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第5話 同盟破棄

時代小説は、奥が深い

目安箱には錠前がかかり、将軍だけがその鍵を持つ

暴れる将軍が庶民の声を聞いて暴れる物語は、

直接、民から声を聞こうとした

8代目のその行為が反映されたものである

            ショグンウ・ボンレバア

何はともあれ必要なのは、「硝煙」である。


山村において、枯草に小便をかけ、小屋の床下のジメジメした場所に敷き詰めておけば、時間の経過でこれが出来ることは知られていたが、いかんせん増産が難しい。


どうしても、堺の港からの供給が、必要であった。


どういったことか、織田信長が、美濃より先に伊勢を攻めてこれを領国化していたため、伊勢湾は、織田の勢力圏となっている。


元々伊勢の北畠家に仕えていた向井や小浜ら本人、また、その近親者は、伊勢の大湊港に出禁となっていたものの、その配下であった者や関係する船商人らが入港することまでは、厳しく取り締まられてはいない。


そこで、信玄は、かつて北畠水軍に関係した船乗りを使い、駿河・清水港~伊勢・大湊港の航路を確立させた。


そうして、伊勢・大湊港から、堺までの航路をつなぐと、あら不思議。


行きは、甲斐の岩塩がこれを伝って上方へと流れ、その「帰り道」には、大量の「硝煙」が駿河・武田領へと流れ込む。


もちろん、、甲州街道の岩塩流通に使われている竹を割った半円状の飾りが取り付けられた馬車や牛車での輸出入も続けて行われているが、船での運送量とそのスピードに敵わないのは、言うまでもない。


そう、織田信長と同盟を結んだのは、この期間に物資を武田領へ流し、ため込むためであった。




「痛ぇ・・・なんで、頬をつねってみても痛くないのに、年を取ったら節々とか体中が痛いって感じるんだよっ。夢の中のくせに、ちょっとリアルすぎじゃね?」


3年の月日は、物資を貯め、力を蓄えるのに十分な期間であったが、その間に彼は、年齢を重ねていた。


ヤマの中で便器の上にかがむにも、ひざなど体の痛みに悩まされるようになっていたのだ。


「しかし、はえぇな。もう比叡山焼き討ちしたんだ。」


そう、信長が、比叡山を焼いたのだ。


1499年、当時の管領細川政元が、対立する足利義稙の入京に呼応して僧兵を動かした比叡山延暦寺を攻め、焼き討ちした。


このため、山上の主要伽藍は、ことごとく焼け落ちたと言われる。


そこから復興した延暦寺の伽藍。


これが、今度は、信長の手で焼かれたのだ。


「しかし、『我、第六天大魔王なり』って・・・細川政元のサル真似をして、自分が初めてやったみたいに言うの好きだよなぁ。信長って、ジョブズみたいだわ。ま、言ったもん勝ちだわな。」


シャープのザウルス端末開発チームメンバーからアイデアメールを貰った後、スマートフォンを開発し、あたかも自分のアイデアではじめて開発されたかのように発表した海外の有名人の名前をつぶやきながら、天から垂れ下がるヒモを引き、便器に水を流す。


そう、ここから同盟を破棄し、家康・信長を倒さなければならないのだ。


ぶるるっと身を震わせると、痛む体をだましながら、彼は、よっこらせと立ち上がった。



彼の行動は、早かった。


信長を「天魔ノ変化」と非難した上で、同盟を破棄。


また、比叡山延暦寺の天台座主・覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命させ、延暦寺を甲斐に移して再興させようと図る。


もちろん、これは、計画通り。


「いいタイミングで延暦寺を焼き討ちしてくれてありがとう。戦いのための物資や資金も十分準備できているし、同盟を破棄して攻め込む大義名分が出来たよ。」


そんな気分であった。


彼は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で兵を動かす。


まずは、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景、本願寺らに信長への対抗を要請する。


そうして、武田勢は、諏訪から伊那郡を経て遠江に向かった後、軍を2手に分けた。


山県昌景と秋山虎繁の支隊は、徳川の本国三河へ向かい、信玄率いる本隊は馬場信春を副将として青崩峠から徳川の勢力圏である北遠江に攻め入ったのだ。


もちろん、駿河からは、穴山信君を大将として、第3軍が後詰として信玄本隊を追いかけている。


しかし、穴山隊が追い付く間もなく、信玄本隊は、徳川氏の諸城を数日で落とし進軍をつづけた。


補給は、もちろん武田水軍だ。


後年、石田三成や増田長盛、長束正家らが参考にしたと言われる方法で、水軍を最大限活用し、兵糧・輜重など大軍の動員に必要な輸送を行い、兵站を確保する。


母船となる大船から小舟を何艘も放って接岸し、少量ずつ必要なものを必要な量、必要な時、必要な場所に送り込んだのだ。


「ふっ。これぞ、ジャストインタイム戦法だ。」


周りの小姓たちのいぶかしげな表情も気にせず、ぶつぶつと呟く信玄の居場所は、岩塩流通に使われている竹を割った半円状の飾りが取り付けられた二頭立ての牛車の中。


体を動かすたびに感じる節々などの体の痛みのせいで、乗馬での移動を苦痛に感じたためである。


「いやぁ、オレって天才。やっぱ牛車だよね。屋根があるから雨でも濡れないし。」


移動の困難な山道は、小さな牛車を用い、開けた平地に出たならば、スピードの出る馬車を使う。


この使い分けで、道中を快適に過ごすことが出来るのだ。


2手に分けた武田軍支隊も順調であった。


山県昌景隊は、三河に侵攻。


奥三河の三人衆である田峯城・菅沼定忠、作手城・奥平貞能、長篠城・菅沼満直をひきつれ、浜松方面に向い進軍。


柿本城の鈴木重時を撃破すると、遠江に入り伊平城落とす。


そうして、二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流した。


秋山虎繁隊は、東美濃へと進む。


岩村城の遠山景任が亡くなったのち、信長の叔母で女城主おつやの方が主としておさめる要衝・岩村城を攻め、これを軍門に下した。


ここで、浅井長政、朝倉義景、本願寺らに信長への対抗を要請しておいたことが、大きく効果をあらわした。


信長は、武田に対し絶縁状を突き付けて対抗しようとするも、浅井長政、朝倉義景、本願寺・一向宗と対峙しているため、家康に対する援軍として、佐久間信盛、平手汎秀、水野信元らが率いる兵3000を送ることしかできなかったのだ。


勢いに乗る武田軍は、城に引き込まれる水の供給を断ち、遠江の要衝・二俣城を陥落させる。


こうして、彼は、家康の居る浜松城に迫ることとなった。

次話は、2月24日21時を予定しています

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