわば2人分の力が乗ったパンチで、上手く決まれは絶大な力を発揮する。何を隠そう、俺が唯一負けた試合も、相手が卓越したカウンター使いで、俺の攻めをカウンターで迎撃されたからだ。
同じように、カンガルーの攻撃に合わせてカウンターを放てば、カンガルーを仕留めることが出来るかもしれない。というより、これしか打開策が思いつかない。
ただ、実のところ俺はカウンターが苦手だ。自分から攻め込むスタイルの俺は、待って迎え撃つカウンターが性に合わない。
はっきり言って成功する確率は高くない。高くないのだが、
「やるしかねっか」
他に選択肢が無いのだ。やるしかない。
だが、カンガルーの方はまたもや俺のことなどほっといて通り過ぎようとした。
「おい、待て!」
慌てて道を塞ぐと、険しい顔で威嚇してくる。
「グオ! グォォッ!」
まるで、そこを退けと言っているかのようだ。
さっきからそうだが、このカンガルーはどうしてこの道を、そんなにも進みたいのだろうか?
──もしかして、この先に故郷があると思っているのか? オーストラリアに帰りたいのか? それとも、会いたい人……いやカンガルーがいたりするのか? もしくは、全然、別の理由?
さっきは、カンガルーの思っていることが伝わってきたかの様に思えた俺だが、所詮は人だ。カンガルーの考えることなどわかるはずもない。
だから、俺はカンガルーではなく人の理屈で動く。
この先は人が一杯いる。小学校だってある。とてもじゃないが進ませるわけにはいかない。
それに、
「なあ、この先にお前の幸せは無いんだって」
俺は、ぼやくように言った。
伝わる筈は無いけど、伝わって欲しいとは思った。
俺は英語のみならず、地理や世界史においても赤点ばっかりだったが、日本とオーストラリアの間に大西洋と呼ばれるだだっぴろい海が横たわっていることは知っている。
仮に、このカンガルーが故郷に帰りたいと考えていても大西洋を渡り切れる筈がない。
そうじゃなくて他の理由だったとしても、結局のところ今の日本でカンガルーが生きていけるのは動物園の檻の中だけなんだ。
それに人を傷つけるのは、人にとっても危険だが、カンガルーにとっても危険だ。
人を襲った動物は処分される。熊は射殺されるし、犬は保健所へ連れて行かれる。
カンガルーがどうなるのかは知らない。ひょっとしたら、許されるのかもしれないが許されないかもしれない。
こいつは既に女の子をノックアウトしている。
これ以上、人を傷つけない方がいいのは間違い無い。
ふと視線がカンガルーから下を向いて、子供と目が合った。つぶらな瞳でこっちを見ている……ような気がする。
──心配すんな。お前の母ちゃん、助けてやっから。
拳を振るうことで、何かを救えることがあってもいいと思うんだ。いや、普段の俺は、そんな小難しいこと考えずにパンチをブンブン振り回しているわけだが、まあ、偶にはいいだろう。
俺の覚悟は決まった。目の前のカンガルーだけに自分の全てを集中する。
いつの間にか、身体中の痛みも消え去り、ただただその時を待った。
そして、
──来る。
そう悟った次の瞬間、実際にカンガルーがぴょんと飛び込んできた。
「グォ!」
「はっ!」
カンガルーのパンチに合わせて、右のクロスカウンターを放つ。
なんだか不思議な気分だった。まるで1秒が10秒に引き伸ばされるような感覚。ゆっくり動く世界の中では、俺は苦手なカウンターを冷静に合わせることが出来た。
カンガルーのパンチを紙一重で綺麗に交わし、逆に俺の右クロスはきっちりと合わせた。
ピンポイントで顎を狙った一撃は、鋼の肉体を持つカンガルーを失神させた。
「おっと」
俺は崩れ落ちようとするカンガルーを支えた。子供が母親の重みに押しつぶされないようにだ。
仰向けに寝かせると、間近で子供と目が合う。
カンガルーの子供はやはり不安そうに母親を見ている。
「大丈夫だよ、多分」
ちょっと無責任な事を呟いたのと同時に、俺は地面に座り込んだ。
さっき食らったボディへのドロップキックが今になって効いてきて、ちょっと限界だ。
うずくまっていると、
「ああ! いました!」
動物園の飼育員が今更のように現れて近寄ってくる。
──遅えよ。
内心愚痴りながらも、俺はこのおかしな騒動が収束を迎えそうで安堵の息を吐いた。
……。
……。
春が過ぎて、夏が過ぎて、秋が過ぎて、冬が過ぎた。
あの、街角でカンガルーに出くわした頃から約一年。
俺は故あって、あのカンガルーに会いに行くことにした。
因みに、あの後、カンガルーが街中を歩いていた理由も聞いたのだが、やっぱりというか、近くの動物園から脱走した、というのが真相らしかった。
正確には、その動物園へ移送される途中でぴょんと飛び跳ねて抜け出したらしい。
という訳で、あのカンガルーに会いに行くってことは、同時に、動物園に入るって事だ。
男1人で向かうのは、ちょっと抵抗があったので、交際歴半年の恋人を一緒に動物園に行ってくれるように頼んだ。
彼女は、
「えー、嫌ですよ」
と、最初は渋っていたけど最後には折れてくれた。
「じゃ、行ってくるわ」
「ええ、どうぞ。私はここで待ってますから」
動物園の中へ入り、カンガルーの檻の近くまで行くと、彼女をベンチに置いて、そこから先は1人でカンガルーの元へと向かった。
はじめての場所で若干迷いはしたが、案内表示に従って歩くと、やがてカンガルーの檻へとたどり着いた。
檻の中でのそのそとカンガルーたちが動いている。
柵越しに5、6匹のカンガルーが見受けられて、一瞬、見分けられないんじゃないかって心配したが、杞憂だった。
端っこで、チビカンガルーと一緒にいるカンガルーが、俺が戦ったカンガルーだ。
一年ぶりだが、ほとんど変わっていない。でも、隣のチビがあの時の袋の中の子供なら、見違えたと言わざるを得ない。
「大きくなったなあ」
俺はしみじみと呟きながら、カンガルーの親子に近づいた。
柵越しだが、ほんの数メートルという近距だ。
「えーと……」
今日、ここに来たのは、語りたいことがあったからだ。
言葉が通じないことは承知の上で、一方的にでも構わないから言いたい事を言おうとやってきた。
ただ、その前に、このカンガルーの名前を知りたい。
俺は檻の周辺に紹介文がないかを見回したが、パッと見、そんな物はない。
代わりと言ったらなんだが、興味深い看板を見つけた。
カンガルーの生態が書かれている。
『世界最大の大きさをほこるアカカンガルー。
成人すれば、体長は180センチ、体重80キロを軽く超えるぞ!
また、意外と知られていないけど、カンガルーは優れた身体能力を備えている。なんと一回のジャンプで10メートルを跳ぶ! それだけじゃない! ひとたび走りだせば最高時速70キロ。1日で100キロも移動するというタフネスぶり。マラソンランナーにだって完勝だ。
更に更に、カンガルーは実はかなり好戦的な生き物で、雌を巡ったり縄張り争いで、よくカンガルー同士で喧嘩する。主に前足でのパンチと、尻尾で体重を支えながらの両足での前蹴りを使用するが、仮に人間が成人したアカカンガルーの前蹴りを受けたら内臓が破裂するので、檻の無いところでカンガルーに近づいたらいけないぞ』
「……………………」
コミカルな文体や、かわいいイラストが載っているが、実際にカンガルーの前蹴りを喰らった俺には到底、笑えなかった。
思わず腹をさすりながら、名前が書かれていないかを探したが残念ながら見つからなかった。
──しょうがない。カンガルーでいいか。
名前を知ることを諦めた俺は、再びカンガルーの親子に視線を戻した。
相変わらず子どもがせましなく動いて、母親が見守っている。
いいお母さんだ。そんな母親カンガルーに向けて言った。
「なあ、あれからずいぶんと色々あったんだよ」
いいことも悪いこともあった。その変化の大半が、あの時の闘いがきっかけで起こった変化だ。
まず、俺はあの時以来、名前が売れた。
というのも、あの時の闘いをスマホで撮ってネットに流した奴がいて、現役ボクサーとカンガルーというおかしな対戦は、だいぶ世間様に知れ渡ることになった。
俺も『カンガルー、つえええっ!』というコメントで埋め尽くされた動画を見たが、確かにショッキングだった。
おかげで、俺は『カンガルーハンター』なる謎のあだ名で呼ばれるようになってしまった。
だっせえあだ名をつけられて心底ウンザリしたのだが、そのおかげで、俺の試合のチケットの売れ行きが倍増してしまい、ボクシングジムの会長から、
「お前、今日からリングネーム、カンガルーハンターで行けや」
と提案……というか強制されてしまった。カンガルーハンター桜坂の誕生だ。
勘弁してくれ。とは思ったが、チケットが捌けることを考えたら仕方がなかった。背に腹は変えられない。という奴だ。
そして、前より賑やかな観客の前で戦っている内に、いつしか俺はタイトルマッチに挑むことになり、つい先日、チャンピオンの座を勝ち取った。
決して楽な闘いだった訳じゃない。特に前チャンピオンは呆れるほど強かった。
けれど、そんな死闘を制する切り札が俺にはあった。あの時の闘いで身についたカウンターだ。
どうも、あの時コツを掴んだらしい。
攻撃力に定評があり、タフネスにも自信のある俺が、ここぞという時にカウンターをかますのだから、相乗効果で戦闘力が格段に跳ね上がった。
それでもタイトルマッチはギリギリだった。まさに紙一重。正直、前チャンピオンとは2度とやりたくない。
それで、息も絶え絶えの状況で受けたヒーローインタビューで、
『チャンピオンになったことを、誰に伝えたいですか?』
と聞かれ、カッコいいコメントを取り繕う余力すらなかった俺は、
「とりあえず、前にやりあったカンガルーに伝えたい」
と答えてしまった。
インタビュアーの美人さんは変な顔をしたし、受け狙いと誤解されて笑われたし、不謹慎だと少し避難も浴びたが、俺としては心の底から本音だった。
あの時のパンチやキックを耐えた経験が、あの時身につけたカウンターが、俺をチャンピオンにしてくれたのだ。
という訳で俺は、はるばる動物園までやってきて、こうしてカンガルーに向けて話しかけている。
「お前のおかげで、ベルトを巻けたんだ」
そう言って拳をカンガルーに掲げて見せたものの、自分でもちょっと馬鹿らしいと思う。
──通じる訳ねえのに、何やってんだか……。
そう自嘲したその時だ。俺はカンガルーと目があった。
カンガルーは檻越しにこっちをじっと見つめて、スッと二本立ちになりながら俺に向かって拳を構えた。
まるでかかって来いと言っているようだ。
「ああっ?」
俺はびっくりしてポカンと大口を開けた。
何も言えずに、ファイテングポーズを取るカンガルーを見返すことしか出来なかった。
カンガルーを見つめる俺。
俺を見つめるカンガルー。
俺たちは見つめ合ったまま、刻々と時が過ぎて行った。
カンガルーは俺を、一年前に戦った相手だとわかっているのだろうか? わかっている気がする。わかっているから、こっちを見つめていると思う。
だとするなら、俺のことをどう思っているのか? ぶん殴ってきた憎い相手か? それとも行きたい所があるのに、その行く手を遮った憎い相手か? あの時、お前を殴ったのは、少なからずお前とお前の子どもの為だってことは理解しているのだろうか?
わからない。カンガルーではない俺にカンガルーの事がわかるはずがない。
だから、理解する事を諦めて、自分が言いたいことを言うことにした。元々、そのつもりで、ここまでやってきたのだ。
「なあ……」
話しかけようとして止めた。俺には、俺たちには言葉より雄弁に分かり合える物がある。拳と目だ。
両腕を上げて構えを取った。
そのまま、カンガルーをじっと見つめる。カンガルーは目を逸らさずに睨み返してきている。
──なあ、元気にしてるか?
──子育ては大変か? 日本の気候は快適か? 湿っぽくはないか? 動物園は狭くはないか?
──あの時、お前はどこに向かってたんだ? 何か目的があったのか?
──今のお前は幸せか?
構えた拳と睨み合う眼差しで、何かが伝わっているのか、いないのか。分からないままに俺とカンガルーは向き合い続けた。
そして、
「クゥ!」
子どもカンガルーが無邪気に母親に飛びついた事で、俺たちの対峙は終わった。
母親カンガルーは俺に背を向け子どもの相手をしだしたし、俺も、ハッと夢から覚めたような気分だ。
「お、おい」
思わず呼んでみたが、カンガルーは俺のことなんか知ったことかとばかりに子どもの相手をしている。
しばし呆然とした俺だったが、やがて苦笑した。
「なんだったんだろうな、今の?」
分からないけど、不思議と来た甲斐があったと思えた。
「いい加減、戻るか……」
いつまでも、恋人を待たせっぱなしもよくないだろう。
最後にもう1回、カンガルーの親子を見た。
「いつか、また来るわ」
そう思った。例えばそれは世界に挑む日か。それとも世界チャンピオンになり得た日か。はたまたボクサーを引退する日なのか。今は分からないけど、また逢いに来ようと思った。
「それまで元気でいろよ。じゃあな」
俺は今度こそ、カンガルーの住処を後にした。
……。
……。
「遅いです!」
彼女の元へ戻ったら、まず、そう言われた。
「彼女をほっといて、どこの馬の骨とも知れないカンガルーにうつつを抜かすなんて、恋人としてどうなんでしょう」
「ごめん、ごめん」
「気持ちがこもっていません!」
散々な言われようだが、普段はおおらかな彼女がこうまで憤る理由はちゃんと理解しているので仕方がない。
甘んじて受け入れて、謝り通す。
それでも、まだ怒りは収まらずに、チクチクと言葉を刺してくる。
「だいたいですね─、私を傷物にしやがったロクデナシに逢いに行くなんてどうかしてるんです」
「いや、傷はもう残ってないだろ。それに勝利者インタビューで言っちゃったからには仕方ないじゃないか」
「あれも問題ですよ! 私、あの場に居て、必死に応援してたんですよ! なのに、そんな健気な私を差し置いて、どうしてカンガルーを話題にするんですか⁉︎ あの場面は私に向かって『蛍、俺と結婚してくれ!』って求婚してもいい場面ですよ! どうしてカンガルーを話題にするんですか⁉︎」
同じセリフを2度言った。よほど許せないらしい。
まあ、自分を殴り倒したカンガルーに良い印象を持てというのも無理な話だろう。
そう、何を隠そう、この彼女はカンガルーと自撮りしようと近づいて、殴り倒されたあの女子高生だ。
あの後、目を覚ました彼女が御礼を言いに来たのだが、その時に一目惚れされた。
どうも、俺のことを悪漢から身を呈して守ってくれる白馬の王子さまと勘違いしたようだ。
その時は、そんなんじゃねえって跳ね除けたのだが、それから半年に渡る熱烈なアタックに俺は負けた。彼女に惚れてしまった俺の負けだ。
カンガルー相手には裏目に出た人懐っこさが、俺に関してはボディーブローのように効果的だった。
とはいえ、流石に結婚は時期尚早だ。
「いや、お前、大学卒業するまで4年近くあるだろう……」
俺がそう言うと、彼女は切り返して来た。
「あら? 今の発言からすると、私が大学を卒業したらプロポーズしてくれるんですか?」
「うん……まあ……なくはない」
照れ臭さのあまりに、煮えきれない返事をした俺だが、彼女は目に見えて上機嫌になった。
「そうですか、そうですか。では楽しみに待つ事にしましょう」
喜んでいる彼女を見て、本番ではしっかりとした態度を取ろうと心に決める。
「それで、これからどうする?」
「どうとは?」
「せっかく動物園に来てるんだから、見て回らないか? カンガルー以外なら大丈夫なんだろ?」
「そうですね。ではそうしましょう。私、ウサギ見たいです。この動物園はウサギと触れ合えるそうですよ」
俺たちは、並んで、手を取り合って、歩きだした。
……。
……。
おしまい。
おまけ
「そういえば……」
「そういえば?」
「ウサギって意外と脚力が凄いらしいぞ。蹴られないように気をつけろよ」
「もう! なんでそういうこと言うんですか⁉︎ 馬鹿ですか⁉︎ 馬鹿なんですね⁉︎ ──そういえば、日本とオーストラリアの間には大西洋が広がっているって真顔で言ってましたよね、卓也さんは!」
「ごめん! 悪かった! 心の底から謝るから、その事は忘れてくれ!」