吸血少女と出会った日
里山地帯にあるこの村では、代々伝わる言い伝えがあった。
曰く、森には夜な夜な人を食う化け物が出る。だから日没後は近づいていけない。ある者は親類から、またある者は友達からこの話を聞き、教えを守り、子に伝えていった。
都会から村に引っ越してきた陽花にも、この言い伝えに聞き憶えがあった。だが科学が発展したこの時代。そのような言い伝えを真に受ける者はいなかった。それは陽花も同じで、都市伝説や噂話にすぎないと思っていた。
彼女と出会うあの日までは……。
数百年ぶりにエリヰが目覚めると、眠りについたときと寸分たがわぬ静寂が広がっていた。
棺桶の蓋を開け、ゆっくりと上体を起こす。薄暗い部屋に染みついた湿った土の香りが鼻を突く。エリヰは懐かしさを感じつつも、知らない匂いの混じった部屋に戸惑いを覚えた。閉じた蔀の隙間から太陽光が優しく注いでいる。今は日が出ている時間帯のようだ。吸血鬼であるエリヰにとって陽の光は天敵だ。このままでは外に出られないし、なにより目覚めたばかりの身体をいきなり動かすのは酷だ。まずは身体をゆっくりなじませて、陽が弱くなったころに外に出かけるとしよう。エリヰは目覚め切らない頭で、そんなことを思った。
しばらくすると、なにやら音楽のようなものが聞こえてきた。聞きなれない楽器の音色に被せて、どこか不自然さを覚える女性の声が聞こえる。
「……よいこのみなさんは、暗くなる前に帰りましょう」
エリヰには聞き覚えのない声だった。眠っている間に、このような案内をするようになったのか。一方で外が暗くなるであろうことにエリヰは安心し、閉じていた蔀を、目を慣らすように慎重に開けることにした。
家の外には、眠りにつく前と変わらぬ森の光景が広がっていた。数百年ぶりに味わう新鮮な空気に胸を膨らませたが、同時に心の中で湧き上がる不安感に気づいた。濁ったような味のする空気と散乱する半透明の捨てられたごみくずが、時の経過を伝えていた。エリヰにとって新しい時代は、まるで異質な世界のように感じられた。
数歩歩いて振り返る。エリヰの目に映るのは、屋根や壁は崩れかけ、柱や梁がツタや苔で覆われた、貧相な小屋だった。眠りにつく前は草木も伸びておらず、きれいだったはずだ。
小屋は緑に囲まれており、道がなくなっている。伸びた草木をかきわけ道なき道を進むと、やがて石や木材で舗装された小道に出た。
手前に積まれていた小石にエリヰはつまずいてしまった。体を起こそうとして頭を上げると、これまた見たことも無い服装をしている若人が、エリヰに手を差し伸べているのに気づいた。
歳は10代半ばほどだろうか。身体は女子のそれだが、髪は短く、服装は男のものに見える。白い半そでの衣に、濃い藍色の長袴。その袴も、下が広がっていない独特の形だ。
見た目にも健康で活発さにあふれる新鮮な肉体。さぞ血も上質だろう。栄養豊富で美味に決まっている。
「大丈夫ですか?」
心配そうに呼びかける少女を無視し、差し伸べられた手に触れることもなく、エリヰは立ち上がった。
「大丈夫だ」
着物に付いた土埃をはたきながら、エリヰは少女の顔も見ずに答えた。
「それより、君こそ大丈夫か?もう暗いし早く帰ったほうがいい」
エリヰにとっては少女のほうが気がかりなようだ。
少女のほうはというと、エリヰの忠告に耳を貸す気はないようだ。いつもこの時間にここにいるから、大丈夫だという。
「遊歩道なら電気もついて明るいですし」
そういわれてエリヰは、道沿いに灯のついた柱が等間隔で立っていることに気づいた。柱は人の背丈の2倍はあろうかという高さで、やはりエリヰにとっては見慣れないものだった。昔はここまで人が入ってくることはなかったはずだが、いつのまに、人は森の奥まで入ってくるようになったのか。エリヰは思いを巡らせた。木陰の隙間から、朱に染まった空に紫が混じり行くのが見えた。
目の前の光景は、少女の方にとっても見慣れないものだった。突然現れた、黒い和装に身を包んだ美しい女性。月の光に輝く銀色の長髪。燃えるように紅い眼。透き通った絹のような肌。まるで夢の登場人物かのような容姿は、明らかに土地の人間ではない。気になったので問うてみることにした。
「すみません、このあたりに住んでいるかたですか?」
「私か?私なら森の……森の奥に住んでいる」
突然の問いかけだったが、エリヰは淡々と答え、
「怪しいものではないぞ」
思い出したかのように付け加え、両手を前に突き出す。
少女のほうはというと、頭のてっぺんからつま先まで、視線を上下させながらエリヰの装いを眺めていた。エリヰにとってはすでに慣れきったことだ。
ふいに、ぽつり、と水滴が落ちるのを肌に感じた。水滴は数を増し、やがて雨になっていった。エリヰが傘を持っていないことに気づいた少女は、
「よければこれ、使ってください」
かばんから取り出した傘をエリヰに差し出した。
少女が濡れることを心配し、エリヰは断ったが、彼女のしつこさに折れて結局傘を受け取った。雨にぬれると体調が悪くなるからありがたい話ではあるのだが。
傘をエリヰに渡した少女は、一目散にその場を去っていった。
「風邪に気を付けてくださいねー!」
傘を開こうとしてふと柄に視線をやる。「羽鳥 陽花」と書かれている。彼女の名前だろうか。きっと家族がいて、大切にされているのだろうな。今頃は食卓を囲んで仲良く夕食をとっていることだろう。私が最後に誰かと食事をとったのは……エリヰはそんなことを考えながら、血液を補給していなかったことに気づいた。
思い返してみると、陽花の血を吸うことにためらいがあったように思うが、何故なのか自分でもよくわからなかった。仕方がないのでエリヰは、目の前の木陰に雨宿りしていた小動物を喰らった。
雨はすぐに止み、晴れたまま翌日を迎えた。日暮れ前、むせかえる土の匂いに懐かしさを感じながら、エリヰは昨日の場所に向かった。陽花と再会の約束をしていなかったが、また同じ時間に同じ場所で会える、そんな予感がしていた。
予想にたがわず、陽花はその場所に現れた。
「また、会えましたね」
雨上がりの陽光のように陽花がほほ笑む。
「昨日は傘をありがとう、とても助かったよ。ところで、身体の方は……」
エリヰは、昨日渡された傘を陽花の前に差し出しながら、雨に濡れたはずの身体の調子を案じた。
「全然大丈夫でしたよ!」
陽花のほうは、健康を絵にかいたように溌溂と答えた。
「それはよかった。ところで、ここに書いてあるのは……」
エリヰは続けて、柄の方に書いてある文字に視線を向けながら、気にかかっていたことを質問した。
「あたし、『はとりはるか』って言います。よろしくお願いします!」
深々としたお辞儀とともに、燦燦と自己紹介する陽花。
「はるか……いい名前だな」
エリヰは静かに笑いながら、付け加えた。
「エリヰだ、よろしく。あと、敬語じゃなくていいぞ」
それからというもの、二人は毎日のように森で会うようになった。
エリヰは吸血鬼だから、陽が上っている間は活動できない。陽花にとっては、暗くなってからも森にいるのは危険だ。日没前後のわずかな時間が、二人の憩いの時間となった。
陽花は、エリヰのことを何でも知りたがった。どこからきて、どこに住んでいるのか。普段は何をしているのか。
「親が海外の出身なんだ。体が弱いから、療養も兼ねて森の奥の小さな家で暮らしている」
エリヰはそう答えた。取り繕った感はあるものの、概ね嘘はついていない。体が悪いというのは、厳密には日中においてのことだが。
エリヰの母親は欧州の出で、迫害を受けはるばる極東の地に逃れてきたらしい。おぼろげながら、そのように聞いた記憶がある。もう途方もなく昔のことで、どんな顔だったかさえも忘れてしまったし、今となっては本当に親だったのかもわからず、確かめるすべもないのだが。
今度はエリヰのほうから、陽花のことを聞いてみた。
陽花はもともとこの地域の出身だったが、小学生になる前に都会に引っ越した。
「でもいろいろあって、ここに戻ってきたんだ」
陽花は半ば他人事のようにそう言い放った。その眼は遠く、離れてきた都会の街を懐かしんでいるようにも見えた。
ある日、エリヰは陽花が薄い手のひらサイズの板を手に持っていることに気づいた。
「なあ、その手に持ってる板はなんだ?」
エリヰはためらいなく聞いた。いわく、スマホというものらしい。どのように使うのか問うてみると、「でんわ」だの「ねっと」だのとわけのわからない単語ばかり出てきた。
エリヰは頭を抱えた。眠っている間に世界は大きく変わり、人々は魔法のような道具を当たり前のように受け入れ、使いこなしている。だがエリヰにとっては全く未知の存在であり、恐怖すら感じる。この小さな板に世界のすべてが詰まっているという現実がエリヰには理解できない。しかし陽花からしてみれば、スマホを知らない私の方こそ理解不能だろう。にもかかわらず、陽花はエリヰに、スマホについて、インターネットについて、そして電話について、笑みと輝く瞳を交え、一から丁寧に説明してくれた。エリヰも身を乗り出して、陽花の話に熱心に耳を傾けた。
「スマホ、触ってみる?」
陽花は説明するだけでは飽き足らず、エリヰに提案した。
エリヰは戸惑いつつも、魔法の板に対する好奇心の高まりを感じていた。
「これが、すまほ……」
だが、エリヰには何をどうすればいいのかわからず、ひたすら待ち受け画面をスワイプするだけだった。見かねた陽花が操作を手伝いながら機能を教えた。
「こうやってインターネットを見たり、音楽を再生したり……」
そういうと、板の模様が変わり音楽が流れ始めた。様々な音色が重なり合うそれは、エリヰの耳になじみのないものだった。最近の人気曲だというそれを陽花は好んで聞いているらしいが、エリヰにはただの雑音にしか聞こえなかった。
次に陽花は、カメラアプリを開いた。エリヰのほうにレンズを向けながら、
「そうだ、一緒に記念写真を撮らない?」
陽花は提案するも、
「なんか怖いから、やめておくよ」
とエリヰに断られてしまった。陽花は訝しがりながらも、無理はするもんじゃないなとスマホをポケットに仕舞った。
スマホの画面にエリヰの姿が映っていないことに、陽花は気が付いていなかった。
再びエリヰは頭を抱え、うずくまった。先ほどスマホの画面を眺めたせいか、じわじわと浸透するような頭痛に襲われていた。深刻そうな面持ちで謝罪のことばを繰り返し、うずくまる背中をさすり続ける陽花に対し、そんなに謝らなくていい、とエリヰは苦笑いした。
現代人にとっての常識を知らないなんて、もしかしたら陽花に怪しまれているのではないか。そんな可能性にエリヰが気づいたのは、陽花と別れてからのことだった。
またある日、陽花は焼いたクッキーを持ってきた。自分で何か菓子を手作りして、エリヰに食べさせようと思ったのだ。袋を開くと、バターの香ばしさと、焼き立ての温かい生地の匂いがした。
エリヰはクッキーをもそもそと口に含み、機械的に咀嚼した。
「どう、おいしいでしょ?」
陽花が、自信たっぷりにほほ笑む。
だがエリヰは、陽花が期待したような反応を示さなかった。
「ああ、おいしいな」
エリヰは顔を固くしたまま、つぶやいた。視線が中空をさまよう。
吸血鬼にとって、言うまでもなく最大の栄養源は人の血だ。味覚はそなわっているものの、長すぎる人生ゆえか、食のおいしさや楽しさに感動することなどなくなってしまっていた。
「おいしい」という気持ちも本心ではあったが、エリヰにとってはただ結果を述べただけにすぎなかった。
「本当!?うれしい!」
それでも陽花にとっては充分すぎる言葉だった。陽花の顔が、焼き立てのバタークッキーのようにぱあっと明るくなった。
もっと食べるかと尋ねる陽花に対し、
「ああ、陽花のクッキーがもっと食べたい」
エリヰは淡々と答え、ただ無言でクッキーを食べ続けた。
陽花がふと、エリヰの顔に手を近づける。かと思うと、暖かな手が、指先が、エリヰの頬をなぞる。
「もう、食べカスがついてるよ」
陽花は、まるでペットの飼い主のようにそう言って、エリヰの頬についていたクッキーのカスを指先でつまんだ。そのまま、もう片方の手に持ったティッシュにくるむ。
エリヰは赤くなった頬を隠すようにそっぽを向いた。陽花がくすくす笑う声が聞こえると、さらに恥ずかしくなって、手で頬を覆いながら黙りこくってしまった。
「ごめんね、クッキー、まだ食べる?」
恥じるエリヰを見て笑うのをやめた陽花は、クッキーをさらに食べるよう促した。
再びクッキーを咀嚼する作業に戻ったエリヰは、あることを思い出していた。
エリヰが幼いころ。母親が母親だったころ、エリヰにクッキーを焼いてくれたことがあった。今では限りなく色あせて擦り切れたフィルムのような思い出だが、クッキーの、そして母のあたたかさは、頭では覚えていなくとも身体が記憶していた。まさかもう一度クッキーを目にすることができるなんて、エリヰは夢にも思っていなかった。
別れ際になり、次は別の菓子も焼いて持ってくるから楽しみにしてほしい、陽花はそう言いながら、その場を去ろうとした。
エリヰの心はクッキーのことでいっぱいだった。もう母はいない。あのクッキーを味わうことはかなわない。だが今は陽花がいて、これからはクッキーを焼いてくれるだろう。また食べたい。もっと食べたい。あれだけでは足りない。
エリヰがクッキーを喜んでくれた満足感からか、小さな異常に陽花は気付かなかった。
ふいにエリヰが陽花の肩を掴む。
「美味いのを……もっと……くれ」
陽花が振り向くと、鬼のような形相でぶつぶつと呟くエリヰの姿があった。
「ひぃっ」
驚きのあまり、素っ頓狂な声とともに、陽花は手に持っていた袋を落とした。袋からこぼれたクッキーの残りかすが地面に散らばる。
だが次の瞬間、エリヰは何事もなかったかのように、いつもどおりの顔をしていた。
「う、うん、楽しみにしててね」
陽花は小走り気味に、森をあとにした。エリヰにはその理由がわからなかった。
翌日、陽花はいつもの場所に現れなかった。陽花は昨日、翌日も来るとは言わなかったが、そのようなことは今までにもあった。だが今までと違うのは、いつになれば彼女が来るのか気になってしかたがないということだ。
(もしかして、正体がばれた?)
エリヰは視線をさまよわせながら髪をいじったり、キョロキョロしたりとせわしない。
(いや、雨が降っていたから来なかったのかもしれない)
濡れている地面を見て一瞬安心しかけたが、安心したい心とは裏腹に、不穏な考えばかり浮かんでくる。
(それとも、何かひどいことをしてしまったのだろうか?心当たりすらない)
考えてもわからない理由を考えているうちに、エリヰは最悪の可能性に行き当たった。
(嫌われてしまったんだ)
エリヰの心に暗い穴が開いた瞬間だった。
それでもエリヰは来る日も来る日も、理由もなくいつもの場所を訪れた。だが陽花は姿を現さなかった。そのようなことは前にもあったが、今はそれがたまらなく不安で、心の闇をさらに広げていく。
1週間ほどたったある晴れた日、陽花が姿を現した。乾ききった空気が潤ったような気がした。
昨日も来ていたかのようなたたずまいの陽花が見えると、エリヰは小さく駆け寄り、陽花の名前を呼びながら抱きしめた。
あまりにも唐突な行動に陽花は、うおっ、と声にならない声で呟いた。状況がのみこめてくると、開いていた腕をエリヰの肩に回して言った。
「久しぶり、急にいなくなってごめんね!」
陽花の表情は緩み、口元には笑みが浮かんでいた。
抱擁を解くと、エリヰも安堵の表情を浮かべ、口を開いた。
「何かあったんじゃないかと心配したよ、でも戻ってきてくれたのならなによりだ」
「あたし、やっぱりエリヰがいないとダメみたい……本当にごめんね」
陽花が申し訳なさそうに、エリヰの頭をなでながら、耳元でつぶやいた。
それから二人は、会わなかった日々を清算するように、その間に起きたことを話しあった。といっても、エリヰが聞き役に回ることがほとんどだったが。感情豊かに話す陽花に、エリヰも目を輝かせながら耳を傾けていた。
その日の夜、陽花が家で夕食を摂っていると、伯母に話しかけられた。
「陽花ちゃん、嬉しいことでもあった?最近生き生きしてるけど」
いつもは冷たく感じる伯母が、珍しく明るい言葉をかけてきた。どういう風の吹き回しかわからないが、怪しいと陽花は思った。
「そ、そうかな……?まああったかな、一応」
つとめて平静をよそおいながら答えるが、大人には通用しなかったようで、
「頬が赤くなってるわよ、よほどいいことがあったのね。好きな人でもいるの?」
伯母が追い打ちをかけた。
「す、好きな人だなんてそんな……」
否定の言葉を並べ立てる一方で、陽花はしどろもどろになっていた。
「青春ね、若いっていいわねえ。最近元気が無さそうだったけど、よかったわ」
もし彼氏ができたら紹介してほしいわ、などと陽花をよそに勝手に盛り上がる伯母。
(男の人じゃないんだけどなあ、そういうシュミもないし……)
そう考えながらも、陽花の脳裏にはエリヰの人形のような容姿と、儚げな微笑みが思い浮かぶ。心臓の鼓動が早くなる。
(確かにあの子は、か、かわいい……けど、決してそういうんじゃないんだから!きっと勘違いだよ!)
陽花はご飯を勢いよくかきこんだ。
日曜日。陽花が自室でのんびりしていると、あわただしいノックとともに伯母が入ってきた。
「あんたいったい何したの!?」
狂ったように叫ぶ伯母に呼ばれて外に出ると、中年から初老くらいの男性数人が玄関に立っていた。一瞬、何のことだかわからなかったが、その中の一人の姿を目にして、陽花は感づいた。
昨日のことだった。いつものように二人あずまやで語り合っていると、ふいに物音がした。二人がそちらを向くと、農作業姿の中年男性が尻もちをつき、震えているのが目に入った。男性は言葉にならない叫びを発しながら、一目散にその場を去っていったのだった。
つまりこの人たちは、エリヰのことで来たのだろう。
「お嬢ちゃん、これからいくつか質問をするから、正直に答えてほしい」
数人組のまとめ役と思われる老人が、ゆったりとした口調で問いかける。
「君は森の中で、毎日のように『彼女』と会っているね?」
嘘をついても仕方ないと思い、陽花は素直に頷いた。男性たちが互いに目を合わせる。
「なんてことだ」
男性の一人がつぶやき、額に手のひらを当てるしぐさをした。老人を含む他の人たちはゆっくりと視線を陽花に向けた。
「いつ頃から会うようになった?」
「先月のはじめごろです」
「なにか不審なことはなかったか?」
「いいえ、特にはないですが」
「危害を加えられるようなことは?」
「だから、何もされてませんってば」
次々に繰り出される質問を前に、陽花の語気が徐々に強まる。それに呼応するかのように、男性たちが互いに視線を交わしあい、もう一度陽花の方を向いた。
老人が何か見てはいけないものを見るかのような仰々しい顔で、おそるおそる口を開く。
「いいかい、あれは……我々普通の人間とは似て非なる存在なんだよ。いわゆる吸血鬼じゃないかといわれているんだ」
陽花は曖昧な言い方をする老人に不躾な視線を向ける。だが、吸血鬼だという老人の主張を荒唐無稽だとは思えなかった。見た目からしてどこか自分とは違う雰囲気があるし、言われてみると、あれは確かに吸血鬼だ。
「君にもわかるだろうけど、吸血鬼は我々人間にとっては脅威だからね」
言われなくてもわかるような一般常識だ。たしかにその通りかもしれない。だが陽花にとっては非常識な事にしか聞こえなかった。
「でも、あの子はあなたたちが思っているような人じゃありませんよ。コミュニケーションもとれますし、脅威に思ったことはありません。本当に吸血鬼だとしても、それは変わらないと思います」
陽花は説得を試みるが、このような状況では子供の反論なんて無視されるのが関の山だろう。そのことを心のどこかでは感じていた。
釘を刺すように、力強い口調で老人は言った。
「いいか、もう森に行くのはやめなさい。二度とあの『悪魔』に会ってはいけないよ」
陽花は耳を疑った。悪魔?あの美しくて優しいエリヰが?
この人たちは何を言っているんだろう?いったいエリヰのどこが悪魔で、人間にとっての脅威だというの?
「吸血鬼というものは血を吸うためなら、素知らぬふりして人間に取り入ってくるからね。まさに詐欺師、ペテンだよ。君がまだ汚されていなくて幸運だった」
間髪を入れず、老人は陽花に迫り続ける。
陽花の心の奥底で、何かがはじける音がした。
「ちょっと待ってください」
老人をさえぎるように言い放った陽花。呼吸をととのえ、続けようとする。握った拳が小刻みに震える。
「だいたい、あの子は悪魔じゃないし、ちゃんとエリヰって名前が……」
だが陽花の言葉は届かない。コトが起こる前だからまだよかった、危なかった、だいたい森に遊歩道なんか作るからこうなる、男性たちは口々に言いだした。
「陽花、あんたそんなことに……」
伯母も陽花を心配したそぶりを見せる。
「それにしても、まだ悪魔の影響がそこまでないようでよかったわ」
そういう伯母の視線は、陽花ではなく男性たちのほうを向いていた。
ああ、そうか。
(やっぱり、誰もあたしの事なんて、これっぽっちも考えていないんだ。村のことさえ良ければ、あたしなんて……)
伯母だって、自分の子じゃないあたしのことなんか本当はどうでもいいと思っているんだ。陽花は薄々そのことに気づいてはいたものの、もはや確信にかわりつつあり、陽花はそのことを認めたくなかった。
「明日にでもゴクンの儀式を執り行おう」
男性たちも同じようで、お互いに険しい顔をしてこれからの予定を話し合っているようだった。
それにしても、儀式という言葉が引っかかる。「ゴクン」という言葉が何を意味するのかはわからないが、もしかしたらエリヰに危害を加える結果になる可能性もある。そうなれば大変だ。
目の前にいる人たちが、陽花の眼には敵にしか映っていなかった。同じ人間のはずなのに、言葉が通じない。意思疎通ができない。エリヰは吸血鬼なのに、話が通じるし寄り添ってくれる。この人たちとは大違いだ。なのにどうして、私を理解してくれないの?
「あんたたちに」
これ以上はだめだ。一線を越えてはいけない。陽花はそのことをわかっていながらも、自分を止められなくなっていた。
「あんたたちに何がわかるのよ!」
抑えようとしていた気持ちが漏れ出す。自分でも気づかないうちに、爪が皮膚に食い込むほど拳を強く握りしめていた。
場が一瞬静まり返り、全員の視線が一直線に陽花を向く。
陽花は一目散に駆け出して、家を飛び出そうとした。しかし、門扉の前に玄関とは別の男性がいて、陽花は行く手を阻まれた。
力なく手を震わせ、うつむきながらも黙って立ち尽くしていた陽花は、やがて踵を返し、おぼつかない足取りで家の中に入っていった。伯母が何か言っていたような気もするが、今の陽花には届かなかった。
階段を上がり、自室のドアを閉め、もたれるように崩れ落ちる。陽花の瞳から光が消えていた。何も考えられぬまま茫然としている陽花の眼から涙がこぼれていた。いくら手で拭っても止まらない。
(エリヰに会いたい)
涙のなかで、陽花はただ想い続けた。
(あたし、エリヰのことが……)
想いがこころに触れるたび、涙の粒は大きくなっていく。
涙の海に身を任せ、溺れていく陽花。その一方で、彼女はあることに気づき始めていた。
気が付くと、陽花はベッドに仰向けになっていた。窓から射す陽光はやわらかく、天は朱と紫に染まっている。どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ。伯母がベッドに運んだのだろうか。
目頭に涙がたまっている。打ち砕かれるように頭が痛い。さっき会った男性たちの姿が脳裏に焼き付いて離れない。陽花の頭の中は、理不尽な大人たちに対する怒りと、もうエリヰに会えないかもしれないことへの悲しみでいっぱいだった。
頭が動かないまま時が過ぎ、日も暮れた。星の輝く夜空に、真っ白い月が浮かんでいる。
(エリヰもあの月を見ているのかな)
そう思うと、またしても涙がこぼれだす。
(私があの子に会ってしまったから、こんなことになったんだ)
陽花は心の中で、エリヰに謝り続けた。だが思いは晴れないどころか、エリヰに対する罪悪感は増していくばかりだ。
心境の変化が訪れたのは、日付が変わるころになってからだった。涙を拭き、そっと家を抜け出すことにした。フードつきのパーカーを被り、眠りについた伯父母を起こさないよう静かに勝手口から家を出る。
夜の帳が降りた村には、人の気配すらしない空間が広がっていた。昼間あれだけ世界を支配している人間も寝静まり、自然の存在たちが支配権を握っている。
明かりの乏しい道に不安を覚えながらも、陽花はまっすぐ、いつものあの場所に向かった。スマホのライトを点け、一歩一歩を踏みしめて静かに歩く。エリヰはきっと待ってくれているはずだ。
目的地に着くと、エリヰの姿があった……だがその身体は、仰向けになって歩道に倒れている。その姿を視界に認めた陽花は、叫びそうになったのを押し殺してエリヰのもとに駆け寄り、言葉をかけた。
「エリヰどうしたの!?大丈夫?」
「ああ、なんだ……陽花か?」
エリヰの反応はぼやけているが、意識はあるようだ。だが陽花に支えられ立とうとしても、膝が崩れてしまいうまく立てない。
「病気のせいか、ちょっと体調を崩したかもしれない」
エリヰはそう答えたが、声は弱々しく、どう見ても「ちょっと」ではない。
「大丈夫!?何か自販機で飲み物でも……」
緊迫した面持ちで声を上げる陽花。エリヰは黙って、陽花の顔を見つめているだけだった。
それでもなんとか体勢を立て直し、陽花が肩を貸してやっと二人はベンチに座れた。
「すまない、持病のせいだろう。でも大丈夫だから……」
説明し終えるのも待てず、陽花はエリヰの肩に手をまわし、抱きしめた。
「ごめん」
絞り出すような声で陽花は言った。エリヰはただ何も言わず、陽花の肩に手をまわし、お互いの温もりを感じあっていた。
見つめ合う二人。夜の闇を沈黙が支配していた。先に口を開いたのは陽花だった。
「ごめんねエリヰ、あたしはエリヰがどんな人であっても、あなたの味方だよ」
陽花の震える声に、エリヰは狐につままれたような表情になった。
「そういってもらえてうれしいよ、ありがとう、陽花。でも、いきなりどうしたんだ?」
不思議がるエリヰをよそに、陽花はエリヰの肩をつかみ、緊迫した面持ちで今日あったことを説明し、こう結んだ。
「聞いたよ、エリヰは吸血鬼だったんだね」
穏やかに問いかける陽花の言葉にエリヰは息を呑んだ。彼女の瞳には悲しみと不安、そして怒りが宿っていた。
「ああ。そうだ。黙っていてすまない」
しばしの沈黙のあと、エリヰは答えた。エリヰには嘘がつけなかった。陽花はさらに目を見開き、息をつく間もなく続けた。
「吸血鬼に噛まれた人も吸血鬼になるんでしょ?あたし、聞いたことあるよ」
重々しい表情と声色で、エリヰに迫る。
「それは」
陽花の覚悟を感じ取ったエリヰ。言葉が詰まる。
「正直私にはよくわからない。でもやめたほうがいい」
陽花の強い視線が、まっすぐにエリヰの瞳を見つめる。
「あたし、エリヰのことが好き。だからあたしも吸血鬼になって、いつまでもあなたと一緒に居たい!」
あくまで冷静を装い、誰も悲しまないように答えるエリヰ。それに対して、エリヰへの想いを抑えきれない陽花。つられて、エリヰの顔にも感情があらわれ始めた。
「それだけは絶対にダメだ。君まで吸血鬼になる必要はない。」
険しい表情で諭すエリヰの言葉は、しかし陽花の耳には届かない。
「エリヰが元気ないのは人の血を吸えてないからでしょう?それならあたしのを」
「ダメだ!」
陽花のことばを遮るように、エリヰが叫ぶ。
「それだけは絶対にいけないことだ。だいたい、君みたいな善良な人間は、私みたいな怪物と出会うべきじゃなかったんだ」
怪物は自分だけでいい。強い声でエリヰが叫ぶ。その声は震えていた。
「でも」
「……もう帰ってくれ!」
おろおろするばかりで引き下がろうとしない陽花に、エリヰは叫びをぶつける。
「わ、わかったよ、ごめんね」
目を丸くした陽花は、次第にうつむき、引き下がった。それでも何か言おうと口を開けては閉じるのを繰り返していたが、
「ごめんね、それじゃ」
あいさつだけ小さく手短に、その場を去っていった。
エリヰも立ち去る陽花のほうを向けず、下の方を向いていた。
「すまない」
弱々しく絞り出された謝罪の声は、誰の耳にも入らなかった。
(どうしてあんなことを言ってしまったんだろう)
雨が降り出した。エリヰの顔を、髪を、服を、容赦なく濡らしていく。だがエリヰは雨を避けず、その場に立ち尽くしていた。
(でも、これでよかったんだ)
雨の勢いが強まっていく。頬を伝うそれが雨粒なのか涙なのか、もはやわからなくなっていた。
その日からエリヰは、外に出るのをやめた。陽が沈み、森が夜の闇に包まれても、エリヰの心は晴れなかった。何もせずただじっと、棺桶の中に身を埋めていた。
だが、寂しい気持ちは晴れなかった。陽花に会えないだけで、心にぽっかりと穴が開いた気分になる。
こころの穴を埋めるかのように、様々なことについて思いが浮かんでは消えていく。そうしているうちに、エリヰは昔の記憶に思いを馳せていた。長い眠りにつく前に交流のあった、ある少女のことだ。
「お花」というのが少女の名前だった。
ある日、山菜採集のため森に入っていたお花と遭遇したのがことの始まりだった。
二人はすぐに打ち解けた。お花はエリヰに興味を持ち、暇さえあれば手作りのおにぎりをエリヰにふるまっていた。時には貴重な甘味をくれることもあった。
エリヰはいつしか、自分に興味を持ち、優しくしてくれるお花に惹かれていた。
だが二人の関係は長続きしなかった。ある日を境にお花は森に来なくなったのだ。時を同じくしてエリヰは苦手なにおいを強烈に感じ、体調を崩した。おそらく二人の関係が村人にばれ、結界か何かが張られたのだろう。
エリヰが長い眠りにつくことを決めたのも、このことが少なからず関係していた。
今思うと、お花は陽花に似ていた気がする。短い髪に、凛としたたたずまい。特に笑顔が、心に一輪の花が咲いたようで……
そうしてお花のことを、陽花のことを想うと、涙がこぼれるのを止められなかった。
「陽花……君に会いたいよ……」
だが、本当はもう会うべきではないのだ。ましてや自分と同じ吸血鬼にするだなんてなおさらだ。それが「怪物」に生まれたものとしての、越えてはならない一線なのだから。
ちょうど陽も沈んだようだし、ちょうどいい頃合いだろう。気分でも紛らわそうとエリヰは散歩に出かけることにした。しばらく動かしていなかった身体に力を入れて起こそうとするも、肢体は言うことを聞いてくれず、ぞわっとする寒気が全身を襲う。
血が足りてないのか、とエリヰは思い至った。そういえば目覚めてから人の血を吸っていない。動物の血を吸うことでだましだましやってきたが、ここ数日はそれすらもありつけていなかった。
それでもなんとか身体を動かし、棺桶の中から這い出た。途方もない時間がかかり、夜が明けてしまうんじゃないかとさえ思えた
扉から月あかりが漏れている。陽花も今頃、月を見ているのだろうか。
思えば陽花は、暗い夜に生きるエリヰにとっての月のような存在だった。それに対し、エリヰは夜空に浮かぶちっぽけな星だ。視界から消えた私は忘れられていやしないだろうか。そのようなことを考えていると、エリヰは目の前がぼやけてきた。陽花の笑顔が脳裏に浮かぶたび、涙が頬を伝う。
エリヰはうつむきながら、月の明かりをたよりにおぼつかない足取りで扉の前に向かった。蔀戸に体重をあずけながら、ゆっくりと開ける。するとそこには
「……陽花!?」
もう会うことはかなわないと思っていた、待ち焦がれた彼女の姿があった。
「どうしても我慢できなくて、来ちゃった」
月明かりに照らされたその体躯は、以前よりも凛として、大きく見えた。
「また会えたね、エリヰ」
だが、優しさと和やかさの混じったその声は以前と変わらなかった。
エリヰの頬が緩む。涙と震えの混じった、声にならない嗚咽が漏れる。
エリヰは陽花の胸に顔をうずめ、泣きじゃくった。陽花は黙って腕をまわす。まるで、転んで大泣きする子供と、慰める母親のようだった。
「ごめん、陽花。本当はあんなこと言いたくなかった。私だって陽花とずっと一緒にいたい!」
エリヰは顔も心もしわくちゃにしながら、思いのままに叫んだ。
「陽花が吸血鬼になりたいって言ったとき、本当は受け入れてあげたかった!でも、禁じられていることだから……私が臆病なばかりに……」
陽花は何も言わず、ただただエリヰを抱きしめていた。しかしその華奢な身体は、不安と恐怖で小さく震えていた。エリヰの想いを受けとめているうちに、陽花も涙を流し始めた。
しばらく二人は、沈みきった想いを流すかのように泣いていた。先に口を開いたのは、陽花だった。
「お願い、エリヰ」
小さな声でつぶやく。
「私を噛んで、吸血鬼にして。そしていつまでも一緒にいよう」
一言ずつ、しかし確実に紡ぎ出される言の葉に、陽花の揺るがぬ決意がこもっていた。陽花の大きく開かれた手が、エリヰの肩を強くつかむ。
「君と一緒にいられるなら、あたし、他に何もいらない」
すべてが寝静まった夜の森。二人の想いを妨げるものは、何もない。
時間をおかず、エリヰもゆっくりと言葉を吐き出すように答える。
「しょうがないな、本当は駄目なんだが……」
エリヰは優しさに満ちた笑顔で、陽花の眼をまっすぐ見つめていた。
見つめ合う二人の距離が近づく。
エリヰは陽花の右肩に顔を近づけ、口を開いた。研ぎ澄まされたかのように鋭い犬歯があらわになる。
「じゃあ、いくよ」
陽花の耳元で、低い声でささやき、間髪入れず、エリヰは咬みついた。
がぶり、と容赦ない音とともに、陽花の柔らかい肉肌をえぐり取っていく。エリヰの口元から血が流れ出て、陽花の白いシャツに濃く黒い赤を染みつける。咀嚼筋に力をこめるエリヰに呼応するように、陽花の口から痛みと悦びの入り混じった喘ぎが漏れる。最初それは小さなものだったが、溢れる血の量が増すにつれ、悲痛な叫びに変わっていった。
ふいに、陽花の身体から力が抜け、大きな音を立てて崩れ落ちた。エリヰはとっさに陽花の頭に手を差し出し受け止める。
声をかけようとしたところで、陽花のまぶたが閉じていることに気づく。エリヰは呼びかけるが、反応がない。どうやら気絶してしまったようだ。
しばらくして陽花が目を覚ますと、目の前にエリヰの顔があった。二人はエリヰの棺桶のなかに横たわっていた。
「おめでとう、これで君も吸血鬼だ」
エリヰは微笑みながら、陽花の頬に手を触れる。陽花はその手をとり、万遍の笑みを浮かべてつぶやいた。
「ありがとう」
陽花は安心しきった表情を浮かべていた。とても満ち足りた顔だった。
陽花は恥ずかしそうな顔になりながら、エリヰに提案した。
「さっそくだけど、あたしもエリヰの血を吸っていい?」
「ああ、もちろんだよ」
エリヰは快諾した。自らの肩にかかる衣服をずらし、白い肌をあらわにさせた。
「さあ、遠慮なく噛んで、血を吸ってくれ」
陽花はうなずき、エリヰの肩にゆっくりと手をかける。おそるおそる顔を肩に近づけ、口を開くが、しばし逡巡したのち、口を閉じてしまった。
「本当に、いいのかな……」
初めてする未知の行為に、陽花の声は消え入りそうなほど小さくなっていた。
「大丈夫だよ、ゆっくりでいいから」
今まで血を吸ったことのない陽花がこうなるのも無理はないだろう。エリヰも言い聞かせるようなことはせず、陽花のペースにまかせることにした。
陽花のほうも、血を吸うというグロテスクな行為への嫌悪感を覚えながらも、心の底では血への渇望を感じる自分に気づき始めていた。
陽花は深く息を吸い、吐いた。
「よし。じゃあ、行くね」
覚悟を決めた陽花は口を大きく開き、エリヰの肩に前歯を押し付けた。
くぐもったような音とともに、絹のように白いエリヰの肌が朱に染まっていく。
エリヰの口から吐息混じりに小さく声が漏れる。そこに苦痛の色はなく、恍惚だけが感じられた。快楽を確かめるかのように、手先は小さく痙攣していた。
陽花はエリヰの肩から顔を離した。かすれたような紅い血のあとが頬にまで広がっている。
初めて吸った血は、えぐみと渋み、酸味と塩味、そして苦みがまじりあった、不安と恐怖の味がした。製造途中の発酵食品のような粒感のないどろりとした舌ざわりが、本来喉に入れるべきものではないと主張していた。良薬口に苦しとはいうものの、良い効果など何もなさそうな苦しさをたたえた味に、陽花は顔をしかめた。
ゆったりとした口調でエリヰが訪ねた。
「どうだ、血の味は」
そうして陽花のしかめ面に視線を向けるなり、顔をそむけた。口元には薄ら笑みが浮かぶ。
陽花は、ごくり、と小さな音を立てて、エリヰの血を飲み込む。
「苦いよ!」
口に残った苦みを一掃するかのように陽花は勢いよく言い放ち、しかめ面を消し飛ばすかのような笑みを浮かべた。
「苦いけど、とても甘いよ。なんたってエリヰの血だから」
そう話す陽花の瞳は、吸血鬼特有の紅い色が混じっているように見えた。人間ではなくなってしまった陽花は、エリヰの瞳には今までで一番生き生きとした姿に映った。
「これからは、お互いの血を吸えばいいね」
陽花がささやくと、エリヰはきょとんとした表情をして、
「君の血よりも、おいしいクッキーを焼いてほしいかな」
そうして小さく笑った。
陽花も満面の笑みを浮かべて
「それくらいなら任せて、好きなだけ焼いてあげるから!」
エリヰに呼応するように陽花が笑う。
棺桶に、小屋の中に、二人の笑い声が満ちていく。二人はいつまでも笑いあっていた。
長い夜は、まだまだ始まったばかりだ。