第6話 決戦!三方ヶ原
歴史小説は、難しい
史実は、虫食いのように記録され
作者は、穴を埋めなくてはならない
長文になってしまうのは、許されるべき・・・
サイ・ナンメゴ・テナクガナ
遠江の要衝・二俣城を陥落させたことで、遠江国北部は、武田勢力圏となった。
信玄隊は、17000の兵、馬場信春隊が5000の兵、そして合流した山県昌景隊が5000の兵。
対する浜松城の家康軍の総兵は8000。
浜松に入った織田援軍は、佐久間信盛、平手汎秀、水野信元ら兵3000っ!
この報は、すぐに信玄の元へと届いた。
これは・・・
信長が家康を見捨てた。
後に追放されるも、佐久間信盛は、織田家の幹部クラスの重臣。
平手汎秀は、平手政秀の三男で、織田家代々の家老。
水野信元は、家康より重要拠点を有する東尾張~西三河の雄。
彼らは、手持ちの兵のほとんどを尾張・美濃方面に残して浜松城に入ったのである。
「兵3000ってないだろ。こいつら、まともに戦いに参加せずに、危なくなったら逃げる気だわ。」
桶狭間の戦いで、援軍として派遣した穴山信君に伝えられた命令。
「武田兵を今川より大きく離して距離を取り、後ろにつけ。戦功をあげようとは、絶対に思うな。」
あの時、信玄は、今川義元を見捨てた。
全く同じ動きを信長がしていることに気がついたのである。
「家康を撃破するのは、今だっ!」
追い込まれた家康は、浜松城に籠城する構えを見せる。
信玄は、大軍をもって浜松城を攻囲・・・するのではなく、城を無視して西へと進んだ。
家康のいる浜松城ではなく、西の野田城へと向かったのである。
彼の目的は、吉田城や田原城を落とすこと。
それと連携して、3年の期間をかけて整備した武田水軍によって、遠州灘から三河湾にかけての海上封鎖をすることにあった。
野田城の菅沼氏所領は、吉田城・田原城から豊川上流にまで広がっており、また、田原城主・本多広孝及び、吉田城主・酒井忠次は、今まさに、浜松城で籠城の準備をしているところだ。
野田城を落とし、これを拠点に吉田城へ進撃する。
城主不在で、兵力が手薄となった吉田城・田原城を陥落させるのは難しいことではない。
こうして、遠江・浜松城と三河及び尾張の間を遮断。
物流をおさえ、兵站を断ち切ることで遠江の維持は、事実上ほぼ不可能となる。
つまり、彼は、家康の居る浜松城と嫡男信康がいる岡崎城、そして織田領の尾張との輸送物流を遮断して、家康と織田援軍を事実上の孤軍にしようとしたのである。
対する家康側である。
関ケ原の際の真田昌幸を思い浮かべていただければよいかもしれない。
家康の背後に居る信長の考えは、畿内で浅井長政、朝倉義景、本願寺らと戦うための時間稼ぎの役目を、浜松城の籠城戦で行って欲しいというものだ。
畿内さえ抑えることが出来たならば、動員できる最大兵力は、織田側の方が、圧倒的に大きいのであるからして、巻き返しは、難しくない。
落城せず、目的通り時間稼ぎに成功すれば良し。
最悪、家康らは、捨て石となっても良いと考えているはずである。
しかし、浜松城の兵8000と援軍3000が、補給を立たれ孤軍となるのであれば、彼らは、近いうちに後年の鳥取城水攻めと同じ悲惨な結果となることは、目に見えている。
その上、裏切りが起こり、時間稼ぎするどころか、短期間での内部崩壊すら否定できない。
家康は、野戦を選択した。
あえてここで出撃しておくことで、土着の国人衆たちの信頼を得ておかねば、武田の調略に乗る者、自ら武田側へ身をゆだねる者など離反者が出る可能性が大きかったからだ。
武田に一撃を与えて離脱することを成功させることが出来たならば、家康の価値がグンと上がり、最終的に織田・武田のどちらが勝つにせよ身の振り方についての選択肢が多くなる。
また、それこそ桶狭間のような2匹目のドジョウが落ちている可能性さえ考えられる。
けっして、無謀な突撃だったというわけではない。
しかし、同日夕刻に三方ヶ原台地に到着した家康が見たのは、翼を広げた鶴に見立てられた「鶴翼の陣」。
万全の構えで待つ武田軍であった。
しかも、武田軍の前には、強固な木柵が建てられており、その後ろには、見たこともない竹を割り半円状にした飾りを付けた車が、横向きに駐まっている。
家康は、馬の上で爪を噛んだ。
もうお分かりだろう。
信玄は、野田城に向かうことで、家康の追撃を誘発した。
そして、自軍に有利となる三方ヶ原台地に強力な陣を敷いて待ち伏せたのだ。
そうして始まったのは、世に言う『三方ヶ原の戦い』である。
家康は、自軍を「魚鱗の陣」の形へと変形させた。
これは、錐のような形で敵中突破を狙う陣形で、劣勢の家康は、武田軍の「鶴翼の陣」を見て、「鶴翼は、数が優勢な側が相手を包囲するための形であるからして、両翼にある程度の比重を置く。必然的に陣の中央は比較的兵力が薄くなる。ならば、大将首・・・すなわち信玄を討ち取る」と、中央突破に狙いを絞ったのだ。
「我に続けっ!」
後年の大阪の陣で、真田幸村が大将首・・・すなわち家康を討ち取ることに狙いを絞り敵中突破を狙ったのと同じように、家康は、馬を駆り武田軍へと迫った。
その距離が70メートルを切った時であった。
ばんっ! ばんっ! ばんばんっ!
鉄砲であった。
横向きに駐車された車は、岩塩流通に使われている竹を割った半円状の飾りが取り付けられた二頭立ての牛車から、牛を外したもの。
これを数十台用意し、強固な木柵の後ろに並べて分散させて配置していたのだ。
竹を割った半円状の飾りは、見た目を豪華にして高級感を出すためだけでなく、もっと実用的な目的。
すなわち、相手方が鉄砲を撃ちかけてきても、竹の半円が銃弾を逸らして弾くために取り付けたもの。
牛車の中に居る鉄砲の撃ち手を守る仕掛けであった。
「いやぁ。ホントは、もうちょい50メートルくらいまで引き付けてから撃った方が命中率がいいんだろうけど、間違ってあいつらの突破を許したら死んじゃうからねぇ。とりあえず、火縄銃で十分な殺傷力が確認されている70~80メートルまで近づいたら、撃っちゃって構わないよね。」
最も安全な後方の高台で戦況を見下ろしながら、小さく呟いたのは、もちろん彼・・・信玄であった。
次話は、2月25日21時に投稿できるよう頑張りますが、できなければ26日21時になります