第6話 一度目の人生・奪われるばかりの毎日
ウィスティリアは自室に戻り、そのままベッドに倒れ込んだ。
「リリーシアに奪われてもだいじょうぶなんて、強がりだって思われるわよね……」
殺風景なウィスティリアの自室を、寝ころんだまま、ぐるりと見まわす。
ベッドに天蓋がついている以外に、貴族の娘の私室らしい様子が全くない。
以前は壁に天使の絵を飾っていたりもしたが、その絵もとっくにリリーシアに奪われた。クローゼットの中の服やドレスも、きれいだったり華やかだったりするものはない。祖母が生前使っていた地味なものを少々手直しした服が数枚だけ。
書き物机の上にもなにも置かれていない。
ぬいぐるみも、花も、リボンもない。
カーテンも深緑一色。
あまりに殺風景すぎて、以前、メアリーたちが庭の花を庭師のトムからもらってきて、書き物机の上に飾ってくれたこともあったほどだ。
が、その花すらリリーシアに奪われた。
だから、その時に、ウィスティリアはもう花は飾らなくていいとメアリーたちに告げた。
「気持ちは嬉しいの。メアリー、モーリン。みんな、ありがとう。だけど……せっかくの花をリリーシアに奪われるのは、かえって悲しいから……」
そう言ったウィスティリアに、メアリーたちのほうが泣きそうになっていた。
ごめんなさいね、と。何度も告げたウィスティリア。
「いいえ……っ!」
メアリーたちは首を横に振った。
「みんなの気持ちは、嬉しかったのよ。それは本当なの……」
そんなことが過去にあったからこそ、奪われるのではなく、使用人たちに喜んでもらえるように何かを作ろうと思ったのかもしれない。
「形あるものは、奪われる」
宝石も、ペンダントも、祖父母にもらったレースのハンカチも可憐な人形も。ドレスもリボンもなにもかも。可愛いものやきれいなものは全てリリーシアに奪われてきた。
この部屋に残っているものは、リリーシアが気に入らなかったものだけ。
分厚い書籍や地味な服。
ウィスティリアだって、ふんわりと軽く、きれいな服を着て、可愛らしいリボンを使って髪を結いたいと思う。だが、それは無理だ。
引き出しの中やベッドのシーツの下に隠したところで、漁られてしまう。
「強がり……かもしれないけど、奪われるくらいなら、みんなに喜んでもらうほうがいい。……それは、ホントなのよ。だけど、ホントのホントは……奪われたくない。取られないほうがいい……」
モノではない、形のない思い出。
嬉しい気持ち。
楽しい出来事。
それがあればいい。奪われることは嫌だけど、我慢できる……と言いかけたとき、コホンと小さく咳が出た。
続けて、更に二回、コホンコホンと。
本当の本心ではない。仕方なく自分を慰めているだけだ。我慢して、本心を押し殺しているようなものだ。
そう咳が主張しているようだった。
「だけど、仕方がないわ。奪われ続けるたびに、慰めを重ねていくしかないのよ……」
重たい荷物を背負って、山を登っていくのは、正直言えばかなりつらい。
だけど、その山道の途中では、鳥が美しい声で鳴いたり、きれいな花が咲いている。
天気だって、雨の日ばかりではない。
晴れて、清々しい日だってあるはずだ。
そうでも思わなければ、これ以上はもう耐えられなくなる。
奪われるだけに慣れるわけはない。
慰めや心の支えはどうしたって必要だ。
ウィスティリアは書き物机の引き出しから、一冊の本を取り出した。
幼い時、一番最初に文字を習ったときの家庭教師からもらったもの。つまりは教科書。
月や太陽と言った言葉の横にその絵が簡単に書かれていたり、「かみさまのおしえ」や「てんしのはなし」などの短い文章も載っていたりする。
「この本がリリーシアに奪われなかったのは、一人に一冊、同じものを手渡されたからなのよね……」
しかも勉強の本なので、リリーシアはこの本に全く興味を持たなかった。
ウィスティリアにとってはリリーシアに奪われなかった、数少ないもののうちの一つだ。
何度も何度も繰り返しこの本を読んだ。表紙が擦り切れそうになるほどに。
書かれている短い文章も好きだった。
特に世界を作った神様の話や背に翼の生えた天使の話などが。
パラパラとページをめくってみた。
「……天使は神様の御使いです。死んだ人間の魂を導きます。良い人間は、神様の居る国へ連れていかれます。悪い人間は、神様に罰せられます」
初めてこの文章に触れたとき、ウィスティリアは雷に打たれたような衝撃を受けたのだ。
神様がいて、天使がいる。悪い者は罰せられる。
ならば、きっといつか、リリーシアは神様によって罰せられる。きっと、きっとだ。
幼い日のウィスティリアはそう思った。いや、願った。
神様、どうか、どうか。わたしのモノを奪うリリーシアを罰して。
わたしは絶対に悪いことはしないから。
今ではもう、神も天使も空想上の存在で、実在はしないとわかっている。
わかっていても、辛くてどうしようもないときは、神にすがりつきたくなる。
神様。どうか、どうか、お願いします。わたしはリリーシアのように他の人のモノを奪いません。良い子にしています。だから、いつかきっとわたしを神様の国へ連れていってください。
「わかっているの。いくら祈りを捧げても、神様によって救われることなんてないことは。神に祈るなんて、単なる現実逃避にすぎないって……」
救われることなどないと、理解していても。
それでもすがりつけるなにかがなければ、耐えきれない。
「現実には、わたしを助けてくれているのは、神様ではなくて、使用人のみんなよね。だけど、彼らだって根本的にどうにかしてくれるわけではない」
リリーシアに奪われて、親切心から花を摘んできてくれる。そのあたたかな心は本当に嬉しい。
けれどウィスティリアの人生から、リリーシアを排除などできるはずもないのだ。
「奪われても耐えて、みんなに慰めをもらって……。そしてまた奪われて……の繰り返し。それを、いったいいつまで繰り返せばいいのかしらね……。死ぬまで、一生かしら?」
ははは……と、乾いた笑いが出て、そのあと、また咳き込んだ。
「逃げたいな……」
ぽつりと、呟く。
「なにもかも捨てて、どこか遠くに行きたい……。だけど、この家からどこかへ逃げる……なんてことが、わたしにできるの……?」
ため息とともに、また一つ咳が出た。
世間知らずの子爵令嬢が、家から逃げたところでどうなるというのか。
貴族の令息や令嬢が通う学校にだって、今年入学したばかりなのだ。家庭教師などをして働くことも難しい。
そもそも紹介状もなく、他家で働くことなどはできないだろう。
グレッグと婚約をしている以上、グレッグ以外の誰かに嫁ぐのも難しい。
修道院に逃げたところで、連れ戻されるに決まっている。
いくら考えても、結局リリーシアに奪われる人生を送るしかない。
「本当に神様や天使様がいて、今すぐわたしを迎えに来てくださればいいのに……」
ため息とともに、ウィスティリアの薄紫の瞳からすっと一筋、涙がこぼれて落ちていった。
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