第7話 三段撃ちは、非効率
いやぁ、この宿屋、サービスがいいっすねぇ
高級ホテルみたいだ。
時代小説は、自由が大切だ。
八兵衛が、うっかり失言しても咎めてはならない
ワウュシ・イサガ・ギツ
牛車の中には、兵士が4名。
一人は、「撃ち手」で、一人は、「弾込め役」。
「弾込め役」は、規定量の火薬を紙に包んで作った薬包を、種子島鉄砲につめて鉛玉と一緒に押し込む役である。
そうして、牛車1台に3挺ずつ積まれた鉄砲を管理しながら、すでに発射された鉄砲と、弾込めされた鉄砲を「撃ち手」と「弾込め役」に受け渡すいわば「交換手」と言える役目の者が一人。
最後の一人は、水と火と火薬の「管理者」。
桶に汲まれた水は、万が一にも火種から火薬への引火を防ぐため。
もちろん、火種を絶やしてはならない。
そうして、鉛玉と、火薬が包まれた薬包を「弾込め役」にタイミングよく渡すのも、「管理者」の仕事であった。
「ほら、鉄砲の『三段撃ち』ってさ、たぶん総数で500挺~1000挺くらい銃がいるんだよね。しかも、一斉射撃だからとんでもない量の硝煙が必要になるし・・・」
そう、有名な「三段撃ち」を有効に活用するには、大量の鉄砲とその撃ち手を用意し、「斉射」を行う必要があるのだ。
そもそも、甲斐の武田にとって、種子島鉄砲を1000挺なんてとんでもない話。
新たに味方につけた、遠江や奥三河の国衆の手持ち分をあわせても、保有総数は、300挺に満たない。
「まぁ、この撃ち方だと、100挺やそこらの銃があれば、相手に十分な打撃を与えれるからねぇ。」
武田方が敷いた「鶴翼の陣」は、翼を広げた鶴のように相手を包み込む陣形。
対して、家康側の「魚鱗の陣」は、キリのように、1点突破を図る陣形。
鶴翼に、バランスよく配置された牛車から対角線状に四方八方から鉄砲の射線が伸び、包み込んだ相手方に弾を撃ちこむ。
突撃のため一直線に伸びた家康隊は、ただただ、めった撃ちにされるだけであった。
「コスパが段違いだよね。『三段撃ち』と同じで連射は出来るんだけれども、火薬の使用量が、あっちより圧倒的に少ないもん。的が一直線に並んでくれてるから、撃ち手がほとんど外さないっていうのは、ホントおいしいわ。」
こうして、不利な形で戦端を開き、突撃することを余儀なくされた家康は、武田の鉄砲隊にさんざんに狙撃され、日没までのわずか2時間ほどの戦闘であったにもかかわらず、多数の兵士、また、多くの部将を失って壊滅状態で敗走することになったのであった。
「やっぱり、撃ち始めるのは、もうちょっと相手を近くまで引き付けてからの方が良かったかなぁ。でも、近づけると、万が一の突破もあり得るし・・・まぁ、うちの兵隊に被害を出さずにノーリスクで家康の首まで取るっていうのは、ちょっと高望みしすぎか。」
つぶやいたのは、信玄であった。
悔しいことに、家康を討ち漏らしてしまったのだ。
しかしながら、武田軍の死傷者が0人だったのに対し、家康軍の死者・重傷者は、2000人を超える。
8000人中の2000人と計算すれば、25%。
そうして、家康は、四分の一の兵を失っただけではない。
中根正照、青木貞治、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった、現場で指揮をとることができる部将を失うことになったのだ。
指揮者がいなければ、部隊の再編成が格段に難しくなる。
これは、両勢力にとってかなり大きいこと。
信玄が、しばらくの間、家康部隊の追撃をあまり恐れずに前に進むことが出来るようになったからだ。
その上である。
まともに戦いに参加せずに、危なくなったら逃げる予定だった織田軍にまで、一定数の死傷者が出ており、援軍3将の1人であった平手汎秀も戦死してしまっている。
『三方ヶ原の戦い』は、武田軍の完勝として、記録されることとなった。
家康の様子を見るため、浜名湖北岸の形部村にしばらく滞在し、兵を再編成した後、相手が動く気配が無しと見た信玄は、宇利峠から三河へ進入し豊川を渡河する。
その先にあったのは、三河物語に「川藪の内の小城」と記される豊川の段丘地形を利用した小さな堅城「野田城」であった。
兵500をもって菅沼定盈が守るこの城は、吉田城・田原城から豊川上流にかけた地域を押さえ、遠江と三河を分断するために必須ともいえる要衝だ。
野田城・吉田城・田原城、また、家康の嫡男・信康がいる本拠地・岡崎城と続くラインを押えることで、浜松城を完全孤立させ、三河以東を事実上、信玄の勢力圏におくことが出来るのだ。
しかし、攻め手が難しい。
「野田城」が、小さな堅城である一番の理由は、攻め口が限られていること。
3万を超える武田軍を一気に城に向かわせることが出来ないのだ。
信玄は、力攻めを行わなかった。
攻め口が限られる以上、力攻めで押し切ろうとしても、兵力の損傷が大きくなるだけだと判断したからだ。
それでは、どのようにこの城を攻略するか?
彼は、甲斐より「塩掘衆」を呼び寄せることにした。
「塩掘衆」とは、その名前の通り、岩塩を掘り出すメンツだ。
そう、かれは、わざわざ甲斐の「塩掘衆」を呼び寄せて、地下道を掘り、「野田城」の水の手を断ち切ることで、これを落とす計略を考えたのだ。
1ヵ月。
それでも、菅沼定盈は、約4週間にわたってこの城を守り抜いた。
最後には、城兵の助命を条件に開城・・・降伏し、捕虜となったものの、畿内で織田軍が浅井長政、朝倉義景、本願寺らと戦うための時間稼ぎと考えれば、わずか2時間・・・『三方ヶ原の戦い』の短期決戦で、敗戦を喫した家康に比べ、菅沼定盈は、信長の期待する役目を期待以上に果たしたと言えよう。
さて、野田城が落ちたことで、重要拠点である吉田城・田原城や、岡崎城は、風前の灯火・・・家康の本国・三河は、大きな危機に陥ったのである。
こううして、信玄は、織田領に臨む一歩手前まで、その部隊を進めることとなったのであった。
次話更新は、26日or27日の21時を予定しています
たぶん、次で終わらせます