第36話 二度目の人生・ごきげんよう
「ああ、そうね、リリーシア。プレゼントは大事よね」
低く笑って、ウィスティリアはそのまま父親の手首をつかむ。
父親の指にはめておいたリード子爵家の印章。それを無造作に引きぬく。
もちろん父親は無反応だ。
「はい、リリーシア。大事な大事なプレゼント」
ウィスティリアは今度はリリーシアの左手をとる。ピンク色の石がついている指輪。グレッグからのプレゼント。それがはめられているのと同じ指に、父親の指から抜き取ったばかりの印章を嵌める。指輪は父親の指のサイズに合わせているので、リリーシアの細い指ではぶかぶかだが、まあ、いいだろう。
「これはね、リリーシアが、このリード子爵家の当主であると証明するモノ。大事な指輪。当主の仕事にも必要なの」
「おしごとぉ? リリーにできるの?」
「ええ。大変なところはグレッグ様のお兄様……カイト様がね、リリーシアのために整えてくれるわ。リリーシアはね、カイト様が持ってきてくれた書類に、印章を押すだけよ」
「印章? 押すの?」
「そうよ」
「わあいっ! 楽しそうっ!」
手を振り上げて飛び跳ねたリリーシア。その指から印章が抜けた。
印章は、カランと音を立てて、床に転がる。
「ああ……、お父様が指にはめていた印章だから、やっぱりリリーシアの指には大きすぎるのよね……」
言いながら、印章を拾い上げるウィスティリア。
「そう……ね。この印章にチェーンを……、きれいな銀か金のチェーンをつけてからリリーシアにあげるわ。ネックレスみたいに首に下げるといいでしょう」
「素敵っ! ありがとう、ウィスティリアお姉様っ!」
「あら、リリーシア。ちゃんと『ありがとう』が言えたわね」
「うんっ! リリー、いい子だから、ちゃんとありがとう言えるのっ!」
ウィスティリアも微笑んで、そうしてリリーシアの頭を撫でてやった。
「さて……、あまりルーナンド伯爵がたをお待たせするのもいけませんわね。お父様……」
ウィスティリアは父親の前に立つと、その頬を軽く叩いた。パンッという乾いた音が、ホールに響く。
「さあ、正気に戻ってくださいませ、お父様」
頬を叩かれて、父親が「乗っ取る……つも、り……だろ……、あ?」と、先ほど言いかけた言葉の続きを言いかけて、その言葉を止めた。
きょろきょろと、ホール内を見回す。
リリーシアの誕生パーティにと招待したはずの客たちがいなくなっている。
「客は……、どこに行った……?」
きょろきょろと見回しても、当然招待客たちはいない。
「お父様の意識が途切れている間に、皆様お帰りになりました」
ウィスティリアが事務的に、言った。
「帰った……? いつの間に……?」
そんな父親を、母親が気味悪げに見た。
「あなた、意識が途切れていたのをお分かりにならないの?」
「そんな馬鹿な……」
「馬鹿な……ではないですわ。それにあなたの指からウィスティリアが印章を引き抜いたのも、覚えていませんの?」
「い、印章……」
手を、指を、顔の前に持ち上げて、見る。
指輪の跡が残っている自分の指。
しかし、はめているはずの印章がない。
「はい、お父様。わたしが先ほどお父様の指から引き抜きました」
ウィスティリアが握っていた掌を開いて、印章を父親に示す。
「これはリリーシアに渡します」
「なんだと⁉」
「書類上、既にリリーシアが、貴族院に許可された現リード子爵ですから」
あっさりと告げて、ウィスティリアはルーナンド伯爵とカイトに向きなおり、深々と頭を下げる。
「お待たせいたしました。では、先ほどカイト様からのご提案通り、父のことはよろしくお願いいたします」
ルーナンド伯爵の合図とともに、玄関ホールにはルーナンド伯爵家の使用人たちが入ってきた。
「な、何だお前たちはっ!」
その使用人たちに腕を掴まれて、ウィスティリアの父親は混乱のまま怒鳴った。
「お父様はこのまま療養所に行くのですよ」
ウィスティリアの元々の予定では、この誕生パーティで、父親からこの印章を盗み、失踪する。印章を返してほしければ、リリーシアをリード子爵家の当主にして、父親には引退を迫る……という乱暴なものだった。これを認めなければ、印章など、どこかに捨てると。
けれど、そんな乱暴な計画がうまくいくはずはないと考えたルーナンド伯爵は、ウィスティリアを失踪させるのではなく、ウィスティリアの父親を退場させることを考えたのだ。
それが、カイトから告げられた突然の計画変更の内容だった。
(細かい打ち合わせもないままの、ぶっつけ本番……。それでもうまくいって良かったわ……。まあ、色々と穴もある計画だったかもしれないけれど……お父様を排除できたのだから、多少の矛盾があったとしても、いいわよね)
失踪案のほうも、ガードルフがいるから何とでもなると思っていた。けれど、カイトから告げられた計画案のほうがより確実だと判断した。
(計画が不十分だった点に関しては、ガードルフ様のお力をお借りしてしまったけれど……)
もちろん父親が、途中で意識を失ったような状態になったのも、ガードルフの仕業だ。
(お手を煩わせてしまった分の『対価』は、きちんと支払います)
姿を消しているガードルフはウィスティリアには見えはしない。だが、近くにいることはわかっている。
心の中で、ガードルフに対する感謝を述べると、ふわっとした風が、ウィスティリアの頬をそっと撫でた。
「では、お父様。ごきげんよう。療養所でゆっくりとお過ごしくださいませ」