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第2話 甲斐のあか塩みどり塩

歴史小説とは、史実を追う大河ドラマ型小説

時代小説は、時代を想像し描く水戸黄門型小説

ただし、近年の大河ドラマは、時代小説寄りのモノが存在する

              歴史学者 ドス・ルイ・エヤス

「山を掘るっ!」


信玄が宣言したのは、永禄2年6月のこと。


彼には、南の対策を実施する前にやっておくことがあった。


「山を掘る?もしや、金山の開発であろうか。」


「いやいや、殿のことであるヤマと申したからには、トイレをもう一つ作るという話であろう。」


家臣たちが、いぶかしげに相談する中、彼は、思いもよらぬ行動に出た。


山に登り、堀り出して砕かれた岩を食べはじめたのだ。


気が狂ったと思われても仕方がない行動。


彼が武田信玄でないのであれば、ほとんどの家臣が離反してもおかしくなかった。


それでも、信玄のもと鉄の結束を誇る武田家臣団に大きなほころびは起こらない。


しかし、疑心暗鬼に陥っていなかったといえば、嘘になる。


安倍信邦、飯富虎昌、長坂勝繁、曽根虎盛、穴山信嘉など安倍派5人衆を中心に、越後へ人質として差し出した嫡子・武田義信を呼び戻すべきではないかと裏工作を始める者たちがいたのだ。


永禄2年8月7日、信玄は、小県郡の生島足島神社において、領国内の家臣団に彼への忠誠の誓いをしたためさせた起請文を奉納した。


これは、5人衆の裏工作によって生じた家臣団の動揺を鎮める意図で行ったものであった。


小さな問題が起これば、その都度修正する。


彼は、それを丁寧に繰り返した。



  これは・・・塩辛いっ。



細かく砕かれた赤い岩、緑の岩。


ようやく彼が目的のモノを発見したのは、9月のことであった。



評定の場。



「美しい。なんて美しい赤と緑だ。」


輝き透き通る赤と緑の小さな結晶の小山。


騒ぐ集まった家臣たちの前には、2つの紙の上に乗せられた非常に細かい赤の粒と緑の粒が並んでいた。


「これは、岩塩だ。」


海の無い甲斐では、塩を産生することはできない。


その常識が覆されたのだ。


いわゆる日本アルプスの地層の中に、塩のモトとなりうる層が存在していたのである。


この山脈は、2億年以上前に遠洋で堆積した地層が、プレートの運動により日本付近の海溝まで移動し、これが日本列島の縁に届いたのちに、最近の100万年間にプレートの急激な圧力で3000メートル級の山脈に成長したもの。


岩塩は、地殻変動のため隆起した地層に海水が閉じ込められ、その後の水分蒸発により塩分が濃縮し、結晶化したものである。


他の岩石より軽いため、圧縮を受けやすく、絞り出されるように塩の成分が地層中で盛り上がり構造を作ることから、ある程度簡単に取り出すことができたのだ。


「これを甲斐の特産として京、近江、堺、伊勢に売り出す。」


家臣団がざわめく。


「殿、それらの土地は、用意に塩を手に入れることができる場所でございまするぞ。」


内陸の甲斐と違い、堺、伊勢は、塩の入手が困難というわけではない。


海に面していない京・山城にしても、甲斐に比べれば容易に塩を入手できる。


近江などは、物流拠点であるからして、生産地よりも豊富に塩が存在しているのだ。


「問題ない、このまま輸出する。」


そう、精製せず「このまま」輸出するのだ。


実は、これらのを岩塩を溶かして析出させる手順を繰り返すと、ただの白い塩になってしまう。


輝き透き通る赤と緑の小さな結晶の粒が、ただの白い普通の塩になってしまうのでは、価値がない。


ブランド価値を高めた商品で、外貨を獲得するのだ。


結果、甲斐の『赤塩』『緑塩』は、応仁の乱の荒廃から復興しつつある京の都を席捲することとなった。


2つの美しい岩塩の存在で、畿内の食文化が一変。


武田家への評価も一変した。


人をもてなす『食事』の際に、それを彩る『赤塩』『緑塩』が添えられていない接待は、2流以下とされるようになったのだ。


食接待の指南役として、伊勢・今川・小笠原と並んで、教授役としての地位が確立されてゆく。


木曽と甲斐の山猿・・・そのような野蛮人評価から一変、教養に富む文化人扱いである。


外貨と、文化的名声。


彼は、塩を輸出するだけで、この2つを手に入れることに成功したのだ。


しかし、甲斐では、逆の現象が起こっていた。


領民の使う塩は、駿河遠江を有する今川領から輸入した普通の塩なのである。


しかも、今川領からの輸入は、岩塩の生産をはじめて以降も、増え続けているのだ。


「余った分は、貯蔵しておけ。」


彼は、先を見据えて塩の貯蔵を命じ、赤い塩の粒を一つ口の中に放り込んだ。


さて、岩塩の生産を軌道に乗せる間に、彼は2つの仕事に力を入れて同時並行で進めていた。


その一つが、馬車と牛車の製造であった。


それも、屋根付きのモノである。


もちろん、馬は、現代のサラ種ではなく、足の短い木曽馬。


牛も、今のモノとは違うが、こちらは、肉質や乳以外、大きく差がないと考えてもらってよい。


木で作られた車輪には、布を巻く。


タイヤの代わりである。


山中に自生する麻を収穫し、その繊維で丈夫な布を作ったのだ。


車軸と車体とをつなぐ部分にも、衝撃を吸収する目的でこの布が詰められた。


また、車体周りには、竹を割った半円状の飾りが取り付けられ、同じものを御者や牛馬の周りにも配置することで、デザインの一体化が図られる。


この馬車と牛車により甲州付近の街道の流通は、大幅に改善することとなった。


もちろん、これは、岩塩の流通を支える大きな柱となるものである。

次話は、2月21日を21時予定しています

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