第38話 二度目の人生・ありがとうは希望か絶望か
「……まさか、リード子爵の病が本当だとは思いもしなかった」
「あら。診断書も偽造と思っていらっしゃいました?」
「正直に言えば、そうだな……。だが、今のリード子爵を見れば。偽造は婚約や婚姻の届などだけで、医師の診断書は本物であったか……」
息を吐くルーナンド伯爵にウィスティリアは「嘘の中にもある程度の本当を交ぜておくと、全て真実に見えるでしょう?」とだけ告げた。
医師の診断書なども、もちろんガードルフによる偽造なのではあるが。だが、それは言う必要のないことで。
ウィスティリアの問いかけに、ルーナンド伯爵は頷いた。
「父に関することはこれで終わりましたので。次はリリーシアとグレッグ様の結婚式ですね。ああ、その前にリリーシア、こちらにいらっしゃい」
ウィスティリアは、グレッグにまとわりついていたリリーシアを呼ぶ。
「はあい、お姉様! なあに?」
トコトコと、リリーシアがウィスティリアに近寄ってきた。
「さあ、グレッグ様のお父様にきちんとご挨拶をしなさい」
「えっとぉ、なにを言えばいいの?」
首をかしげるリリーシア。
「……グレッグ様と結婚すれば、ルーナンド伯爵はあなたの義理のお父様になるのよ。それはわかるわね?」
「うんっ! わかるわっ!」
「これから、きっと、たくさんリリーシアを助けてくれるわ。だから、よろしくお願いしますと『ありがとう』を言いましょうね」
リリーシアは幼い子どものようにじーっと、ルーナンド伯爵を見上げる。
まっすぐな視線。邪気など欠片もない単純さ。
ルーナンド伯爵は戸惑った。
なんなのだろうこの娘は。貴族の、十四歳の令嬢とは……、とてもではないが思えない。
「グレッグ様のお父様、リリーを助けてくれるの?」
「……あ、ああ。直接手助けするのはカイトだが……。もちろん義理の父親として君を支えるとも」
「よろしくお願いします! ありがとう!」
ウィスティリアは父親も母親も排した。まもなく死ぬ自分に代わり、グレッグに妹を守らせようとしている。が、グレッグではどう考えても力不足のため、カイトという、グレッグの兄までをも取り込んで、妹を守ろうとしているのだろうか……。
そんなふうに、ルーナンド伯爵はウィスティリアの言動を好意的に理解しようと思った。
だが、なんとなく、違和感のようなものが肌にまとわりつくのは否めない。
「ふふっ! ちゃんと言えたのね。えらいわ、リリーシア」
「えへへへへへ」
「これからも、たくさん『ありがとう』を言ってね」
「うんっ! ウィスティリアお姉様も、ありがとうっ! お姉様のおかげでリリーはグレッグ様と結婚出来て、このお家も継げるのよね」
「そうよ、リリーシア。わたしはもうすぐリリーシアの側には居られなくなるから。だから、リリーシアを助けてくれる皆様に感謝の気持ちを持って、たくさん『ありがとう』を伝えてね。そうすれば、皆様気分よくあなたを助けてくれるはずだわ」
素直にウィスティリアの言うことを聞いて、リリーシアは『ありがとう』を繰り返す。
まるで、親が幼い子にする躾のようだ……。おかしなことはしていない。むしろ、今まで両親がリリーシアに対して行ってこなかった、常識をいうものをおぼえさせているのかもしれない。ルーナンド伯爵は、覚えた違和感をそんなふうに納得することにした。
(リリーシアにあと何回言わせることができるのかしら……。繰り返し言わせて、リリーシアが『ありがとう』という言葉を当たり前に発するようにさせないと……)
リリーシアに『ありがとう』と言わせるのは、第一に使用人たちや今後リリーシアに関わる人たちのためだ。
わがままで、欲しがりのリリーシア。
モノを与えていれば、機嫌よくにこにことしているが、一度癇癪を起せば、自分の欲しいモノが手に入るまで、泣き叫び、咎めた相手に噛みついたりもする。
癇癪を起したリリーシアをなだめるのは相当な労力がいる。
けれど、常日頃から『ありがとう』の言葉でもかけてもらっていれば。
少しくらいは、心理的な負担は減るかもしれない。
が、そもそも、リリーシアが奪うことを止めてくれれば……という思いもある。
(リリーシア。あなたがただ『ありがとう』を言うだけではなく、心の底から相手に感謝することができるようになったら……。相手に対する感謝の心を理解できれば……奪うようなことはしなくなるかしら……? ううん、きっと無理でしょうけどね。でも……。ああ、リリーシアに関しては、まだわたしにも迷いがある……。だけど、ううん、これでいいの……)
心のどこかで、願っているのかもしれない。
いつまでも幼い子どものままではなく、リリーシアが大人になることを。
(……いいえ、これは単なる『復讐』の手段に過ぎない。絶望の中の、ちょっとした希望。希望があるからこそ、絶望が長引くの……)