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第4話 遠州、駿河侵攻

歴史if小説は、簡単だ

改変しても、怒られることがない

ただ「ゆめのなか」の話を書けばよい

      ショグンウ・ボンレバア

なにはともあれ、急ぐのは、北条への使者であった。


義元の亡きあとの今川を敵に回しても、北条を敵にするのはまずい。


南に進出するには、北条氏康を抑えることこそが第一となる。


信玄が目を付けたのは、北条氏直という若者。


この氏直は、北条氏康の孫にあたる。


注目すべきは、氏直が母の腹の中に入っていると聞いた信玄が、甲府・恵林寺でその安産の祈祷を行っていること。


なぜか?


その母親・・・これが信玄の娘・黄梅院なのだ。


つまり、氏康・信玄の両者にとって、色濃く血のつながった孫。


信玄は、ニヤリと唇の端を吊り上げた。



今川領・・・



天竜川流域を中心とする遠江・駿河や国衆から、武田重臣・穴山信君に援助要請が来たのは、それから間もなくであった。


義元の子・今川氏真が、不穏な動きを見せる国衆の征伐に乗り出したのである。


穴山信君より報せが届いた時、信玄は、ヤマに座り北条氏康からの書簡を読んでいた。


報せを受けた彼は、ヒモを引き水を流した。


さっと立ち上がると、小姓に伝える。


「遠江、駿河に兵を出す。」


氏康の返書で、北条が敵に回らぬと確信しての言葉であった。

 


 北条氏直を今川氏真の猶子とし、駿河守の後継者とする


 武田が行う遠江・駿河侵攻は、今川と上杉が


 武田挟撃を画策しているためであることを認める


 信玄が、10年間、駿河を借り受ける



今川氏真の介在せぬ場所で密約が成立し、武田・北条、両者の妥協点が一致した瞬間であった。


穴山信君を先鋒に駿甲国境に兵を集めた武田軍であったが、そこから先には兵を動かそうとしなかった。


ある動きを待ったのである。


それは、今川方へ行われる北条氏康からの援軍要請。


遠江・駿河を兵の空白地帯に置くための策略であった。


この動きに無邪気にも今川氏真は、遠江・天竜川流域への出兵を中止し、北条が行う武蔵国の太田資正討伐に援軍を送ってしまう。



侵掠如火・・・侵略すること火のごとし



今川領になだれ込んだ武田軍の動きは速かった。


駿河・富士郡の要衝で富士氏が守る大宮城を落とし、西に向かうと交通の要衝である内房を押さえにかかる。


この動向を見た氏真は薩埵山で迎撃の構えを見せるが、内房口の戦いでは、名の知れた荻清誉が討たれたことで士気を維持することが困難となり、さらに、瀬名信輝・朝比奈信置・葛山氏元らが既に武田氏と内通していたことで戦わずして敗れることとなる。


氏真は駿府を追われ、遠江・懸川城の朝比奈泰朝を頼って敗走した。


この時、信玄は、北条氏康の娘で氏真の正室である早川殿を救出することに注力した。


今川氏真は氏康にとって娘婿という間柄である。


氏康の娘・早川殿の身の安全だけは、保証しておかないと、この土壇場で北条が今川方に味方する可能性があったのだ。


早川殿を確保した彼は、彼女を丁重に氏康の居城小田原へと送り届ける。


相模への帰路につく彼女が乗るのは、輿ではなかった。


そう、甲州街道の岩塩流通に使われてている竹を割った半円状の飾りが取り付けられた豪華な牛車。


早川殿のために内装も豪華に飾り付けられたこの牛車で彼女を送り届けることで、北条氏康の気持ちをなだめたのであった。


こうして、駿河を手の内に入れた信玄であったが、さらに西・・・遠江へ兵を動かそうとした時に、1つの問題が彼の前に立ちふさがることとなる。


それこそが、今川義元の死後、元康より改名し、三河の国を掌握した松平家康であった。


「はえぇよ。松平って、徳川家康のことだろ?主人公補正入ってるでしょ。ずるくない?もう三河を統一してるってあり得ねぇ・・・。」


今川義元の死後間もなく、駿河を手に入れた自分の行動を棚に上げ、この場に居ない家康に文句を言うも、相手に届くわけでもなく、そのつぶやきは、ヤマの中に響くだけ。


「仕方がない。信長と同盟を結ぶか・・・」


この時の信玄の動きは、かの有名な太田馬一の『信玄公記』に記された通りである。



彼が信長に小袖を贈った際、梱包に漆箱が使われていた。


漆箱というものは、漆を塗っては乾かしながら四重五重と重ね塗りをしていくもので手間のかかる高価な品であるが、スピードとコストパフォーマンスが優先されるこの時代、墨などで軽く塗ったその上に漆を塗ってごまかす簡易塗装が通例となっていた。


ある時、ふと思い立った信長が信玄より贈られた品の漆箱を割って調べると、どうであろうか?


それは漆が何度も重ね塗りされた最高級ともいうべきものであった。


これを見た信長は、「漆箱こそが信玄の誠意の表れであり、織田に対する誠意は本物である」と周囲に語ったと言われる。


もちろん、武田の家臣たちの中には「織田家などへ贈る漆箱にそのようなものを使う必要はない。」という声が多数存在した。


その声に対し、彼は「魂は、細部に宿るもの。そこをおろそかにすると、うまく行くものも迷路に入り込んだようにもつれていくものだ」と、家臣に訓示する。


家臣たちは、カリスマ指導者の言葉に「ほぉっ」とため息をついたのであった。


「いやいや・・・信長、怖ぇんだって。あいつ、神経質で細かいから、絶対、のこぎりで箱を斬って、漆の重ね塗りを確認するに決まってるじゃん。いくらコストがかかろうとも、信長だけには、手を抜いちゃダメなんだよ。」


もちろん、ヤマの中で、このようなつぶやきがあったことは誰も知らぬこと。


それはさておき、細やかなことにも神経を配りながら、彼は、織田信長との同盟に成功するのであった。


「3年だ。駿河湾と伊勢湾に船を集めよ。」


彼は、駿河にて、元々は、今川の水軍大将であった伊丹康直をトップに据えて、武田水軍というべきものを編成する。


また、向井や小浜といった久喜嘉隆に敗れた北畠家の伊勢水軍の残党を駿河・武田水軍に積極的に取り込む。


こうすることで、水軍の兵力を増強させるとともに、駿河湾の清水港と伊勢湾の大湊港及び堺をつなぐ商船航路を活性化させた。


船便が出るのであるからしてもちろん、甲斐の岩塩の輸出量が数倍に増えたことは、言うまでもない。



3年。



彼は、大切な準備期間として力を溜めたのだ。

次の話は、2月23日21時予定です

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