第46話 永遠と愛・天空の遺跡
黒い羽根に包まれたウィスティリアは目を瞑る。ふわりと抱き上げられて、どこかへと運ばれていくのが分かった。
(ああ……終わった。これでもう、心おきなく死ぬことができる。いいえ、違うわ。ガードルフ様にご助力いただいた対価を、お支払いしないと……)
考えながらも、抱き上げてくれているガードルフのあたたかさを感じていたら、ウィスティリアはそのままうとうとと眠ってしまった。
どのくらいの時間が経ったのか。
眠ってしまっていたウィスティリアの意識がふっと浮かび上がるようにして、目が覚めた。
起きた時の景色は一変していた。
「ここは……?」
『復讐』を果たした教会ではない。
リード子爵家の屋敷でもない。
国も地域もまったく異なるのだろう。
「ああ。だいたい五百年くらい前に滅び、誰も訪れることないまま放置されている天空の遺跡……。ここ最近、私が根城としているところだ」
石や岩。歳月とともに朽ちて崩れ落ち、草木に覆われた住居群や神殿跡。遺跡というよりも廃墟の様相だ。
「人間の住まう山裾からはこの位置は見えないからな。都合がいい」
「そう……なのですね……」
ウィスティリアは周囲をぐるりと見まわした。
遺跡の背後には、更に高い峰がある。その峰にかかるような太陽がまぶしい。空は晴れて雲一つない……と思ったが、雲はウィスティリアの頭の上ではなく、下にあった。
眼下に広がるのは雲海。
その雲海の更に下に、きっと人の住まう山裾があるのだろう。
あまりの高さに眩暈がしそうだった。
「こっちだ。来い、ウィスティリア」
先に進んでしまっていたガードルフの後を慌てて追いかける。朽ちかけた建物群の中を通り、ウィスティリアが今見上げていた峰とは反対側の峰に向かう。そして、その峰の急斜面を上る。
峰の頂上には小さな神殿……と思しき建物が、ぽつんとあった。
「昔ここに住んでいた人間たちは、この建物を『月の神殿』と呼んでいた」
「月の神殿……」
「ああ。反対側の峰には『太陽の神殿』というものもあったが、そっちは完全に崩れ落ちている」
「そうなのですか……」
急斜面を、よたよたとした足取りで上るウィスティリアを危なっかしく思ったのか、ガードルフがウィスティリアを抱き上げた。
「あ、ありがとうございます……」
ガードルフはそのまま翼を広げて月の神殿までふわりと飛ぶ。
「さあ、入れ」
「は、はい……」
神を祭る場所に勝手に入って良いものか……と、躊躇した。
が、神殿の中は、祭壇など神を感じさせるものはまるでなかった。
そこに置かれていたのはウィスティリアの自室と同じような、ベッドやテーブル、長椅子などだけ。実に簡素な空間だった。
「あの、もしや、ここは……」
「だから、私が根城にしている場所だ」
(ガードルフ様の私室……)
ほけっとした目で、ウィスティリアが部屋の中を見ている間に、テーブルには真っ白なクロスがかけられ、そして、その上にはワイングラスが二つと赤ワインまでもが現れた。
(何もないところから現れるなんて……)
文書の偽造や顔の老化だけでなく、なにもないところからワインを出現させるくらいはガードルフにとっては呼吸をするように行えることなのだろう。
と、思っているうちに、グラスにワインが注がれる。
「さあ、ウィスティリア。『復讐』を果たした祝いだ」
「あ、ありがとうございます……っ!」
受け取ったワイングラスを掲げるようにして持つ。
「頑張ったな、ウィスティリア」
笑みを浮かべたガードルフが、グラスに入ったワインを飲み干した。
「……ガードルフ様のおかげです。あなた様のご助力がなければ、きっとわたしはなにもできなかった」
ウィスティリアもワインを口にした。渋みや酸味の少ない、軽やかな口当たり。甘美な香りが口から鼻へと抜ける。
「そんなことはないだろう。私は手を貸しただけだ。事を成したのはウィスティリア、お前自身だ」
楽しげな様子で、ガードルフは杯を重ねる。
「なかなか面白かった。だが、本当に、あれでよかったのか?」
「はい?」
「もっと絶望をさせるとか、苦しめるとか。そういう手段を使っても良かったのだが」
ウィスティリアはうっすらと微笑んだ。ワインを飲んだせいか、頬が上気し始めている。
「あれでよいのです。リリーシアもグレッグ様も。希望があると見せかけて、実は希望などではない。絶望を更に深くするためのものでしかないのですから」
眉を上げたガードルフに、ウィスティリアが言う。
「そう……ですね、グレッグ様の場合でお話しますと、リリーシアにキスをすれば、老化が治る。だったら、それをするしかないと普通は思いますわよね」
「まあ、そうだろうな」
「だけど、老婆の顔を持つリリーシアにキスをすることは、グレッグ様には無理でしょう。決死の覚悟で唇を触れさせたとしても、そこに真実の愛はない」
「あー、愛する気持ちがなければ若返りはしないからな……」
「ええ、そういうことです。戻るための方法がわかっているのに、それをすることができない……。うふふっ」
嗤ってざまあみろと言った後、ウィスティリアは顔をしかめた。
「……リリーシアは、もしかしたら、希望に手が届くかもしれません。いえ、寧ろ、そうなってほしいという気持ちが……わたしの中にあるのかもしれません。これまで奪い続けてきただけの自らの行いを悔いて、これ以上、誰からも何も奪わず、感謝の心を持ってこの先の六十年を生きてくれるのならば……」
以前も考えた。老婆の顔になっても、治るための方策はある。絶望の中にある希望。だけど、その希望すら、絶望の一部。希望があるからこそ、絶望が長引くのだと……。だが……。
「リリーシアだって、一度や二度くらいは、心から本気で相手に対して感謝をするかもしれない。だけど、百よりも、更に多くの数……本気で感謝をしないと元の若い顔には戻らないとしたら……。あの癇癪持ちのリリーシアに、それができるのかしら……。わたしは、リリーシアに、それを……して……もらいたいのかしら……」
リリーシアにどうなってほしいのか。
ただ老化した顔を嘆くだけの人生を送らせたいのか。
それともこれまでの行いを悔いて、奪うことはせずに、感謝の心を持った大人へと成長してほしいのか。
何度考えても、答えは出なかった。
「リリーシアがどちらの人生に進めば、わたしは心の底からリリーシアに対してざまあみろと叫べるのか……、わからないのが悔しいのですけどね」
ガードルフは思った。
妹に対する『復讐』とは、その本当の『復讐』は……。
わがままで、癇癪持ちの妹が、まともな人間になるのは……ひどく困難な道だ。
それを、妹に自覚させ、嫌だと言っても強制的に行わせることが本当の『復讐』なのではないのかと。そこまでしてでも、妹を大人にさせたいのではないのかと……。
けれど、思ったその言葉を、ガードルフは言わなかった。
ウィスティリアは、ふうっと息を吐いてから、グラスの中のワインを飲み干した。
甘い、香り。
ウィスティリアの国では、貴族学園に入学すればもう、社交の一環として酒にも慣れていくよう指示される。
だけど、まだ、飲み慣れていないウィスティリアには少しばかり刺激が強かった。胸が、腹の奥が、熱い。酩酊しそうだった。
「……ですが、これでいい。わたしは満足、しました。あとはガードルフ様、あなた様にこれまでしていただいた対価をお支払いして、わたしは人生を終えたいと思います」
年が変わるまで、あと十日もない。
更に新年になれば、最初の三日月の日まではもっとわずかな期間。
それが、ウィスティリアの寿命だった。